23 刺青の夜
夜、ファナはエリオットの部屋の前に立って、深呼吸してから扉をたたいた。
「エル、ファナです。」
今日の夕食には、エリオットは姿を現さなかったので、午後中庭でわかれて以来、数時間ぶりだ。
侍女長は、「契約前の最後の晩餐なのに」と若干憤っていたが、彼がどれだけ真剣に考えてくれているか、ファナには分っていたので、むしろとりなす側となった。
人の動く気配がして、少し待つと静かに扉が開かれた。
「入って……」
強い覚悟を湛えた瞳で、エリオットがファナを迎え入れる。
ファナは、ごくりとつばを飲み込んでから、彼の部屋に足を踏み入れた。
「気分を落ち着けるお茶……淹れたから、飲んで。」
エリオットは彼女をソファに座らせると、ハーブティーを手ずから淹れて差し出して、自分も彼女の隣に座った。ファナは、エリオットの体温を身体の片側に感じ、安堵と共に、得も言われぬ高揚感がひたひたと沸き上がる。
「ファナ……実は、神殿で契約の儀が聖女の肉体を再編成してしまうって聞いてから、ずっと考えていたんだ。」
エリオットは膝の上で手を組んで、静かに話し出した。
「君は、契約で自分が変わってしまっても構わないって言ったけど……やっぱり、僕は嫌なんだ。誤解をしないでほしいんだけど、君の変化を否定するわけじゃない。でもね、契約による再編成を考えれば考えるほど、それがファナに一方的な変化を強いているようにしか思えない。」
「そんなことない」と言いかけたファナに、エリオットは首を横に振ってから続ける。
「それだけじゃない。実は、先日もう一度神殿に行って、セラフィオスに記録を見せてもらった。――ああ、別に調査とかじゃなくて、知的好奇心を満たすためって言ってある。そうしたら、いくつか気になる記載を見つけたんだ。精霊魔法やそれに類似した文化圏から召喚した聖女が、どうも魔力系統に不具合を発生させている症例を――、これらの事からも、僕はファナを再編成したくない……そう考えるようになったんだ。」
「でも!契約しなければエルが――」
ファナがエリオットを泣きそうな顔で見上げる。
「そうだね。僕はたぶん魔力が不安定になって死ぬと思う。悪いけど、僕は死にたくない。もっとファナと、ずっと生きていたい。」
エリオットは彼女の腰に手を回して、抱き寄せる。
「だからね、僕は必死で考えていたんだ。そんな時、君が……僕に、刺青を刻む提案をしてくれた。」
彼は、ファナの服の上から、右わき腹に手を這わす。ファナの肩が、ビクッと震えた。
「考えが、舞い降りたんだ……君の新たに刻む刺青を、僕の“魔力の源”と繋ぐ接点として、契約の儀と同時に永続的に接続し、魔力と属性を共有させる。そうすれば、君の身体を再編せずに疑似的とはいえ儀式を成功させられるって……」
「……エルの魔力と……永遠につながって、エルが助かるんですか?」
ファナは全部は理解できていないようで、首をかしげながら聞き返す。
「そうだね。簡単に言ったらそういう事。」
「私の刺青が……そんな、大切なものになれるなら――私、ほんとうに、うれしいです!」
ファナは頬を紅潮させ、笑顔を浮かべる。
しかし、エリオットは浮かない顔でファナを見る。
「でもね……その刺青なんだけど、魔石に術式を書き込む要領を参考に刻もうかと思うんだけど……構造の関係上、骨にまで刻まなくちゃいけないんだ。あばらのあたりは神経が多いから、一番痛い場所な上、僕の魔力を流しながらの施術になるし、術式の構成を邪魔するから、痛み止めも使えない……」
彼は痛みを想像して、少し身震いをした。
「……本当に、かなりつらい施術になると思う……本当は君にそんな思いさせたくないんだけど……これ以上は、思いつかないんだ。それでも君が望むなら――僕に刻ませてほしい。」
「エル、おねがいします。」
ファナは迷いなく答えた。
エリオットは泣きそうな顔をして、彼女を強く抱きしめた。
そのままエリオットはファナを抱き上げて、ベッドまで行く。
ベッドはすでに施術する準備が整えられており、掛布が片づけられ、いくつかのクッションと、施術道具が箱にまとめられて置かれていた。
清潔なシーツの上にファナをそっとおろすと、
「魔力回路の様子を見ながら施術するから、上は脱がすよ。」
声は平静を装っていたが、エリオットの指先はかすかに震えていた。
彼はそっと寝間着の前を開くと、すぐに視線をそらして、必要以上に肌を見ないように努めた。
ファナは素肌に触れた空気に、否応がなく緊張が高まるのを感じる。
エリオットはクッションをいくつかあてがって、ファナの体勢を整え、右わき腹の刺青の空白が真上に来るように調整する。
「どう?苦しかったり、無理な体勢じゃない?」
「う……ん。大丈夫そう。」
