11 銀の耳飾りとミトノカビメの物語
ファナとエリオットは、マナーレッスンの間を縫ってファナの魔法を研究し、晩餐会の前日にはエリオットが発動する魔法に近い物をファナも発動できるようになっていた。今は、詠唱せずに精霊へ働き掛ける方法を模索している最中である。マナーの方も、“異世界から召喚された聖女”としては及第点のできで、褒めて伸ばすタイプのエリオットの指導により、ファナの精神も安定して自信に満ちていた。
晩餐会前日の夕食後、エリオットは珍しく執務室にいた。
前日、という事もあって、明日に疲れを残さないためにと、毎夜行っているダンスレッスンを侍女長に取りやめさせられたからである。なんでも、今夜の湯あみから、明日の晩餐会にかけて、ファナを徹底的に磨いて、彼女に懐疑的な貴族やら、レオナルトたちの鼻を明かしてやりたいらしい。
「全く……本当に10日間、ファナ様にべったりでしたね。おかげでこっちはしなくてもいい苦労をどれだけしたか……殿下、こちらにサインだけお願いします。これだけはもうこれ以上期限を延ばせませんので」
侍従のセルジュが執務机に何枚かの書類を広げる。
「あー、この案件ね……よし、っと、これでいい?」
「はい……確かに。……晩餐会が終わりましたら、また以前のように仕事をしてくださいね?」
「え?嫌だよ。」
エリオットは非常に良い笑顔でセルジュを見上げる。セルジュの表情が一気にひきつったが、エリオットはお構いなしに続けた。
「嫌だよ。僕はファナから一瞬だって目を離したくないんだ。これからもあの娘は、驚くような奇跡や、僕の価値観を全部ひっくり返すような知識や考え方を見せてくれる……その一つも、見逃したくないんだよ」
「しかし、そうは言いましても殿下の役割としても仕事をしていただかないわけには……ああ、そういえば――こちら、殿下が王都の宝飾店に依頼していた耳飾りが出来ておりまして、受け取りは私がしておきました。」
セルジュは思い出したように、自分の傍らに立てかけていた革張りの平たい書類ケースを開き、その内側の薄い仕切りから、小さな黒革の箱を丁寧に取り出した。
「……間に合ったの?!」
エリオットの瞳がギラリと輝き、ガタリと椅子の音を立てて立ち上がる。
「はい。『晩餐会にどうしても間に合わせたい』と、第二王子殿下がたいへん強くご所望でした――とお伝えしたところ、他の依頼をすべて後回しにして仕上げたそうです。……殿下、こういう無理が通るのも、日頃のお勤めの賜物ですよ?」
セルジュは箱を渡しながら、じとりとにらみを利かせる。
「……うぅ……そう言われると……ぐぅの音も出ない……」
エリオットは気まずそうな言葉とは裏腹に、いそいそと箱を開け、中身を確かめると懐にしまい込み、足早に執務室のドアへと向かった。
「ファナのところに行ってくる」
「……いってらっしゃいませ。せめて帰ってきたら書類に目を通すだけでもしてくださいね?」
嬉しげに言う主人の背を、セルジュはため息で見送った。
ファナの部屋に向かったところ、そこに彼女の姿はなく、侍女が寝支度を整えているところであった。
聞けば、彼女は寝る前に「月を見たい」と言って中庭へ行ったという。
踵を返し、中庭に行くと、ファナは中央でひざまづいて月に祈りをささげていた。その様子はあまりにも美しく、神聖なその空気を乱すのが畏れ多くさえ感じ、エリオットは柱のわきに立ち尽くした。
やがて祈りが終わり、フッとファナが振り返って、エリオットをとらえる。
そうして、ようやくエリオットは中庭に足を踏み入れることができた。
「こっちにいたんだね」
「はい、今日は満月の一日前と聞きましたので、こうして月の力をいただいておりました」
「へぇ、満月じゃなくて、今日がいいの?」
微笑む彼女の手を取り、ベンチまで誘いながら、エリオットが尋ねると、ファナはうなづいた。
「はい、完全に満ちた満月より、満ちる寸前の月の方が強い力を宿していると言われます」
「そうなんだ。面白いね。こっちでは、大事な夜の行事はだいたい満月が多いかな。ほら、月明かりで明るいから。」
ベンチにファナを座らせて、その隣に陣取ったエリオットは彼女の肩を抱く。
「明日は不安?」
エリオットがファナを見つめてたずねる。
「いいえ、エル様がたくさん教えてくださいましたから。それに、明日も隣にいてくださるんでしょう?何も心配なことはありません」
「そうか、そういってもらえると……あぁ……どうしよう、たまらないな……」
エリオットはファナの言葉に、思っていた以上のうれしさを感じてしまい、口を手で覆って顔をそらした。
――嬉しい。たったこれだけの言葉で、こんなにも心が満たされてしまうなんて。
こんな感情、もう手放せるはずがない。
「ふふ、エル様の方が緊張してらっしゃるみたいですね」
ファナがクスクス笑うと、エリオットはますます顔を赤らめて視線を逸らすのであった。
「そうだ、今日これが届いたんだ」
エリオットは表情を立て直すと、懐から例の小箱を取り出した。何だろう、と思案する彼女の顔の前で、蓋を開ける。
