第5話「停止した時の中で」
「祈りが届いた」だって? 僕の願いは日本が常夏の国になることじゃないか。夏がほんの数ヶ月長引く程度じゃダメだ。もっと、もっと地球温暖化を促進しなくては。どうすればいい?
あれから数日が経った。俺は相変わらず楽しい毎日を過ごしている。部屋にかけられた日めくりのカレンダーも、あの日からめくっていない。この部屋の中だけは時が止まっているかのように思える。今日の本当の日付はいつなんだろう。
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一日の授業も終わり、俺は自分の家へ向かってとぼとぼ歩いていた。やがて、豆腐のような形の建物が見えてきた。ここが俺の家、いや、俺たちが暮らしている家だ。
北棟の三階、手間から二番目の部屋。俺の苗字――須治島と書かれた札がかかった扉を開ける。部屋の中には小さなテーブルとベッドといった家具はもちろん、テレビや冷蔵庫などの家電製品も一応揃っている。さらに、小さいながらも風呂まである。暮らしている人間によって個性は出るだろうが、基本的には他のやつの部屋も大体こんな感じだ。
部屋に入った俺は、電気を点けると荷物をその辺に放り投げ、ベッドに飛び込んだ。
「疲れたぁ……」
そう呟きながら枕元に置いてあるカワウソのぬいぐるみ、「まろくん」を抱きしめる。ぬいぐるみなんて子供じゃあるまいし……と、思うかもしれないが、これは俺が小さい頃に買ってもらったもので、色々と思い出がこもった大切なものなんだ。
それにしても、ここ最近は楽しさと引き換えにやけに疲れているのを感じる。ちょっと前なら「死ぬ」とか「死にそう」とか言っていたと思う。でも、今じゃそんな言葉を言うなんて絶対にありえない。
だって、俺はもう死んでいるから。
俺だけじゃない。蒼太も、春輝も、この世界にいる人間は全員もう死んでいるんだ。
俺が死んだのは高校2年生の夏休み、8月15日のことだった。
その時のことはよく覚えていない。何のために、どこへ行こうとしていたのかすら分からない。思い出そうと記憶を辿っても、ある瞬間を境に、逃げ水のように消えてしまう。
全身に走る衝撃と地面に叩きつけられる感覚、強い日差しで熱されたアスファルトの感触、血でぼやけた視界、痛みと死への恐怖。微かに救急車のサイレンや、誰かの声が聞こえてくる。
そこで、俺の記憶はぷつりと途切れる。俺の生きた「時」はそこで停止し、もう動き出すことはない。不完全で断片的な記憶を繰り返しなぞることしかできない。その記憶も、今では正しいのか分からない。ただ、今こうして死んでいるのだから、助けは間に合わなかったか、そもそも来てなかったかのどちらかだろう。そんなことだけは何となく分かる。
死んだ後も、俺たちは生前とあまり変わらない生活を送っている。夜になれば眠り、朝が来れば目覚めて学校へ行く。その繰り返しだ。死んだのにどうして学校に行かなくちゃならないんだ、と思ったが、俺は結構気に入っている。なんてったってこの世界には娯楽らしい娯楽は少ないから。現世にあるビデオゲームはこの世界にはないし、スマホなんてもってのほかだ。テレビでやってるのもお堅い番組ばかり。亡くなった芸人が出てるお笑いやバラエティ番組でもあるだろう、と思うかもしれないが、彼らの魂は既に転生しているか天界に行ってるかのどちらかなのでそんなものはない。スポーツは一応あるけど、現世でのものとは似ても似つかないし、全然上達しないからつまらない。それでも何か楽しむというなら、自分の記憶に郷愁を抱くか、かろうじて覚えている歌を歌うぐらいしかない。だから、友達と会って話したり騒いだりできる「学校」は少ない娯楽の一つと言ってもいい。
ちなみに、「学校」といっても現世のものとはまるで違う。ここでやっているのは、数学やら英語やらの勉強じゃなく、転生のために魂を純粋な状態に戻す作業。簡単にいえば魂の初期化だ。だから、何かを覚えるために行っているというよりは忘れるために行っている、の方が近い。
ベッドに寝っ転がりながら「まろくん」の愛らしさに癒されていると、俺の腹が鳴った。昼から何も食べていなかったから腹が減っていた。
生きるために必要な行動である食事、まさか死んで魂だけになっても必要になるなんて思わなかった。体が無くなっても腹が減るんだし、肉体が残ったままのゾンビはさぞ腹を空かせていることだろう。それも人を食べたくなるくらいに。
そんなことを考えながらご飯の用意を始めた。食事もこの世界では数少ない娯楽の1つともいえる。何か無いか、と冷蔵庫に手をかけたその時だった。
ピンポーン
部屋にチャイムが鳴り響いた。
こんな時間に誰だ? 出るのもめんどくさいし、居留守使ってやる。
ピンポーン
再びチャイムが鳴り響いた。
俺はいない。俺はいないよ。
ピンポーン
チャイムが三度鳴った。
なかなか強情なやつだな。俺はいないってのに。謎の訪問者に心の中で悪態をついた時、俺は気づいた。部屋の電気をつけているから居留守を使ったところで何の意味も無い、ということに。
観念して扉に向かった。少しだけ開けて顔を出すと、そこには蒼太が立っていた。怒っている――のは当然として、何だかせわしない様子だった。
「おまえ、いるのは分かってんだからとっとと開けろや! こんなバレバレの状況で、よく居留守できると思ったなっ! 逆に尊敬するわ!」
蒼太から尊敬の言葉を頂戴したところで、俺はそっと扉を閉めた。こいつが何をそんなに焦っていようが俺には関係ない。
しかし、強引に押し込まれた蒼太の体に阻まれ、完全に閉めることは叶わなかった。
「チッ」
「舌打ちすんな!」
俺はさらに扉を引く力を強める。扉に挟まれた蒼太の体はきつく締め付けられた。
「ねえ……どいてよ……閉めれないじゃん」
「いや……おま……痛い! 痛いって! むりやり閉めようとすんな……」
「お前こそ……むりやり入ってこようとすんな……」
扉越しの攻防が続く。
だんだん手が痛くなってきた。それに、自分でやっておいてなんだが、蒼太が可哀想になってきた。突然押しかけてられてムカついたとはいえ、さすがにおふざけが過ぎたか。
俺が力を緩めると、蒼太はドアの隙間から抜け出した。「痛て〜」などと言いながら、挟まれた部分をさすっていた。
「……何か用?」
「用もなにも、約束しただろ! ほら、早く来いよ」
約束? 俺は何か約束してたっけ。全然覚えがないや。思い出す隙も問いかける隙も与えられずに、蒼太は俺の手を取ると歩き出した。俺は蒼太に手を引かれるままに、その後ろをついて行った。
「あのー、俺、部屋の電気つけっぱなしなんだけど」
「そんなことどうでもいいだろ」
「いや、どうでもよくないし……ていうか、どこで何するんだよ。今日は相手しないって言ったじゃん」
そんなことを話している内に、蒼太の部屋の前に着いた。相手しないって言ったのに……。いつかの記憶が蘇る。こいつと二人きりであんなことやこんなことを何時間もさせられた、地獄のような時間。
またあんな時間を過ごすなんて、絶対に嫌だ!
いやだいやだいやだいやだ――!
俺の心の叫びは届くはずもなく、蒼太は自室の扉に手をかけた。ついに、地獄の門が開く――そんな気持ちだった。
つづく