25 奪われた聖女
神殿の前に、ファナたちを乗せた馬車が止まる。
出迎えに現れたのは、大神官セラフィオスと数名の高位神官たちだった。
「お待ちしておりました。エリオット殿下、ファナ様――本日の良き日を迎えられましたこと、心よりお祝い申し上げます」
セラフィオスは恭しく頭を下げた。
その声音には儀礼以上の、心からの祝福が滲んでいて、ファナの胸はじんわりと温かくなる。
「聖女様は別室にてお召し替えを。どうぞ、こちらへ」
高位神官の一人が進み出る。
エリオットは、少し名残惜しそうにファナの手を握ったが、静かにそれを解いた。
ファナは、小さくうなずいて馬車を降りる。
案内されたのは、聖女専用の控えの間だった。
重厚な調度品と香木の匂いに包まれた空間は、王妃たちの私室にも劣らぬ格式を備えている。
「ただいま、本日ファナ様のお世話を担当する侍女がまいりますので、それまでお待ちください」
神官は丁重に一礼し、扉を閉じた。
しん、と静まり返った室内で、ファナは一人、手持ち無沙汰に部屋を見回す。
あめ色に光る猫足のテーブルに手を伸ばし、そのなめらかな木肌を撫でると――
なぜか、故郷の家の太い柱を思い出した。
(きっとこのテーブルも、長い年月を生きてきたのだわ)
そんなことを考えていると、扉が控えめに開いた。
「本日、聖女様のお世話をさせていただきます、リュシアと申します」
扉の前に、二人の侍女が立っていた。
前に立つ方が礼を取り、後ろの侍女は無言のまま、手を重ねた姿勢で佇んでいる。
ファナは、にこやかに微笑んだ。
「エル――エリオット殿下の聖女、ファナと申します。本日は、よろしくお願いいたします」
一瞬だけ、口元に馴染んだ愛称がこぼれそうになる。
慌てて言い直しながら、ファナは軽く頭を下げた。
だがその背後で、リュシアは静かに扉を閉め、内鍵を回す。
カチリ――という小さな音に、ファナはわずかに眉をひそめたが、すぐに振り向く暇もなかった。
無言で近づいてきたもう一人の侍女が、エプロンの下から小さな魔具を取り出し、迷いなくファナの下腹部に押し当てたのだ。
「――――っっっ」
身体中を這い回るような異様な魔力。
力が抜け、ファナは膝から絨毯の上に崩れ落ちた。
「野蛮な魔力の使い手ほど、効くって聞いてましたけど――本当ですのね」
赤すぎる口紅を引いた侍女が、楽しげに笑う。
「昏倒するって話でしたが、意識は残ったみたい」
リュシアはしゃがみこみ、ファナの髪を無遠慮に掴み上げる。
「あ……あなた……たち……」
ファナがうめき声を上げると、リュシアの背後からもう一人の女がしゃがみこむ。
「こんにちは。ごきげんよう、ファナ様。覚えてらして?」
挑発するような甘ったるい声。
「アルセノール公爵令嬢、エリザベータですわよ?」
目の前に顔を寄せた女は、かつて宴席で対面した、あの令嬢だった。
「な……何を……」
「なにを、って――」
エリザベータは、頬を引きつらせながらも笑った。
「あなたを、お迎えに上がりましたの。今日、契約の儀を前に、野蛮な身であることに恐れをなして、逃げ出した――ということに、して差し上げますわ」
ファナの視界が歪む。
「行先も決まっておりますのよ?さる高位の神官様が、あなたを所望なさっているの。……ふふ、野蛮人には、もったいないくらいの栄誉ですわね」
そう言いながら、エリザベータは唐突に、ファナの頬を平手で打った。
鋭い音とともに、いつかの夜、エリオットに贈られた銀の耳飾りが弾かれ、宙を舞った。
「……っっ」
ファナの小さな身体は、為す術もなく転がる。
