10 ファナの魔法とエリオットの魔法
「マナーばっかりじゃ息が詰まるだろ?」
マナーを習い始めて数日たった午後、エリオットはファナにドレスではなく、聖女の法衣を着て中庭に来るように言った。ファナが言われた通りに着換えてくると、エリオットも動きやすい服ですでに待っている。
「いいえ、マナーを学ぶのはとても楽しいですが……」
ファナが首をかしげると、エリオットは頬を掻いて困ったように言う。
「うん、ファナが優秀な生徒で、正直びっくりしてる。だから、そんなに焦らなくても、晩餐会には十分間に合うかなって。それで、前に魔法を教えるって約束していたのに、全然できてなかっただろ?」
「あ……あぁ!教えていただけるんですか?!」
「約束してたのに遅くなってごめんね」
ファナは勢いよく首を横に振った。
エリオットは中庭の中央まで移動する。ファナもそれに続いた。
「まず基本の知識からになるんだけど……実は、魔力は誰でも持っているものなんだ。」
「誰でも……もってるんですか?」
ファナは自分の手を見つめて不思議そうに言う。
「ああ、でも、それを魔法という形で外へ顕現することができるのは、この国でも一部の人間に限られるんだ。魔法を使うには、魔力が多くなくてはならないんだけど、遺伝によるところが大きくて、そういう家系はみんな王族や貴族なんだ」
「判定の時お会いした、レオナルト様も、リリス様もそうなんですね」
「そうだ。そして魔法に長けた王族や貴族は、この力を領地を守るのに使うことが多い。だから、我が国の魔法は攻撃に特化しているんだ」
エリオットは設置されている的に向かって右手を上げる。
「《アイスブレイド》」
掛け声と共に手のひらから氷の刃が数本飛び出して、次々に的へと当たる。
「慣れないうちはこのように詠唱しながら魔力を流すと、魔法が使えるよ」
「わかりました、やってみます」
ファナもエリオットに倣って、右手を的へ差し出して
「《アイスブレイド》!!」
何も起こらない。
「おかしいな、魔力の放出は感じられるんだけどな。もう一度やってみて」
「はいっ!」
ファナはもう一度手を構え直し、
「《アイスブレイド》!!」
やはり何も起こらない。
「うーん、君は全属性持ちだから、水属性の技だって使えるはずなんだけど……」
エリオットはファナの右手をとり、手のひらを観察する。
「ちょっと魔力を流してみて?」
「こう、ですか?」
ファナが言われたとおりに魔力を流すと、手のひらには複雑な魔方陣が浮かび上がった。
「あれ?術環はちゃんと刻印されてるね」
「じゅつかん?」
「ああ、正式名称は『詠唱術式起動環』。属性判定と魔力量評価やっただろ?あれを受けると、判定結果に応じて自動で刻印してくれるんだ。」
エリオットは、まだ輝いているファナの手のひらを持ち上げて、指をさす。
「この外縁の輪は、魔力の流入経路。中の紋様は属性変換。中央の核は出力と安定処理……魔法陣の“回路”だね。声や文字のイメージがこの回路に記されて、術が具現化するんだ。うーん、文字イメージの部分が空白だけど、この部分は、言語の違いは影響しないはずだから……ファナ、次は詠唱しながら頭の中でそれを文字にすることに意識して――――」
「『もじ』って何ですか?」
聞き返したファナに、エリオットはぎょっとして固まった。
「『文字』を知らない……?」
「知らないです。それは、何ですか?」
エリオットは、手で目を覆ってしばらく押し黙る。
「うーーーん……そこからかあ。えぇと……今こうやって、僕が話しているだろ?この言葉を記号化して表したものが『文字』だ」
「言葉を形にするのですか?」
「そうだよ。たとえば――エ・リ・オ・ッ・ト――っと、これが僕の名前。」
エリオットが胸ポケットからメモ帳を出して書いて見せると、ファナは穴が開くほど真剣なまなざしで見つめた。
「この文様が、エル様を表すんですか?」
「そうだよ。文字があると、場所や時が離れた相手にも、自分の意思を伝えることができるようになる。というか、君のところでは遠くの人にものを伝えたいとか、記録を残したいときにどうしているのさ!?」
「すべて、口伝えですね。物を運ぶなら運んでくれる人に伝言しますし、神話や伝承は、一族みんなで覚えて、子どもたちに伝えてゆきます。」
「言葉を紙や木に書いて記録したほうが楽だと思うんだけど……」
エリオットが言うと、今度はファナの顔色が青ざめた。
「言葉を、縫い留めてしまうのですか?そんな恐ろしいこと、許されるのですか?」
「何、どういうこと??君は、言葉を書き記すのが怖いの?」
「ええ、とても怖いです。そんなことをしたら、言葉の精霊が怒って災いをもたらすでしょう」
ファナは心底怖いらしく、両手で二の腕をこすってブルッと身震いした。
「私は文字を使いたくありません」
「そうか、そうなると……現代術式は使えないし……困ったなぁ。エルフの精霊魔法か、術式が体系化する前の古代魔法でも参考にしたらいいんだろうけれど……僕、詳しくないんだよね……でも、ファナに教える人は……いや、僕がどうにか――」