中にはてのひらに収まるくらいの大きさの、銀色の環が二つ、綺麗に並んでいた。環の内側には、植物の蔓が絡み合うような意匠が、透かし彫りで施されていて、ところどころに丸い小粒の黒曜石があしらわれている。
「……きれい」
ファナがまるで夢の中で呟くように感嘆を漏らす。
「耳飾りが間に合ったんだ。着けても……いいかな?」
エリオットは壊れ物にでも触れるように、ファナの耳たぶへと指を伸ばす。
「はい……」
彼女がゆだねたのをみとめると、エリオットは土製の耳飾りを慎重に外した。
「注文通り、少し大きくしてあるよ。」
言いながら銀の耳飾りを取り上げ、優しく耳たぶの穴を指で広げてはめ込んだ。
「どう?痛くない?」
両方の耳に着けてから、心配そうにエリオットが聞くと、ファナはそっと耳元に手をやって確かめる。
「大丈夫そうです。少し痛みますが、明日になればなくなるでしょう。」
「よかった。きれいだよ。すごくよく似合っている。明日はこれで、君は完璧な僕の聖女だね」
「フフ、ありがとうございます」
くすぐったそうに笑うファナの肩を抱き寄せて、エリオットは彼女の髪に口づけた。
しばらくの間、二人の間に沈黙が落ちる。
「ねぇ、元の世界が……恋しくない?」
エリオットが彼女の髪を玩びながら囁く。
ファナは少し考えて、言葉を慎重に選びながら答える。
「……恋しくない……と言ったら、嘘になりますが……帰りたいか、と聞かれたら、帰りたくはない、ですね」
「そうなの?」
はっきりと「帰りたくない」と言い切ったファナが意外だったエリオットは、彼女の顔をのぞき込む。
「ええ……」
彼女は、話そうか話すまいか――しばらく思案した後、重い口を開いて語り始めた。
「ここに来る直前、私は、ある儀式を受ける直前でした」
「ある儀式?」
「はい、少し前……私は次のミトノカビメに選ばれました。ミトノカビメは最高位のカムナギィで、神の妻。トカプノヌプクシルと現世の間に立ち、神の声を人に伝える役割を担います。」
「……神の妻……それって、すごく名誉ある役目じゃないの?」
ファナは痛みに耐えるような表情をして、首を横に振った。
「皆はそういいますが……私はそうとは、思えなかったのです……」
そういうと彼女は、胸元の留め金を外して襟元をはだけさせた。胸元にまんべんなく施された刺青が、エリオットの前に露わになる。
「次のミトノカビメになることが決まると、断食や水垢離を経て、全身にくまなくすべての部族の神話と伝承を刻まれます」
「……ファナの儀式はその段階まで進んでいたんだね」
「はい、それが終わると、いよいよ次は、神と契りを交わす“霊婚の儀”です。神に扮したすべての部族の族長と交わり、それぞれの部族の婚礼の儀に則った歯が抜かれます」
「結婚で歯を抜くの?」
「はい、私たちは結婚する時に部族ごとで決まった歯を抜く習慣があるのですが、全ての部族に対応した歯を抜かれると、ミトノカビメの歯は、ほぼなくなります。」
エリオットは思わず口を手で押さえて身震いする。
「部族長との交わりが終わると、今度はトカプノヌプクシルを見るために、目を潰し、神の声を聴くために耳に朱毒を流します。そしてそこから毎日、無上の快びと無限の苦しみをもたらす神薬を飲まされ続け、心を壊して神に近づけます。」
「……」
「そして、ミトノカビメの魂は、あの世とこの世の狭間を揺蕩い、人々に神の言葉を届けますが、3年ほどでこの世の生が尽き、完全にあの世の神の身元に嫁ぐのです」
エリオットは身じろぎ一つしないで、ファナの言葉を待った。
「一時期、私は先代のミトノカビメのお世話をしていました。前から知っているカムナギィで……美しく物静かな女でしたが……儀式から正気である日は一日もなく……ひどい有様で――私が次に決まったとき、覚悟はしたんです……覚悟は……したんですが………」
エリオットは、泣きそうな彼女を強くかき抱いた。
「この世界に来て目覚めて……もう儀式を受けなくていいって思ったら、私……もう……帰りたくなくて……でも私……儀式から……逃げ――」
ファナが嗚咽を漏らす。エリオットは彼女の身体をより強く抱きしめながら、喉の奥で絞り出すように、囁いた。
「ファナ……君は逃げたんじゃない……呼ばれたんだ。僕に、この世界に……!」
ファナが声を上げて泣いた。
「その神より、僕の方がファナが必要だったんだ。君は悪くないっ……」
泣きじゃくるファナを、エリオットは胸の中に閉じ込めて、慰めの言葉をかけ続ける。
やがてファナの涙は止まり、エリオットはそっと彼女を胸から離すと、額に口づけを落とした。
「……ありがとう、エル様」
涙でしゃくりあげながらも、ファナは笑顔を作る。
「『エル』でいいよ。君は僕の聖女なんだから」
指で彼女の涙をぬぐいながら、エリオットは言う。
「はい、……エル。明日は頑張ります……あなたの聖女として、はずかしくないように」
「うん、期待してる」
エリオットはとろけそうな顔で、微笑んだ。
部屋に戻るファナは、そっと耳元で輝く耳飾りを触れる。
――この耳飾り……きっと、ずっと忘れません。これは、私が“逃げるのをやめて、あなたの聖女になろう”と決めた夜の証です
決意を胸に、そっと自室のドアを閉めた。
月の光が、まだ彼女の頬に淡く残っていた。




