15 腕の中
セレノア宮に馬車が止まる。
セルジュがドアを開けるが否や、足早に、しかし慎重に、エリオットがファナを抱いたまま降りてくる。
迎え出た侍女長や侍女たちにもすでに話は伝わっていた。
心配そうな顔で、主人たちを見守っていた。
エリオットはハッとして、侍女長に顔を向ける。
「心配させてすまなかった。ファナは無事だ。今は治療が終わって眠っているだけだから――今夜は僕が付き添う。ベッドが大きい方がいいな。このまま主寝室に行くから、ファナの寝間着を用意して。」
侍女長は一瞬、エリオットの腕の中で眠るファナの口元に、乾いた血の跡をみとめると、痛ましげに眉をひそめて言う。
「かしこまりました。主寝室も常に整えてございましたから、ご安心ください。わたくしどもがファナ様をお召代えしております間に、殿下もお着がえなさいませ。」
エリオットは、セルジュの先導で、主寝室に向かう。
そこは本来夫婦が使うもので、エリオットがいずれ聖女と婚姻を結んだ時に使う予定の部屋だった。
「もっと色気のある状況で、ここに来たかったんだけどなぁ……まあ、仕方ないよね。」
エリオットはひとりごちながら、ファナを広い広い二人用の寝台に横たえた。
開かれたままの扉から、侍女長がファナ付きの侍女を従えて入ってくる。
「それでは殿下もお着がえを……」
「ああ、治療の影響で、肌が過敏になっているかもしれないから気を付けてあげて。」
エリオットは言い残して、自室へと向かった。
「セルジュ……僕は、自分が許せないよ……」
エリオットはクラヴァッドをやや乱暴に外しながら、吐き捨てる。
「殿下は、最善を尽くされました。ファナ様もご無事ではないですか……」
主人から脱いだものを受け取りながら、セルジュは平坦な口調で答える。
エリオットは力なく首を横に振る。
「ものすごい状態だった……もう、回路が、何もかもズタズタで……すごく痛かったと思う……すごく、苦しかったと思う……」
セルジュは黙って主人に濡れたタオルを渡す。
エリオットは渡されたタオルを少し眺めて、またつぶやく。
「あんな痛い思い、させたくなかった。もっと僕が気を付けていれば……、僕があんな無様に浮かれてなければ……」
「……殿下が悪いのではございません。さあ、早く体を清めて、ファナ様の元へ行って差し上げてください。」
「うん……」
エリオットは素直に従って、体を拭き始めた。
扉をノックする音がして、セルジュが扉に行く。彼は扉を少し開くと、やって来た従者と少し話してまたエリオットのところまで戻って来た。
そして主人からタオルを受け取りながら言う。
「悪い知らせです。『天座の水鏡』が何者かに完全に破壊され、今回アルセノール家に仲介した聖遺物管理局の神官が、王宮の控室で首をくくっているのが発見されたそうです。」
「……仕事が早いな……公爵家が動いたと思う?」
寝間着を着せかけられて、ボタンを自分で止めながらエリオットはセルジュに向き直る。
「……可能性はありますが……殿下が退場なさってからのアルセノール公爵令嬢の様子を考えますと、違和感があります。どちらにしろ、『天座の水鏡』の調査はできなくなりました。」
「くそっ……、セルジュ、引き続き情報を集めてくれ」
部屋を出ながらエリオットは指示を出す。
主寝室の扉の前で、エリオットは一度のドアノブに手をかけてから、再びその手をゆっくりと下した。
自分が焦りや苛立ちを含んだ空気を纏っているのに、不意に気が付いたのだ。
眉間にもしわが寄っている……
エリオットは両手で顔を覆って、しばらく俯き、眉間のしわを人差し指でもみほぐしてから、再びドアノブに手をかけた。
扉をゆっくりと開けると、侍女長とファナ付きの侍女が振り返る。
彼女らはエリオットに軽く会釈すると、ファナが着ていた聖女の法衣を手に部屋を出て行く。
すれ違う時に、ふと裾にあしらわれたビーズの煌めきが目に入り、思わず振り返った。
――あれを着て、この宮を出たときには、ファナはあんなにきれいに微笑んでいたのに……
エリオットは悔しさに、口を真一文字に引き結んだ。
ファナは大きなベッドの向かってやや左寄りに寝かされていた。
