21 七日の虹
「……もう、どうなさったんですか? 神殿に行くまでは、それはもう、うっとうしいくらい浮かれていたのに――帰ってきたら、まるで葬式じゃないですか」
神殿から戻った昼下がり。執務机に突っ伏したまま微動だにしない主人をちらりと見て、セルジュは書類を仕分けながらぼやいた。
「……はぁ」
エリオットは何か言いかけて口を開くが、出てくるのは重たい吐息ばかり。
「恋に恋する思春期の少年みたいな殿下も、それはそれで手に余りますが……今のこのジメジメ具合も、正直、かなりうっとうしいです」
「だって……ファナの命も、魔力も、未来も――“全部”を背負うんだよ……それを思うと……はぁ……」
「それ、つまりマリッジブルーってやつでは?」
セルジュはあきれたような口調のまま言う。
「違うよ! そんな軽いもんじゃないんだ……!」
突如、エリオットが机に顔を埋めたまま早口にまくし立てる。
「そもそもね、魔力っていうのは生体固有の回路で、他人と融合させるなんて構造的に矛盾してるんだ。そりゃ、契約術式は一応それを可能にする“ふり”をするけど、本質的には回路を歪ませて無理やり整合性を取ってるだけなんだよ。それってつまり――」
言いかけて、ふと沈黙し、ため息をつく。
「……いや、理屈の話じゃないんだ。頭ではわかってるのに……身体が、心が、追いつかない……」
むくりと起き上がったエリオットは、ぐったりと椅子の背にもたれながら、どこか遠い目をした。
そのとき、部屋の中に控えめなノックの音が響く。
「エル、今、よろしいですか?」
ファナのくぐもった声が聞こえた瞬間、エリオットはばね仕掛けの人形のように跳ね起き、一直線に扉へと向かう。
「……結局、ファナ様の声には敵わないんだな、あの人は」
セルジュがあきれ半分、安堵半分で呟いた。
「ファナ、どうしたの?」
「いえ……特に用事があるわけではないんです。ただ、帰り道に見たエルのお顔が、ずいぶん深刻そうだったから……ちょっと気になって」
ファナは不安そうに見上げる。
すると、部屋の奥からセルジュが声を張った。
「ファナ様、どうか殿下を連れ出してください。ここにいても、仕事のじゃまなので!」
「セルジュっ!」
「はいはい、恋煩いは屋外でどうぞ〜」
セルジュは書類を扇子のようにパタパタと仰ぎ、手で追い払うような仕草をする。
「~~~~っっ」
エリオットは怒りと恥ずかしさがないまぜになった顔で睨んだが、ファナに袖を引かれて、はっと我に返った。
「エル……本当に大丈夫ですか?」
「……あんまり大丈夫じゃない。」
迷いながら、それでも彼女の指先に唇を落とす。
それは、その体温が、確かにここにあるのだと、自分に言い聞かせるようだった。
「セルジュさんも、ああおっしゃってますし……ちょっと歩きませんか?」
ファナはエリオットの手を握り返して、その手を引いた。
ファナが連れてきたのは、いつもの中庭だった。
午後の日差しが、やわらかく芝生の空間を照らしている。
廊下でエリオットの袖を離すと、ファナは一足先に中庭へ出た。
「エル、ちょっと見ててください!」
ファナは中庭の真ん中まで行くと、両手を高く掲げ、そっと祝詞を唱えた。
「“水の子よ 清き水を この空気に撒いて”」
すると、ごく小さな水の粒が空気中にふわりと広がっていく。
そこへ午後の日差しが差し込み、七色の虹がふわりと浮かび上がった。
「ファナ……すごい……」
思わず息をのんだエリオットは、ゆっくりとファナの元へ歩いていく。
ファナはへへっと得意げに鼻をこすって笑った。
「この前、霧を出そうとして色々練習してたら、水の粒をたくさん空気に撒くと、虹ができるって気づいたんです」
しばらくすると、風が水の粒をさらい、虹はやがて消えていった。
「不思議ですよね。前の世界では、虹は遠くの空にあるものでした。でもこの世界では、自分の手で出せる」
ファナは、そっと手を伸ばしてエリオットに触れる。
「エルは……契約の儀式をしたら、私が変わってしまうって、心配してるみたいだけど……。私は、ずっと変わり続けてきました。カムナギィになって、ミトノカビメに選ばれて、この世界に呼ばれて――そして、あなたに恋をした」
ファナが微笑む。その姿に、エリオットは再び息を呑んだ。
ファナは歩み寄り、エリオットの胸に額をそっと預けた。
「私……嬉しいんですよ? エルは私が変わることを怖がってるけど、変わった私が、もっと良い私になれるかもしれないって思ってます。きっと、あなたが好きでいてくれる私に」
そして、ファナはエリオットの手を取り、自分の身体に巻きつけるようにして、そっと抱きしめられる形になる。
「でも、今の私は、今しかいない。
このまま過ごせる時間が、あと少ししかないのなら……できるだけたくさん、あなたに“私”を覚えていてほしいんです」
「ファナ……」
エリオットは、心底情けない顔をした。
その顔を見て、ファナは小さく笑う。
「エル。今の私たちにしか、できないこと、見えないこと……たくさん、しましょう?」
「……“たくさん”って、何するの?」
