第3話「朝の気分」
夏が終わるまでには終わらせたいけれど、作るのが遅い。それならば夏を長くすればいい。そう確信した僕は日本が常夏の国になることを祈った。
「学校」に到着した俺は、いつものように廊下を走る。けれど、気分はいつもと違う。
珍しく早く家を出たんだ。ひょっとしたら、今日は一番乗りかもしれない。いつも遅刻ギリギリの俺を笑うクラスの奴らを、今日は俺が笑ってやるんだ。その時を想像するだけでウキウキしてきた。
勢いよく扉を開ける。すると、そこには――。
誰もいない! やったぜ!
小さくガッツポーズをとり、俺は意気揚々と自分の席に着いた。俺以外には誰もいない部屋に、時計の針の音だけが響いている。五秒、十秒……二十秒……。
三十秒……。
一分……。
二分……。
暇だ……。暇すぎる! 誰もいない教室にいても、馬鹿みたいに青い空か時計を眺めるしかない! 退屈すぎる! 動画が観たい……大した目的もなくダラダラとSNSを眺めたい……意味も無いネットサーフィンがしたい……スマホ……スマホが恋しい……。
いつも早く来てる奴らはこんな苦しみを毎日味わっていたのか、と思うと拍手を送りたくなる。
とりあえず、時計の刻むビートに乗せて小声で歌ってみた。歌詞もうろ覚えだがそれでも幾分かは気が紛れた。歌っているうちに気持ちがノってきて、次第に声が大きくなってきた。気分はまさにアイドルだった。華麗なターン、そしてポーズを決めたその時、扉がガラリと開いた。俺は慌てて歌をやめた。だが、席に着くのは間に合わず、中途半端な体勢で立ち尽くすしかなかった。
「あ……え、はじめ君!? 今日早いね! どうしたの?」
入ってきたのは春輝だった。春輝は俺の予想したような――いや、それ以上のリアクションをした後に少し遅れておはよう、と挨拶をした。俺はさっきやっていたことがバレていないか恐る恐る聞いてみる。
「あ、その……聞いてたか」
「何が?」
「あ〜、いや、何でもないんだ。うん、何でもない。おはよう」
危なかった。もしバレていたら恥ずかしすぎてどうしようかと思っていたが、さすがは俺だ。黒歴史の隠蔽に余念がない。と、心の中で自画自賛をしている間に春輝は首を傾げながら荷物を置くと、本を手に取った。
「あれ、本? そんなのどっから持ってきてんだよ」
俺が聞くと、春輝はバツが悪そうに本から目を逸らして答えた。
「あぁ……これねぇ……これだけは持ってきていいって言われたから……」
それだけ言うと春輝は黙ってしまった。なんの事かだいたい察しのついた俺は、それ以上追求するのはやめ、話題を変えることにした。
「そういえば、春輝はいつもこの時間に来てるの?」
「うん。この時間になれてるっていうか、あと、本読んでるところあんまり見られたくなくて」
「そういうことね。じゃあ、今日のことも秘密にしといた方が良いよね」
「うん、お願い」
と、両手を合わせる春輝に、指切りでもしよう、と小指を差し出してみた。すると春輝は、「もうそんなことする年じゃないよ」と恥ずかしそうにしながらも小指を絡めてきてくれた。俺より小さくて細い小指がかわいい。
その後しばらく春輝と話していると、続々と同級生達が入ってきた。俺と仲のいい奴らは皆、俺の姿を見ると目を丸くして驚いていた。リアクションを取らないだけで、他の奴らもきっと驚いていたに違いない。そして、修也と龍一がやってきた。二人も例に漏れず、目を丸くしていた。
「え、お前今日早くね? どしたの?」
「修也、気をつけろ。多分こいつ偽物だぜ。本物はきっと寝てるか、どっかでお陀仏だと思う」
ふざけたことをぬかす龍一の股間に膝蹴りを放つ。それは龍一の二つの「大切」に寸分のズレなく命中した。呻き声をあげながら、龍一は床に崩れ落ちた。
「俺は本物だ、バカヤロー」
「正確な狙い……本物だ……ガクッ」
龍一はそのまま動かなくなった。修也と春輝は引きつった顔を見合わせ、股間を両手で防御した。
「そ、それで、何で今日は早いの?」
修也がそう聞いてきた。俺は今日の早朝の出来事を、変な夢を見たことから家を出るところまで二人に話した。途中、俺が全裸で部屋をうろついていたというあたりで二人は声を上げて笑い出した。
恥ずかしいやらムカつくやらで何も言えなくなった俺は、そっと膝蹴りの体勢になった。すると二人は口を押さえて笑い声を止めた。
「まあ……早起きなのは良いことだと思うよ、うん。偉い偉い」
褒められた俺は嬉しくなって心の中でニヤニヤしていた……つもりだったが、心の中だけに留まらず顔に出ていたようで、二人にまた笑われた。
やがて、慌ただしく走る足音が聞こえてきた。勢いよく教室に飛び込んできたのは蒼太だった。蒼太は俺を見つけると駆け寄ってきた。
「おま、何で今日早いんだよ! ギリギリの毎日を過ごすって誓った仲だろうが! この裏切り者が!」
などと訳の分からないことを並べて怒られた。別に俺はそんなことを誓った覚えはないから、裏切ったつもりもない。こいつの戯言はいつも通り無視しておく。
一通り怒鳴り散らかした後、蒼太は足元に目を移した。
「……で、これどういう状況?」
俺たちの視線の先には、股間を押さえて床に伏した龍一の姿があった。さっきまで悶絶しながら痙攣するように震えていたが、今はもうピクリとも動かない。
「はじめ君が蹴ったの」
蒼太の問いに、春輝が淡々とした口調で答えた。その様子が面白かったのか、蒼太は吹き出した。これ以上ないってぐらい豪快な笑いだった。
「え? マジで? 動かねぇし、コイツヤバいんじゃないの? おい、大丈夫かよ」
蒼太は心配するような言葉を並べているが、笑いがずっと止まらない。ピンチだってのにこんな薄情な友達を持って、龍一は可哀想だな。
肩を揺らされた龍一はムクリと起き上がった。
「死ぬかと思った……鍛えといてよかったぁ」
何言ってんだコイツ。まあ、全然動かないからちょっと心配したけど大丈夫そうだしいいや。
それから龍一は何故か自分の玉の耐久性やらを意気揚々と語り出した。どうやら自信があるみたいだ。
「じゃあ、もう一発食らっとくか?」
「あ、それはもう結構です」
その直後、始業時間を告げるチャイムが鳴った。皆は続々と席に戻り始め、俺も席に戻ろうとした時、春輝が俺を呼んだ。内緒話をするように手を添えた口元に耳を近づけると、春輝は小声で呟き、はにかんで見せた。
俺は顔が火照るのを感じながら席に戻った。今の俺は、顔がすごく赤くなってる。自分では見えないから分からないけれど、多分そうに決まってる。なるべく見られないように俯きながら歩く。心臓の鼓動がどんどん早くなっていくのを感じる。
先生の話を聞いている間も、俺の心は一向に鎮まらなかった。
春輝が呟いた言葉、それは「はじめ君って歌上手いんだね」だった。
つづく