彼女に誰かが触れることを想像するだけで、胸がざわつく。それはきっと、教え方の問題じゃない。
エリオットが考え込むと、ファナがハッとして声を上げた。
「今、『精霊魔法』って言いました?」
「ん?エルフの『精霊魔法』?」
「それです!それってどんな魔法なんですか!?」
「うーん、エルフはそもそも僕ら人間とは、魔術の体系がだいぶ変わってて、精霊を介して魔法を発動させるんだ。信仰で精霊との交感を高めて使えるようになるらしいんだけど、記録がほとんどないからなぁ……」
「精霊を介して……信仰で交感……」
ファナは口の中で呟きながら、しばらく考える。
「それ、カムナギィの祭祀に似ています……『ことほぎ』は、精霊に贈る祝詞です。もしかしたら……」
ファナは、何かを思いついたのか周りを見回すと、植え込みから一枝、恭しく折り取ると、それを捧げ持って、深々と一礼する。そして静かに枝を振りながら歌うように唱え始めた。
「《 ひたひたと、母の鼓を打て
さらさらと、木々の塵を流せ
雲の門ひらけ
水の使よ、さやけき道をおりてこい》」
ファナの刺青が鈍く光り、彼女が持っている木の枝に魔力を流しているのが分かる。
すると、どうだろう。先ほどまでは雲一つない晴天だった空に、もくもくと黒雲が沸き上がり、稲光が走ったかと思うと、あっという間に激しい豪雨が降り始めた。
エリオットもファナも、空を見上げて呆然と雨に打たれる。
先に正気に戻ったのは、エリオットだった。ファナに駆け寄って、シャツを脱いで雨よけにすると、寄り添いながら屋根の下へと導いた。豪雨は間もなく止んで、また雲一つない空が戻ってくる。
「……君、今のは?」
エリオットがシャツを絞りながらファナに問いかけると、ファナは呆然とした表情のまま答える。
「カムナギィの『ことほぎ』を……雨ごいの祝詞の一節を、魔力を流しながら唱えてみました。カムナギィの『ことほぎ』は、精霊への祈りだから、もしかしたら精霊魔法に使えるかもって思ったんですけど……まさか、こんなに効果があるなんて……」
「……術式もなく、言語構文すら通さず、気象に影響を与える魔法なんて……ここ1000年、誰もなしえていないだろうな……」
エリオットは魔法で風を起こして、自分とファナを乾かした。
「……とりあえず、君は軽率に術を試さないでくれる?いや本気で。何が起こるか分からない」
「はい……わかりました……なんか、ごめんなさい」
ファナがしょげて答えると、エリオットは慌てて首を振る。
「怒ってるわけじゃないよ?いや、むしろすご凄すぎて……ちょっと、どう対応していいかわからない。何て言うか、君の実力が、僕以外に知れるのが、どんな事態を引き起こすのか……なんか、あんまり考えたくない」
「エル様……そうおっしゃってるところ申し訳ありませんが……もう一回だけ、試させてもらえませんか?あんなに大規模なことになっちゃったのは、祝詞が本格的なものだったかもしれないなって、ちょっと思いついて……おまじない程度なら、小さな魔法で済まないかなって……」
「……うーん……それなら……いいよ。やってみて」
「はい!」
しぶしぶ、という顔で許可を出したエリオットに、ファナは嬉しそうに笑うと、手のひらを合わせて器の形にして唱えた。
「《水の子よ とぷりとぷりと わが手を満たせ》」
すると、手のひらが淡く水色に光り、水が湧きだす。水はファナの手をあふれることなく満たした。
「エル様、見てください。小さな魔法も使えました!」
ファナが手をエリオットに差し出すと、彼は彼女の手をのぞき込む。
「すごいな……術環をもう魔力回路に組み込んで、かつ、文字イメージの部分は空白のまま魔法が発動している……もはや何が起こっているのか……現代の術式理論ではさっぱりだよ、君一体何をしたの?」
「呼びかける精霊の格を変えてみたのです。えるふの精霊魔法が、信仰と精霊との交感によって成り立っているってことは、きっとカムナギィの精霊信仰に通ずるんじゃないかと思いまして。」
「……というと?」
「カムナギィの『ことほぎ』では、願いの大きさによって呼びかける精霊の格が違うんです。おまじない程度なら小さな精霊に、大きな願いならより神格に近い精霊に呼びかけます。だから、格の低い精霊なら小さな魔法、格が高ければ大きな魔法が発動するんじゃないかって」
ファナはちょっと得意げに、頬を染めて言った。
「エル様。小さな魔法なら、これからも色々試してみてもいいですか?私もエル様みたいに早くなりたくて……」
「いいよ。でも僕が見ている場所でしてね。君のためならいつだって時間を取るから」
「ありがとうございます!よろしくお願いしますね!」
ファナが笑うと、エリオットも仕方がないな、と眉を下げた。
「君は本当に、規格外だよね。もうますます目が離せないよ。目を離したら……二度と捕まえられないかもしれない……」
エリオットは小さくつぶやくのであった。




