24 エルの妻になる日
カーテンの隙間から、朝の陽ざしが差し込む。
昨夜、エリオットが二人のために張った防音魔法が、朝の光とともに静かに消えて、朝鳥の鳴き声が聞こえてきていた。
ぼんやりと覚醒したエリオットは、昨夜のことを思い出しながら、隣で眠るファナを見やる。
ファナも彼の気配で目覚めたのか、ゆっくりとまぶたを開いた。
「ファナ、おはよう」
とろけてしまいそうな笑みを浮かべて、エリオットは素肌に触れるぬくもりを抱き寄せようとした。
が、ファナはその腕をするりと抜け出すと、ベッドの上に裸で正座し三つ指をつく。
「は? なっ?どっ……どうしたの??」
何が起こっているかわからないエリオットも慌てて起き上がる。
「昨夜は、『初夜の儀』まことにありがとうございました。私は、この身、この魂、この命のすべてを、本来なら、神に捧げるはずでした。けれど、今は、あなたに――エルに捧げます。私のすべては、あなたのものです。」
ファナが深々と身をかがめ、こうべを垂れた。
その様子に、驚いていたエリオットも、「これはファナの村での作法なのだ」と納得し、優しくその肩に手をかける。
「うん、こちらこそありがとう。僕も――僕の全ても、ファナ、君のものだ。君に全部捧げるよ。」
もう喜びがあふれて、どうしようもないという顔で、エリオットが言うと、ファナも嬉しそうに顔をあげる。
「それでは、『初夜の儀』の締めくくりといたしまして、エルの部族の作法に則った、歯を抜いてください。」
「………………………………………は?」
笑顔のまま固まったエリオットに、ファナは嬉し気に唇を横に引いて歯を見せる。
健康で、真っ白い歯が、朝日に輝いていた。
「……素敵な殿方へ嫁いで、その村の作法に則った歯を抜き、嫁として迎え入れられる……私もそんな普通の幸せに、憧れがなかったわけではないのですよ。カムナギィになったときに、そんな幸せは諦めましたが、エルの妻となった今、その夢が現実のものになると思うと嬉しくて――」
ニコニコと語るファナに、エリオットが待ったをかけた。
「……ごめん、歯は抜けない……」
「え……」
二人の間で時が止まる。
「ごめん、君の願いでもそれだけは……」
ファナの表情が抜け落ちた。
絶望するファナに、エリオットは心底申し訳なさそうに、それでも譲れないと首を横に振る。
「まずね、僕の部族……って言ったら、王家になるのかな。王家には、婚姻に伴って歯を抜く習慣はない。それどころか、王族は自分の身体を傷付けることは、女神への冒涜とまで言われる。刺青を入れたり、治療目的でもなく歯を抜くことは推奨されないんだ。」
「そう……なんですか?刺青も、本当はだめ、なんですか……?」
ファナはうなだれ、ショックから立ち直れないまま力なく問う。
「うん。でも、僕はファナの刺青、綺麗だと思っている。この世界に来た時からあったものだから、僕はそれをファナの一部だと思っているし、ファナが大切にしていることだってのも分かってる。」
「じゃあ――」
顔を上げたファナの視線と、エリオットの優しい、でも強い眼差しが交差する。
「でもね、じゃあ、こう考えたらどうかな?僕の部族では歯は抜かない。抜かないことが、僕に嫁いだ証だって。」
「抜かないことが……エルに嫁いだ証……」
ファナが、まだ表情を取り戻せないまま、口の中で呟く。
「うん……歯を抜かないことが、
僕に嫁いだ証だって、思ってくれたら嬉しい。」
エリオットは、繰り返して言い、安心させるように柔らかく微笑む。
しばらく考えて、ファナは急に口を手で覆って、むせび泣き始めた。
「どっどうしたのっっ??納得いかないなら――」
ファナの突然の涙に、エリオットは慌てふためくが、彼女は泣き顔を彼に向けて笑顔を作る。
「エルに嫁いだ証……私、エルに嫁いだんだ……」
「そうだよ。君はもう、カムナギィでもミトノカビメでもない。僕――エリオット・ヴァルトリアの“聖女”であり“妻”だよ。」
エリオットはファナの髪を撫でながら、優しく抱きしめて言う。
ファナは彼の腕の中で、
「エルの……妻……」
と、なんども呟きながら、胸にじんわりと広がる幸福を噛みしめる。
――これでいいんだ。
歯を抜かなくても、ちゃんと、私はエルと結ばれた。
ふと、ファナは顔を上げ、くすりと笑った。
「もう、歯は抜かなくていいです」