ファナが少し身じろぎをして確かめながら答えるのを見てから、エリオットは施術する皮膚を消毒し、箱の中から鋭いキリのような針を取り出した。
「本当に、刻んでしまってもいいんだね?」
エリオットは、針を持った右手から、先端に魔力を流しながら言う。針の先端は、エリオットの魔力の属性を示す、風と水が混ざった青緑色に輝いていた。
「これを刻んだら、もう君は僕から逃げられない。僕は君を、一生、絶対に離さないよ。」
空いている左手を、ファナのへその少し下あたり、“魔力の源”の上に置き、こちらも魔力を流し始める。
「今が、君が逃げられる最後のチャンスだ。」
囁くような声だったが、はっきりと、静かな室内に響いた。
ファナは、幸せそうに微笑んで言った。
「一番痛い場所に、あなたの印を刻んでください。それが私の人生で、たった一つの願いだから――」
最初のひとはりが、肌の上に置かれる。
力を入れて刺し入れると、すぐに肋骨にあたるが、さらに力を入れ骨を削る。
「あっ……ぐぁっっ――」
思っていた以上の衝撃に、ファナの身体が揺れ、目が見開かれる。
エリオットの手が止まったのに気が付いて、ファナはそれでも微笑を作り言った。
「かまわない……つづけて」
エリオットは顔を歪めたが、次のひとはりを刺し込んだ。
ひとはりひとはり、エリオットは、己が考えうる最高の魔法陣を、刻み込む。
施術が進むにつれ、ファナの呼吸が浅くなり、その額には脂汗がにじむ。
――そうとう痛いだろうに……
魔法陣を刻むエリオットも、心が切り刻まれるように思える。
最初のうめき声以来、ファナは声を漏らさなかったが、顔色はどんどん悪くなっていった。
針が差し込まれる痛み。刺し込まれた後の傷の痛み。刻み込まれた骨の痛み。
すべての痛みがとめどなく彼女を襲う。
気を失うこともできない。
――でも、全部受け止めたい……全部……
すべての痛みが意識を覆い尽くした、まさにその時だった。
……ふと、微かなものを感じた。
激痛の海の中に、確かに存在する、ひんやりと優しい――
――あ……エルだ……エルの魔力……
不意に、気が付いた。
激痛の中に、さわやかで冷たい……夏山の朝風のような、エリオットの魔力を感じた。
鮮烈な痛みの中で、その魔力は甘やかで、ファナに彼の存在をありありと感じさせる。
彼と永遠につながれば、ずっとこの魔力に抱かれる。
それは、人生のすべてを差し出すに値する、代えがたいことに思えた。
痛みが意識を、我と彼の境をあいまいにし、恍惚とした悦楽にうっすらとまぶたを開く。
ミトノカビメのあの世とこの世の境を揺蕩う心地は、きっとこのようなものではないか……
ファナの目から、一筋の涙が流れた。
エリオットは気が付いた。ファナの刺青が魔力を帯び、輝き始めたことを。
あと少しで完成する。
額の汗をぬぐい、ふとファナの顔に目をやると、彼女は恍惚の中、うっすらと目を開けていた。漆黒の瞳は怪しい青い光をたたえ、かすかに開いた唇からは、ほのかな燐光と共に、聞き取れないため息のような言語が発されている。
――これは、あの時と同じ……
彼はファナが初めて魔力に目覚めた瞬間を思い出していた。
環が繋がり、彼女の刺青の回路に光が走る。
エリオットは針を置くと、彼女と両手を繋ぎ、自分の魔力を流して回路が繋がっていることを確認する。
「ファナ、終わったよ。回路も正常に繋がっている。今、痛みを取るからね」
エリオットは施術した部位に手を当てて、治癒術式を展開した。
痛みが消えたファナの身体の中には、エリオットの魔力の残滓だけが残った。
エリオットは、痛みが消えた彼女を見下ろした。
ファナは静かに目を閉じ、安らかな息をしていた。
その唇が、微かに動く。
「これで……私は、エルのものです……」
エリオットは彼女を壊れ物のように大切に抱き起すと、そっとその身体を抱きしめる。
「ファナ……ありがとう……痛かったよね」
「ええ……でも、ずっとエルの魔力、感じていたから……」
ファナが甘えるように彼に身体を摺り寄せる。
「どうしよう……もっとエルを感じたい……エルと……つながって、一つになりたい……」
かすれた声で、耳元でささやいた。
エリオットの身体に、甘やかなさざめきが走り抜ける。
彼はゆっくりと息を吐くと彼女の耳にささやき返した。
「いいよ……全部もらうし……全部あげる」
この上なく幸せそうに頬を紅潮させて、エリオットはファナをそっとベッドに押し倒した。
ファナは、何のためらいもなく彼に腕を伸ばし、彼を抱き寄せる。
呼吸も、心臓の鼓動も、境界を失って、ただひとつの存在になっていく。
ファナは、かすかな声で彼の名を呼び求めた。
エリオットは、震えるように答え、ファナのすべてを抱きしめた。
この夜、エリオットは王子ではなく、ファナは聖女ではなく、唯一として刻み込んだ。