エリオットが、くすりと笑いながら、今度は自分の意志でファナをそっと抱きしめる。
「さあ……?」
「言い出したのはファナなんだから、ちゃんと考えてよ」
そう言ってエリオットは、ファナの髪に顔を埋め、胸いっぱいにその匂いを吸い込んだ。
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「ネリファス神官。エリオット殿下とファナ聖女の件、聞きましたか?」
神殿の医務庁、聖寮部術式研究室。
報告書を整理していたネリファスに、書類を抱えた若い神官が声をかけた。
「ええ、聞きましたとも。ずいぶん強引に押し通されたとか。まったく、恋は病ですね」
ネリファスは笑顔で答えつつ、手元の報告書をぱたんと閉じた。口調こそ穏やかだが、笑みに覗く目は冷たい。
「ほんとですよね。まさか、あのエリオット殿下が……。私は論文しか読んだことがなかったので、もっとこう――理知的で冷静な方かと」
「恋をすると、人は最も愚かになるんですよ。殿下ほどの頭脳でも、抗えなかったようで」
ネリファスはやれやれと肩をすくめてみせた。
「まあ、正式に契約されるそうで。本日、セラフィオス大神官の確認が入ったとのこと。七日後、ですな」
神官が目を丸くした。
「あの……じゃあもう、決まりなんですか?」
「ええ。本人の意思で決まったことです。王子の権限というのは、時に我々の予想を軽々と飛び越える」
若い神官は「ご武運を」と苦笑し、報告書を置いて研究室を後にした。
部屋に静けさが戻ると、ネリファスは浮かべていた笑みをゆっくりと引っ込めた。残された書類の中から一束を抜き出し、丹念に目を通す。
「七日後、ね」
内部機密の印が押されたそれは、エリオットとファナの『契約の儀』に関する聖務動員表。次にめくったのは、儀式の詳細な日程表だった。
しばし無言でそれを眺めたのち、ネリファスは唇の端をわずかに吊り上げた。
「――せいぜい、七日間は幸せに浸るがいい」
その時、神殿の奥から鐘の音が響いた。
「……いけない。遅れるのは、性に合わない」
そう呟き、数枚の書類を懐に入れてローブを整えると、彼は足早に研究室を後にした。
向かったのは神殿の懺悔室。
そこは、神託の名のもとに沈黙という名の契約が交わされる場所。
格子の向こうにはすでに、約束の相手が腰を下ろしていた。
「遅くなりました。ここは神託の沈黙に包まれし場所。どうか、女神の恩寵が、あなたの言葉とともにありますように――」
定型句を口にしたネリファスに返ってきたのは、短い鼻笑いだった。
「ふん、女神……ね。形式は結構だけど、時間が惜しいの。これが父からの伝言」
格子の下から滑り込んできた一通の書簡。赤い封蝋には、アルセノール公爵家の印。
「お初にお目にかかります、エリザベータ様。……フェオル神官の件は、残念でしたな」
「白々しいわね。あんたたちが始末したんでしょう? あれのせいで、私は神殿で居心地が悪くなった」
「おや、それは大変でしたな。まさか、ご自身の命令で動いた者の責任を、他人に押しつけたりは――」
「いいから。で、次の件は?」
先をせかすエリザベータに、ネリファスはやれやれといった雰囲気を隠しもしない。
「少々変更がありまして。エリオット殿下が『契約の儀』を七日後に先行して行うことが正式に決定されました。ご本人の強い意思により、形式上優先されます」
「……七日? 何それ、そんなに急に?」
エリザベータは驚いて身を乗り出す。
「王子殿下の決定です。周囲がどう思おうと、それが“正義”となる世界でしてね」
ネリファスは皮肉混じりに言いながら、書類を格子の下へ差し出した。
「しかし、焦れば準備も甘くなる。……つまり、隙が生まれます」
ネリファスの言葉にエリザベータはやっと笑みを浮かべると、渡された書類を差し戻した。
「任せるわ。あの蛮族は、そちらで好きにしてちょうだい」
「承知いたしました。では、手はず通り――」
「ちょっと待って。……でも、やっぱり顔は最後に一度、見ておこうかしら。引導は、私が渡してあげるわ」
言葉を遮られたネリファスは、一瞬だけ視線を動かし、軽く眉をひそめた。
「……あまりおすすめはいたしません。万が一、貴女が失敗された場合――どうなさるおつもりです?」
「私が失敗するなんて、あるわけないでしょ?当日の段取りを教えてくれれば従うわ。その代わり、引導を渡すのは私よ。主役の退場くらい、私の手で演出してあげたいもの」
エリザベータはわずかに鼻で笑い、優雅に言い切った。
ネリファスはごく小さく肩をすくめてから、淡々と応じた。
「……左様でございますか。――でしたら、どうか、くれぐれもご慎重に」
ネリファスは小さく息を吐き、面倒な芝居の幕が上がるのを見届けるような気分で頭を垂れた。
「――詳細は、改めて。すべて、計画通りに運ばせていただきます」
「ええ、よろしくてよ。失敗は許さないわ」
彼女の勝ち誇る声の奥には、かすかな焦りが滲んでいた。
ネリファスは一礼したまま、面を上げなかった。
――お姫様に付き合うのは面倒だが……アレが手に入れば、問題ない。
心の中で、冷ややかに呟いた。




