18 ファナの恋
リリスがセレノア宮を辞したのは、日が西に傾きかけた頃。けれどエリオットの帰還は、それよりさらに遅い、夕映えの空の下だった。
「ただいま、遅くなったね。何もなかった?」
馬車から降りる時間も惜しむように、エリオットは玄関に出迎えていたファナに足早に駆け寄る。
「は……はぃぃ……」
ファナは、ぎこちなく微笑むと、ふいっと視線をそらしてしまう。
「どうしたの?何かあったの?」
エリオットは心配そうに、彼女の顔をのぞき込むと、彼女の頬に手を伸ばし、出がけにかけた結界の具合を確かめる。
ファナは、頬に彼の指がかかると、ビクッと身体を震わせ、胸を手で押さえた。
――もう……ムリ……エルとどんな顔でしゃべっていたか、わかんない。
ファナは手で顔を覆うと、
「何でもないですっっ、今日は失礼いたしますっっっっ」
と叫ぶように言い、エリオットに背を向け、自室へ走っていった。
エリオットは、彼女に手を伸ばした恰好のまましばらく固まって彼女を見送ると、ファナと一緒に出迎えていた侍女長につかみかからんばかりに詰め寄る。
「何があった?僕が留守の間に、ファナに何があった?」
「リリス様がいらっしゃいました。」
侍女長がジトリと睨むような眼でエリオットを見返す。
「リリスが来たって?まさか、ファナに危害を加えに……」
「いいえ、お茶を楽しまれました。そして、楽しくお話しなさっておいででしたわ。」
「じゃあ、何で、ファナが、僕を避けるような態度になったんだ?」
エリオットも負けじと眼力を強める。
「わたくしの口からは申せませんよ。ご自分でお聞きになる方がよろしいかと――いえ、今夜はそっとしておいてあげてください。きっとファナ様ですもの、ご自分で殿下にお話しなさると思いますわ。」
「え?どういう事?」
エリオットは心底わからない。
ファナに何かした心当たりはない。だって、自分は午後中留守にしていたのだから。
……だから、避けられる理由なんて、あるはずがない。
ファナは結局、その日は夕食もいらないと、エリオットの前に姿を現すことはなかった。
ファナは自室のベッドの上で、うつぶせになり、枕に顔を押し付けていた。
顔が熱い。心臓の音がうるさい。考えがまとまらない。
――エル、絶対に、変だと思ったよね……
掛布を抱えて、仰向けになる。
もう見慣れたベッドの天蓋を、何も考えずに眺める。
――私……エルのこと……好き
掛布をぎゅっと抱きしめる。
そのまま体ごと横を向いて、胎児のように丸まった。
――私の、この気持ちは……恋……なのかな……?
リリスとの会話を思い出し、ファナは胸の内に、色々なエリオットの姿を思い浮かべようとした。
――……
きっと、彼との大切な記憶はもっとあるはずなのに、リリスに言われた「恋」という言葉に邪魔されて、うまく思い出せない。
――恋って何だろう……
リリスに言われた「恋」という言葉に、心がざわつく。
その意味を、どこかで知っていたような気がして……
ファナは、記憶をたぐるように、遠い日のことを思い出し始めた。
ファナには、“あにぃ”と呼んで慕っていた、3つ年上の幼馴染がいた。彼女が物心ついたころには、もうそばにいて、ファナはずっと彼の後をついて回っていた。
「ワレは、あにぃの嫁になる」
小さい頃から、ファナは、口癖のように言っていたと、後で家族から笑われた覚えがある。
でも、ファナが“あにぃ”の嫁になる日は来なかった。
ファナは十三の時に、カムナギィの候補になった。
その日から、ファナの生活は一変した。
家族と離れ、村の先輩のカムナギィに付いて修行に入った。
身を清め、野山に交じり、精神を研ぎ澄ます。祝詞を覚え、舞を覚え、儀式を覚え――
十五の時に正式なカムナギィになった。
――好きになった娘がいるんだ
村のカムナギィになってすぐ、あにぃが許嫁を連れてファナの元に訪れた。
ファナがあにぃとその許嫁の婚姻の儀式を取り仕切る。それが最初の仕事になった。
カムナギィは、夫婦の最初の床入りを見届ける。それが婚姻の儀式の仕上げだった。
周囲の反対も押し切って、やっと結ばれた、あにぃとその許嫁……
ファナは、一晩、夫婦の家の隅に座り、微動だにしなかった。
恋によって結ばれたふたり。
ファナはその後いくつもの婚姻の儀式を取り仕切ったが、あにぃの婚姻が唯一恋で結ばれたもので、一番美しい床入りだった。