「ほんっっっとうに……なんで、あんたなんかが!!」
怒号とともに、次々に暴力が振るわれる。
ファナは力の抜けた体で、ただ必死に耐えた。
やがて、エリザベータは荒い息を吐きながら、ファナを仰向けに寝かせる。
「……本当は、こんな子に魔力なんて使いたくないのだけれど」
彼女は魔具を取り出し、もう一度ファナの下腹部に押し当てた。
「せめて、礼儀正しく眠りなさいませ。――ごきげんよう」
魔力が叩き込まれる。
ファナの刺青が赤く光り、全身に痛みが走った。
そして、ファナの意識は、闇に落ちた。
「気は済みましたかね、お嬢様」
エリザベータの背後に、音もなく、扉を開けることもなく、一人の神官が立っていた。聖寮部のネリファス神官である。
「……わたくしが、こんな野蛮な方に興味など、微塵もありませんのよ?」
エリザベータは言っていることの割には肩で息をしながら立ち上がる。ネリファスは面白そうに鼻で笑うと、床で気を失っているファナを軽々と担ぎ上げた。
「では、こちらが偽装した置手紙です。こちらを置いてすぐに退出なさいませ。じきに本来の侍女がやってまいります。」
ネリファスは懐から一通の手紙を取り出すと、エリザベータに差し出した。が、エリザベータは受け取らず、代わりにリュシアが受け取った。
「それでは失礼いたします。くれぐれも姿を見られぬよう、ご退出ください」
ネリファスは恭しく言うと、フッと光に包まれ、ファナごと姿が見えなくなった。
「すごいですね。転移の術なんて、使える方は初めて見ました。ネリファス神官は、何者なんでしょう……」
リュシアは渡された封筒を猫足のテーブルに置きながら言う。
「……さあ?神官なんて興味もないわ。行きましょう」
エリザベータは何食わぬ顔で内カギを外すと、リュシアを従えて出て行った。
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「エリオット殿下、ファナ様の控室にこれが……」
困惑しきった表情の侍女がエリオットの控室に訪れて、おずおずと二つ折りにされた便箋を差し出す。
エリオットはセルジュと顔を見合わせると、その便箋をセルジュが受け取った。
便箋を広げ一読すると、眉をしかめてエリオットに手渡す。
エリオットも便箋に目を通すと、みるみる顔色が青ざめ、手がガタガタ震え出した。
便箋にはたどたどしい字で、次のように書いてあった。
――エリオット殿下
すみません。
わたしは、儀式に耐えられそうにありません。
このまま姿を消させていただきます。
本当に、ごめんなさい。
ファナ
「ファナ様が出奔なされた?まさか――」
セルジュが思わずつぶやくと、エリオットはそれに被せるように叫んだ。
「ちがう!ファナじゃない!おい、ファナの控室には誰もいなかったんだな?!」
「はっ……はいっ」
エリオットに怒鳴られた侍女は思わず首をすくめる。
「セルジュ、ファナは文字を絶対に書かない。書けないんじゃなくて、書かないんだ!こんなものが置いてあるなんて――ファナが誰かに連れ去られた?!」
「……神殿の中ですよ?!そんな、まさか……」
セルジュがにわかに信じがたいと目を見張る。
エリオットは立ち上がると、目をつぶり精神を無理やりにでも落ち着けるよう深呼吸をして、集中した。
何事か口の中で呟くと、足元に魔法陣が浮かび上がる。
――クソ、耳飾りの位置情報を知らせる術式は機能していないか……でも刺青の回路を刻んだから、少しはファナの気配は感じ取れる……待ってろ、ファナ。必ず――取り戻すから!
