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刺青の聖女と契約の王子  作者: じょーもん
第二章

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22 ファナの決意

 契約の儀を二日後に控えた夜、皆が寝静まった後、ファナはひとりで浴室に向かった。


「ココロトジ、ネトノコロモ。ウチトソト、カナシキコエハ、トドカヌヨウニ――」


 防音のまじないをつぶやいて、外に音が漏れないようにしてから、彼女は髪をほどいて衣服を脱いで、綺麗にたたむと、空の湯船の中に入った。

 浴室の縁に置いてあった手桶を、無詠唱で冷水で満たし、一思いに頭からかぶる。


「―――っっ」


 あえて凍るほど冷たくしてあるその水に、思わず声が漏れそうになるが、彼女は構わずまた手桶を満たす。

 彼女は、何度も何度も自分に身を切るような冷水を浴びせ続けた。


 実は、ファナの水垢離(みずごり)は、今に始まったことではない。

 エリオットとの『契約の儀』が決まった夜から始めて、毎日行っていた。初日は、水音を不審に思った侍女に邪魔されてしまったので、次の日からは防音魔法をかけて行っている。


 ――身も、心も、エルのものになるために……


 冷水を勢いよくかける。


 ――これは、私のけじめよ……


 身体が芯から冷えてくる。手や足先の感覚があいまいになり、唇がわなわなと震える。

 しかしファナの心には、ほのかな、でも確かな喜びの灯がともっていた。


 気が済むまで水垢離すると、彼女はバスタブから出て、姿見の前に立つ。


 鏡の中には、紫色の唇をして、青白い肌をした女が立っている。

 ファナはこの世界に来て、自分の姿を知った。

 もちろん、村では水鏡でだいたい自分の顔は知っていたが、全身をくまなく見たのはこちらに来てからである。


 彼女は、自分の刺青に覆われた身体を見た。

 ファナが運命を背負うはずだった、九つの部族の伝説と神話を現す尊い文様。

 でも、それが不完全なものだと彼女は知っていた。


 ふと、昔の記憶がよみがえる。


 先代のミトノカビメが、いよいよ神の御許に旅立つと、部族を代表するカムナギィが集められた。

 ファナは若かったが、師匠であった村の代表が不慮の事故で亡くなったので、アヌカリ村のカムナギィのまとめ役となっていた。


 ミトノカビメの住む家は、他の村から離れた川の対岸の小高いところにあった。

 ファナが着いた時、生活感のない家の中、先代のミトノカビメは寝かされて、乾いてひび割れた唇に霊薬を垂らされていたその顔は、もうどこか遠くを見ていた。

 ファナが入ってくると、彼女は突然起き上がり、ずるずるとその身を引きずりながら這ってきて、ファナの手首をつかむ。


「オ……ネ……ガ……い……」


 しわがれた、木枯らしのような声で彼女が囁く。

 ファナは目をつぶって深呼吸をし、覚悟を決めた。


「謹んで、お引き受けいたします……」


 ファナが次代のミトノカビメに決まった。


 ファナは彼女を抱き上げると、元の寝床に仰向けに寝かせる。

 ミトノカビメが願ったのは、最後の刺青。

 全身に施されている刺青は、実は右わき腹に手のひらほどの空白がある。

 ここは、ミトノカビメが神との婚姻のために最後にとってある、大事な神のための空白。

 ここを埋めれば、完全に神に嫁ぐ。

 そして、この神のための空白を埋めることを依頼されるのが、次代のミトノカビメだった。


 ファナがミトノカビメの衣を脱がしている間に、別の村のカムナギィが刺青の道具を用意する。

 ミトノカビメはどこか安堵したような顔だった。


 ファナは心を込めてひとはりひとはり描いた。

 彼女が嫁ぐ神の印を。


 刺青を入れ終えると、ミトノカビメは、潰された目から涙を流し、微笑みながら言った。


「あり……が……と……」

 言うと彼女は息を引き取った。

 その表情は、彼女がミトノカビメになる前に浮かべていたような微笑だった。


 ――私は神に嫁がなかった。

 けれど、この世界でエルに嫁ぐ……


 夜の浴室、ファナは姿見で自分の刺青の空白を見つめながら思い出していた。


 ――変わってしまうのなら、その前に、ここに刻んでほしい……


 彼に対する恋心を自覚してから、少しづつ育ってきた気持ちを確かめる。


 ――明日が最後の機会だ……


 ファナはゆっくりと刺青の空白に手を這わす。


 ――あなたのものになるという印を……


 ファナはしばらく目を閉じて、ゆっくり深呼吸すると、服を着るために鏡の前を後にした。



 ++++++++++



 次の日の昼下がり。

 エリオットとファナは、中庭の芝生に並んで腰を下ろし、何をするでもなく、ただ静かに寄り添っていた。


 結われた髪からこぼれたおくれ毛を、エリオットはそっと指先でなぞり、ファナはその手のぬくもりを感じながら、頭を彼の肩に預けている。


 目の前を一匹の薄紫の蝶が、ひらひらと舞い、通り過ぎた。

 ファナはぼんやりと、その軌跡を目で追いながら、呼吸を整える。