あのときのふたりのように、誰かに強く求められることが、どれほど幸福か――
それを、まだ知らなかった。
「エルに恋をしたのなら、私もあんなこと、するのかな……」
ベッド際に点いている、ほの暗い明かりを見つめて、ファナはぽつりとつぶやく。
囲炉裏の炎に照らし出された男女の姿が、脳裏に浮かぶ。
たくましい背中。しなやかな身体。いたわりと、慈しみと――それを上回る、相手を求める欲望と……
ふと、その場面の中の男の姿が、エリオットに変わっていた。
そして、その男に抱かれているのは――いつのまにか、自分だった。
「―――――っっ」
ファナの脳が沸騰する。
羞恥心が身を焦がし、ファナは自らの身体を、強く強く抱きしめた。
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夜明け前。
ファナは一睡もできなかったが、頭の中は妙に冴えわたっていた。
夜のあのざわめきはまだ胸に残っている。
熱くて、恥ずかしくて――けれど、愛おしい。
その気持ちを、なかったことにしたくなくて。
ファナは、形にすることを選んだ。
ベッドから身を起すと、ドレッサーに向かい、引き出しから鹿革の袋を取り出す。それは、この世界に来た時に腰に着けていた、彼女の道具袋だった。
ふと、鏡の中の自分と目が合った。
熱も涙も、すべて夜の中に置いてきたような顔だった。
案外マシな顔色だ、と彼女は思った。
足音を忍ばせて廊下に出る。早朝の廊下はひんやりと空気が澄んでいて、ファナは夜の残滓が洗われていくような気がした。
革の袋を持って向かったのは、宮の裏手だった。
その廃材置き場のような場所に、ファナが見慣れたものがあるのを、彼女は散歩の途中で見つけていたのだ。
「ああ、やっぱり黒曜石だ。」
ファナはつぶやきながら、草むらに転がっていた石の中から一つを手に取った。
両手に余るほどの大きさの、艶のある黒曜石――昔、エリオットが術式を刻むために集めたもののひとつで、今では、もう見向きもされていなかったものである。
彼女は地面に座り込んで胡坐をかくと、大切に黒曜石の原石を観察する。
やがて観察し終わると、革袋からおもむろに鹿角と川原石を取り出した。ファナの村では皆、いつでも刃物を調整できるように、このような道具を持ち歩いていたのだ。
鹿角のハンマーで、石目を見極めて大きく破片を割り取る。
……こんな大きな原石、初めて見た。村に届くのは、せいぜい拳大の破片だったから……
ファナの村で作られるのは、鏃やせいぜい小さなナイフだったが、この大きさなら何でも作れそうだと彼女は思った。
ハンマーでさらに叩いて輪郭を作り出す。
――そう、ファナか。いい名前だな。
……半分夢の中、最初に聞いた優しい声を思い出す。
――こういう風に持つんだ。この方が食べやすい。
……銀のスプーンを初めて見た私を、嘲笑いもせずに教えてくれた。
あらかた輪郭が見えてきて、ファナは道具を持ち替える。
――感じられた?これが僕の魔力だ。
……生まれて初めて感じた魔力は、あなたのものだった。
――いざ君のことを言われたら、なんか頭に血が上っちゃって……
……自分の事より、本気で怒って……
鹿角のとがった部分を押し当てて、ひとかけらひとかけら、剥片をはがしてゆく。
――安心して。僕がいる。
――綺麗だ。すごく似合ってるよ。
――その神より、僕の方がファナが必要だったんだ。
――今はこうやって君が生きてるって実感させて……
――僕はファナがいて、君さえ隣で笑ってくれていれば、何もかも全部いらない。
……ああ、最初からあなたは、ずっと私を導いてくれていた。分け合ってくれていた。
そして……欲してくれていた。
ファナは、出来上がった刃物を、不思議なほど凪いだ気持ちで太陽に掲げてみる。
上質な黒曜石は、まるで氷のように透き通り、剥片を押し剝がして作った波紋がキラキラと、まるで心のひだを写すように、光の中できらめいた。
ファナの世界には無い形のナイフ――それはこちらの世界で見た形となっていた。
……エルに渡そう。
あなたを想って作ったこのナイフも、気づいてしまったこの恋心も。
再び気持ちがざわめきだす。
頬が熱い。心臓がうるさい。羞恥心が身を焦がす。
ファナはそっと立ち上がり、革袋にナイフをしまった。