心の中で叫んでエリオットは目を開く。
「ファナは無事だ。殺されてはいない。この王都からも連れ出されてはいない、と思う。」
エリオットがセルジュに言うと、セルジュは驚いた顔をした。
「殿下、ファナ様に追跡魔法を?」
「まあ、そんなところだ。レオナルトはもう神殿に来ているか?」
エリオットは部屋を出ようと扉へ歩きながら言う。その後をセルジュは慌ててついてゆく。
「はい、もう到着されているお時間だと思います。」
エリオットはそのまま数部屋先のレオナルトの控室にノックもせずに突入した。
「レオナルト!!」
扉を乱暴に開けて入って来た弟に、レオナルトは少し驚いた顔をする。彼の前ではエリオットは常に斜に構えて冷静沈着な男だった。その弟が、ノックすら忘れて、切羽詰まった表情で飛び込んできたのだ。レオナルトも瞬時に何かが起こったのが分かった。
「ファナがさらわれた!!おそらく、神殿内にはもういないっっ、頼む!すぐに王都を封鎖して、騎士団を派遣してくれっっっ」
エリオットが取り乱しながら叫ぶ。
レオナルトは瞬き一つ分だけ間を置き――すぐに腰を上げた。
「わかった」
短く、鋭い声だった。
レオナルトは名誉騎士団長として緊急時の騎士団の指揮権も持っている。
「ヴェイル!王都封鎖、第一・第二騎士団を出動。さらに、第三・第四騎士団には王都内の巡回と臨検を強化させろ。不審者を見つけ次第、即刻拘束だ!」
彼の侍従は、無言で一礼すると、音もなく扉を抜けていった。
エリオットはかすかに顔を上げ、息を荒くしながらうなずく。
「……ありがとう」
その声は震えていたが、紛れもない、本心だった。
レオナルトもまた、ちらりとだけ、弟を見つめ――
すぐに視線を逸らした。
「お前も自らファナを探すのだろう?俺の手勢を連れていけ。自慢の精鋭だ。腕は立つから遅れはとらん。」
レオナルトの傍に控えていた護衛の騎士が三名、胸に手を当て騎士の礼をする。
「恩に着るよ……」
エリオットは泣き笑いのような顔で礼を言って部屋を出る。
その背中をレオナルトは黙って見送っていた。
レオナルトの控室を出たエリオットは、今度はファナの控室まで行く。彼女の控え室には、大神官のセラフィオスと、今朝彼にを出迎えた神官たちが集まっていた。
「エリオット殿下。置手紙はご覧になられましたかな?行き先に心当たりは――」
セラフィオスが言いかけたのをものすごい気迫でエリオットは黙らせる。
「あれは偽物だ。ファナは文字は書かない。誰かがファナが出奔したと見せかけたんだ。」
「な……なんと……」
セラフィオスは絶句してしまう。
エリオットは神官たちにかまわず、部屋の中をくまなく探し始めながら話す。
「レオナルトに支援を要請した。王都の封鎖と、騎士団による捜索が始まっている。悪いが、体裁を気にしていられる状況じゃない。」
「うむ……当然ですな……」
セラフィオスは難しい顔でうなる。
「転移魔法の術式の残滓が感じられる。ああ、それに、晩餐会の水盤と同じ禍々しい魔力の痕跡もだ。転移先の追跡は――だめだ。かく乱されている。セラフィオス、転移魔法を使える神官は?」
「うむ……5年前に死去して以来、誰も……」
「ちっ。能力を隠していたか……」
エリオットは這いつくばって魔法の残滓を確認していた床から立ち上がり、あたりを見回す。
その時、視界に何か輝くものが入った。拾い上げると、それがすぐにファナの耳飾りの片方だという事が分かる。
彼はそれを両手で包んで、口の中で呪文を唱え、手を開く。
すると両掌の上に映像が浮かび上がった。
「殿下……それは……」
セラフィオスが近づいてきて映像をのぞき込んだ。
「ファナの耳飾りには、いくつもの術式を刻んであるんだ。位置情報を知らせる術式は消されたけど、この風景を記録するのは気が付かれなかったみたい……まあ、あんまり長時間は記録できないんだけどね。」
「殿下……とんでもない術式を……」
映像の中では、二人の侍女がファナを痛めつける映像が流れている。角度が悪く、顔がはっきり見えない。エリオットは憤怒の表情で黙って唇をかみしめて見ていた。
やがて侍女の背後に男が現れる。
「ネリファス神官?!」
セラフィオスが叫ぶように言った。
続けて、侍女の顔も向きが変わってはっきり見える。
「これは――アルセノール公爵令嬢だね……もう一人は彼女の侍女かな?チッ、こいつらがグルだったんだ。」
エリオットは吐き捨てるように言った。