エリオットは、一旦彼女にかけられた掛布をはがし、ベッドに上がると両手を繋いで魔力を確かめる。
彼女の指先はひどく冷えていた。
「うん、落ち着いてる……」
安堵の呟きを漏らして、彼女のわきに寝そべると、掛布を引き上げた。
ファナの、規則正しい寝息が聞こえる。
解かれた髪に触れるとふっと、彼女の匂いが鼻をくすぐる。
乾草のような、太陽の香り……
―――っっ
急に恐怖心が込み上げてきた。
――彼女を、失ってたかもしれない……一つ間違えば、僕は今、冷たくなった彼女を抱きしめて、慟哭していたかもしれない……
エリオットは震える手で、彼女を引き寄せる。
治療の最後で、強制的に意識を落とす術式をかけたから、彼女は何をしても明日の朝までは起きない。
彼女の身体を胸に抱きこんだ。
「僕は――ちゃんと助けたじゃないか……僕が守ったじゃないか……」
不意に涙があふれてきた。
息を吸い込むと、胸に鋭い痛みが走った。
嗚咽を飲み込んで気が付いた。
――僕は、泣いている……泣いてはいけない、僕に泣く権利なんて――ないんだ。
「一番つらいのはファナなのに……」
つぶやく声がかすれた。
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閉じられたカーテンの隙間から、細く朝陽が差し込むころ、ファナはゆっくりとまぶたを開いた。
真っ先に飛び込んできたのは、金髪の美しい寝顔だった。
「……エル?」
囁くと、彼のまつ毛がかすかに震えて、まぶたが開き、澄んだ青色の虹彩に光が入る。
「……ファナ……?」
寝起きの声で呟くと、彼はハッとした顔になり、目を見開いた。
「ファナ!?大丈夫?どこも痛いところ、ない?」
「……?はい、どこも――私、どうしたんでしょう……」
キョトンとした目で見返した彼女を、エリオットは力いっぱいかき抱いた。
「……よかった……本当に……よかった……」
安堵で鼻の奥がツンと痛くなる。
「な…エル、苦しいです……」
「あっ、ご、ごめんっ」
エリオットは慌ててファナを解放した。
「君、死にかけたんだよ……晩餐会で倒れて――」
エリオットが言うと、ファナは彼の頬をぬぐいながら言う。
「死にかけた?私が?」
「うん、覚えてない?」
ファナはしばらく考えて、最終的に首をかしげる。
「晩餐会で……何があったんでしたっけ……えーと、リリス様が何か美しい物を見せてくださった気がするのですが、その後があやふやで……」
「覚えてないの?」
「はい、よく思い出せません。私、いったいどうなっていたのでしょうか……」
エリオットは、もう一度、今度はゆっくりと彼女を抱きしめた。
「ごめん、後でちゃんと説明するから、今はこうやって君が生きてるって実感させて……」
嗚咽をかみ殺した震える声で、エリオットが言うと、ファナはおとなしく身をゆだねだ。
エリオットが落ち着きを取り戻し、二人はベッドの上へ身を起すと、昨夜の出来事について話す。
「そんなことが……でも、ありがとうございました。エルのおかげでどこもおかしくないですよ?」
「それでも――僕は自分が許せないよ。君を危険な目に晒してしまった……僕は……」
エリオットが再び俯くと、ファナはずいっと彼ににじり寄る。
彼のあごに手をかけて、クイっと顔を上げさせた。
あっけにとられたエリオットの見開かれた瞳から、涙が一滴、頬を伝う。
「エル、そこまでです。」
言うと、彼女は目覚めて一番の微笑を見せて言う。
「私は生きてます。あなたのおかげで、生きています。だから、もう、これ以上自分を責めないで」
「ファナ……」
エリオットの顔が、くしゃりとゆがむ。声を上げて泣きそうになった寸前、ファナは彼の頭をかき抱いて、自分の胸に押し付けた。
エリオットは必死で嗚咽を漏らさぬように歯を食いしばる。
「聞こえますか?私の心臓の音。ね、ちゃんと聞こえるでしょ?だから安心して」
ファナの胸に耳を当てながら、エリオットは強く目を閉じた。
心臓の音が、確かにそこにあった。
それは彼にとって、世界が“まだ終わっていない”という唯一の証だった。