 明日は、契約の儀。

 そのことを言葉にせずとも、二人の間には、少しずつ緊張の糸が張り始めていた。


 ファナはしばらくエリオットの温かさに身をゆだねていたが、やがて身を起して、彼に向かい合った。


「エル……契約の儀の前に、お願いがあります。」


「なに?改まって……君の願いならなんでも叶えるよ?」


 言いながらも、その声にはかすかな硬さがあった。

 彼女の瞳の真剣さに、まだ言葉の内容を知らぬまま、心がざわめく。


「エル、私の身体に、最後の刺青を入れてください。」


 エリオットの表情が固まった。

 静かな中庭に、鳥のさえずりだけが響いていた。


 動かないエリオットにファナはいそいそと聖女の法衣の前を寛げ始める。


「実は、この右わき腹の――」


 下着をたくし上げ、肌を見せようとするファナをエリオットは慌てて制止した。


「わわわわかってるっ!君の刺青に妙な空白があるのは、気が付いてるよっ!前に回路の治療した時に見たからね!!」


「気づいていたんですね。」


 赤面するエリオットにファナは微笑んで、服を整え始める。


「本来ここには、ミトノカビメとして神の御許に嫁ぐときに、神の印を刻まれるのですが……」


 服を整え終わったファナは、エリオットの両手を包み込む。

 そして、少しだけ唇を噛み、ためらいがちに、でもまっすぐな声で言った。


「私はあなたに嫁ぎます。」


 エリオットは瞬きもしないで、彼女の顔を見つめている。


「だから、あなたの印を刻んでほしい……」

 目元を赤らめ、ファナは少し恥ずかしそうにエリオットの目を見つめて言った。


「エル、お願いします。」


 ファナが念を押すように言うと、やっとエリオットが口を開いた。


「……わかった。僕に刻ませてくれ。」


 エリオットの言葉に、ファナの表情が幸せそうにほころぶ。


「ありがとう……今夜、あなたの部屋に行きます。その時――」


「ああ、僕の全部を懸けて刻むよ。」


 エリオットはファナの身体を抱きしめ、しばらく目をつぶった後、静かに立ち上がった。


「ちょっとひとりで考えるね。最高の図柄考えるから、楽しみにしてて。」


 やっとエリオットは表情を緩め、自室へと戻っていった。




 ファナに背を向けた瞬間から、エリオットの脳内は、猛スピードでフル稼働し始めた。

 最初は上古神聖文字で自分の名を刻もうかと一瞬考えたが、ふと気が付く。


 この世界に来てから、ファナの刺青は魔力増幅回路として機能している――

 あのとき、たしか学会のレセプションで、

 古術式学の研究家ガラトゥス・ミルドアと意見を交わしたことがあった。


 精霊魔法は、感応式に魔力を増幅する生きた回路であり、術式理論に基づく魔術体系とは根本から異なる。

 だが、相性さえ良ければ、術式よりも高い効率で魔力の行使が可能になる。属性同調や魔力量の跳躍的増加といった、術式魔術には見られない“現象”が発生するという仮説だった。


 実際、エリオットは思い当たる。

 ファナと初めて深く魔力を通わせたとき、自分の魔力量が跳ね上がった感覚を。

 あれは偶然ではなかったのだ。


 彼女の刺青は、すでに“接続”と“増幅”を司る魔力回路として働いていた。

 ただの文様ではない。術式構造とは異なる次元で、精霊との交感を通じた生きた門だったのだ。


 彼は息をのんだ。

 数日間、自らが探し続けていた答えが、そこにあった。


「彼女を再構成せずに」

「契約が成立したと見なされ」

「なおかつ、延命効果が得られる方法」


 答えは、すでにファナの身体に刻まれていた。

 精霊魔法と接続する――それだけで、契約は“機能する”。


 ただし、儀式そのものには一つの問題があった。

 それは、契約の儀式を取り仕切る“術式自体”が、聖女の再構成を前提に設計されているということだ。


 ――だったら、欺けばいい。


 エリオットの目が光を帯びる。

 術式そのものに、「再構成はすでに完了している」と誤認させる。


 彼女の刺青に特定の信号パターンを刻み込み、契約術式に“儀式はすでに完了した”と誤認させ、正規の流れを迂回する。


 誘導魔力と属性同調値を、自身の魔力回路と完全に一致させ、刺青から“接続完了”のシグナルを送る。

 それだけで、契約は成立したと術式に“判定”させることができる。


 実際の構造はまるで違う。

 だが、術式に見えるのは外面だけでいい。

 エリオットが欲しいのは、形式ではない。

 ファナと繋がること、そのただ一点のために、“世界の枠組みすら騙せる”契約が必要なのだ。


 そのために、彼は、彼女の刺青に“外部端子”としての機能を組み込む。


 それは、ただの文様ではない。

 彼の魔力を流し込む“接点”であり、彼女を変えずに繋ぐ唯一の手段。



 彼女を再構成しない。

 それでも、彼女を“自分のもの”にする。


 そのために、彼は今、

 最も美しく、最も精緻な“偽装”の術式を組み立てていた。



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