第4話「日常への逃避」
どうやら今年は夏の暑さが長引くみたいです。僕の祈りが何者かに通じた、と喜びたいところですが、恐らくは人類のたゆまぬ努力の賜物でしょう。
昼休み、そして午後の授業も終わり、一人、また一人と帰っていく。
そんな中、俺たちは教室に残って他愛もない話をしていた。話のネタは、最近あった面白いことだとか、昔好きだったこの話とかそんなもんだ。わいわいと会話を弾ませていると、そこへ俺たちのものではない軽い声が飛ぶ。
「春輝君、バイバーイ」
「あ、うん。またね」
声をかけてきたのは同じクラスの女子達。彼女たちは俺たちに一切目もくれず、春輝だけに手を振ると軽やかな足取りで去っていった。
やっぱり人気者は違うなぁ。女子からこんな待遇を受けられるなんて……。別に何とも思ってなんかいるけど。ちっともうらやましいぞ。今朝の俺だってちょっとは人気者だったのにな。どうせ、俺が今日早く「学校」に来たことなんて、もう誰も覚えていないんだろうな。ちくしょうめ。
「それで――が……で」
「あれがこれで、それが……」
「うんぬんかんぬん」
もともと大したネタもなかったが、会話が途切れてきた。次第に帰宅ムードが全員の間に流れ出し、各々が荷物をまとめ始めたその時、修也が口を開いた。
「そういえば、皆ってここに来て何日目だっけ? 俺は35日だけど」
突然の問いに、俺は必死になって思い出そうとする。確か、今朝カレンダーをめくった気が……。
無意識の中に葬られた今朝の自分の行動を思い返す。記憶が正しければ、今日は9月15日、敬老の日だったはずだ。そこから自分が来た日に向けて逆算して数えていく。
1週間、2週間……あれ、8月って30日で終わりだっけ? いや、小学生の時も中学生の時も、夏休みの宿題を絶望した気分でやっていたのは確か31日だった気がする。と、すると――。
「俺は31日だな。蒼太は俺の前の日だったから32日だよな」
「え、そうなのか?」
やっぱりこいつ馬鹿だ。俺がここに来た時、たった一日の差で蒼太が先輩面してきたことを俺は覚えている。
龍一は34日だった。春輝はといえば、今だに指を折って数えている。時折指を止めては「んー?」などと言いながら斜め上に視線を向ける。しばらくの後、納得したように頷いた。
「ぼく、40日だ。」
それを聞いた途端、俺たちは歓声かどよめきかよく分からない声で上げた。それは春輝に対しての祝福の意味もあったが、40日という数に、その事実に驚きを隠せなかったのだ。
「それじゃあ、もうすぐってことだよね」
修也が春輝を指さして言った。
「せっかくなら何かやらね?」
龍一がそれに続けて言う。
「よっしゃ! 俺に任しとけぃ!」
蒼太が声を張り上げる。
そして、俺は――。
俺は――。
椅子から立ち上がった。思っていたより勢いがついてしまい、椅子が床を擦る派手な音が教室中に広がった。四人はきょとんとした表情で俺を見上げていた。
「どったの」
どうしたんだろう。蒼太にそう聞かれて考えてみたが、俺自身、どうしてこんな行動に出たのかさっぱり分からない。ただ無意識に体が動いていた。こいつらと話すのは楽しいはずなのに、今すぐにでもここから立ち去りたい、そんな衝動に駆られていた。
今の状況を整理しようとするが、自分の行動を振り返る余裕すらなくなっている。頭の中が深い霧に覆われていくように真っ白になっていく。もうどうにでもなれ、そんな感情で口を開いた。
「ごめん、俺帰るわ。あのー、慣れねぇ早起きしたからめっちゃ眠くてさ、もう限界なんだよね。だからごめんけど、その話また今度にしよ」
口から出るままに言葉を紡いだ。全部嘘だ。いや、眠いことは事実だが、今の俺の行動とは何の関係もない。
四人はしばらく黙ったまま、互いに顔を見合わせたりしていたが、誰からともなく笑いだした。
「なんだよ、しょーもねえなぁ。怒られるんかと思ったわ。なぁ? 龍一」
「俺、また股間潰されるのかと思った」
爆笑する二人、そして彼らとは違って、けれども笑みを浮かべる春輝らを尻目に、俺は荷物をまとめて教室を出ようとした。その背中に春輝の明るい声が飛んできた。
「また明日ね!」
振り向くと、手を振っているのが見えた。それに手を振り返し、俺は誰もいない廊下を歩き出した。
帰宅してからも俺はさっきのことで頭がいっぱいだった。どうしてあんなことをしたんだろう。何度もそう反芻する。それと同時に、後悔の念が押し寄せてくる。あんなことしなければよかった。いつも通りに振る舞って、いつも通りの俺を演じて、いつも通りの時間にすれば良かったのに。
どうにも気分が上がらないし、起きていればその分色々なことを考えてしまう。それが嫌だったから、いつもより早く眠りにつくことにした。
翌日――。
今日も俺は早く起きた。別に変な夢を見たせいでも、褒められるのを期待しているわけでもない。ただ、あいつらが揃っている教室に入る、ということに何となく抵抗があったからだ。
教室の扉に手をかけゆっくりと開ける。僅かに覗いた教室、そこでは春輝が本を読んでいた。俺は昨日のことを思い出して、何となく気まずい思いになった。恐る恐る教室へと足を踏み入れる。
「はじめくん、おはよう。今日も早いんだね」
「あ、あぁ」
微妙な返事。それが余計に気まずい雰囲気にさせる。普段通りの口振りやその様子からして、春輝は昨日の事については多分何とも思っていないのだろう。俺が変に意識しすぎているだけかもしれない。それに、俺がどう考えていようが時間は変わらず進む。同じ時間を過ごすなら、暗い気分より明るい気分の方が絶対に良い。
だから俺は――。
「春輝、今日は褒めてくれないのか?」
「え、ああ! 早起きして偉いね!」
俺は考えないことにした。嫌なことから目を背けていれば、これまで通りの楽しい時間をいつまでだって続けられる。そう思えたから。いちいち数える必要なんてないんだ。俺たちがここに来てからの日数も、俺たちに残された時間も。
つづく