そう言って、涙まじりに、幸せそうに笑うのだった。
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セレノア宮の一日が本格的に始まる前に、ファナは自室へと戻った。
今日はいよいよ『契約の儀』である。
朝食の後、エリオットの身支度をしに来たセルジュは、にやにやを必死で堪えながら、一礼するふりをして、ぼそっと言った。
「……とりあえず、おめでとうございます、殿下。――まったく。前夜にそんなに盛り上がって、今日の契約の儀、どうすんですか。」
すべてお見通しである。
「色々と、事情があったんだよ、いろいろと……」
エリオットはきまり悪そうに目を合わせない。
「まあ、今日契約が成れば、晴れてファナ様は名実ともに殿下の伴侶となられます。……正直、うれしいんですよ。」
セルジュは主人に上着を着せかけながら言う。
「……近頃の殿下が、正直目に余るものであったことは否定できませんが――殿下がいかに聖女を待ち焦がれていたか、私どももよくわかっているつもりです。殿下の聖女様が、ファナ様のような方で本当に良かった。」
エリオットの上着を整え、最後の襟元を軽く整えたあと、
セルジュは一歩下がり、深く一礼する。
そして、静かに、かすかに声を震わせながら言った。
「今日この日を迎えられましたこと、心より、お慶び申し上げます。……殿下が、この世界にたったひとり、隣に並び立つ方を得られたこと、侍従として、これ以上の喜びはございません。」
エリオットは、静かにうなずいた。
朝の陽射しを受けたその横顔は、まぎれもない“王子”の横顔だった。
セルジュを伴って玄関ホールへ赴くと、やがて、階段の上にファナの姿が現れた。 聖女の法衣に身を包み、エリオットが贈ったアクセサリーを装い、聖女召喚祝賀晩餐会で授与された聖杖を手にしている。
一歩一歩、踏みしめるように降りてくるその姿は、かつてのどこか儚げだった少女ではなかった。彼のものとなったという、心からの誇りと幸福が、内側から柔らかく、眩しいほどに輝いている。
ファナは、まっすぐにエリオットのもとへと歩いてきた。
エリオットは一歩進み出る。
宝物をそっと求めるように、右手を差し出す。
「きれいだよ、ファナ。今日は一段ときれいだ。」
まぶしそうに目を細めるエリオットに、ファナははにかみながら微笑み、そっと彼の手を取った。
「……エルも、とっても素敵です。本当に……私の自慢の“王子様”です。」
その言葉に、エリオットは一瞬、驚いた顔をした。 ファナが彼を"王子様"と呼んだのは、初めてだった。
――悪くないな……いや、最高だよ!!
他の誰かに言われたら虫唾が走るけど、ファナに言われたら何だってできる!!
心の中で歓喜しながら、つい勢い余って言いかけた。
「ファナ、儀式が終わったらすぐに帰ってこよう!そしたらまた二人きりで――」
「殿下、時間でございます。」
セルジュの冷静な声が、エリオットの暴走をピシャリと止めた。
エリオットは、ちらりとファナの顔を見た。
――まずい。さっきの浮かれっぷり、絶対見られてた……!
顔に出る焦りを隠すように、わざとらしく咳払いをひとつする。 それから、何事もなかったかのように表情を整え、まさに"王子様"らしい、自信に満ちた微笑を浮かべた。
馬車へと向かう道すがら、セレノア宮の侍女たちが二人を見送る。誰も声を出さない。ただ静かに、深く、祈るように頭を垂れていた。
その最前列に立つ侍女長が、厳粛な面持ちでファナに言葉をかける。
「ファナ様、申し訳ありません。いまだ正式な契約前ゆえ、私ども侍女一同は、セレノア宮所属の者として、神殿の儀式にお供することができません。儀式でのお召し物は、神殿にてご用意がございますので、どうかご安心くださいませ。」
ファナは一瞬戸惑い、それから、小さく深呼吸して、自分を励ますように微笑んだ
「わかりました。……必ず、エルの妻になって、帰ってきます。」
侍女長はその言葉に、目を潤ませながらも、静かに頭を垂れた。
「お帰りの際は、セレノア宮一同、心を尽くしてお迎えいたします。
どうか、無事に儀式が成りますよう――」
ファナとエリオットは、軽く頷き合い、馬車へと乗り込んだ。
扉が静かに閉ざされる。
馬車は、契約の儀式へと向けて、静かに走り出した。




