第22話
施設内を散歩してみた。しかし、不思議なことに誰ともすれ違うことも人影ひとつすら見かけなかった。まるで僕以外の人間が消えてしまったかのようだ。まさか、本当に……? いや、そんなわけない。多分……でも納得できる言い訳も見つからない。
僕はみんなの側に寄ろうと一歩を踏み出した。一歩、もう一歩。しかし、どれだけ進もうとも僕たちの距離が縮まることはない。近づこうとすればするほど、家族の姿は真夏の逃げ水のごとく消えてしまう。
せっかく僕が生きていける世界を見つけたのに、やはり世界は僕を拒絶するのか。僕もみんなも、一緒にいるべきなんだ。いや、一緒にいなければならないんだ。
「お兄ちゃん……もう、いいよ」
ヤブカがボソリと呟いた。その表情は暗く、何かを憂いでいるかのようだった。幼くて無邪気だったヤブカの姿はそこにはなかった。これはヤブカじゃないのか? そうだ。誰かがヤブカの姿を奪ったんだ。そうに違いない。きっと体を失ったヤブカは、どこかで苦しんでいるはずだ。この体をヤブカに返してやらなくちゃ。
僕はヤブカの体を奪った何者かに接近し、その頭を掴んで地面に叩きつけた。何度も、何度も叩きつけた。
――早くその体から出ていけ。それは弟の物だ。
やがてその頭部は裂け、中からドロドロとした液体が出てきた。このドロドロこそがヤブカの体を奪ったやつだ。
「お……兄ちゃ……」
こいつ、まだ口を聞きやがる。ヤブカのふりをしやがって。僕は騙されないぞ。
次第にドロドロは辺り一面に飛び散り、ヤブカの体は動かなくなった。安心した僕は、そっと胸を撫で下ろした。
これでヤブカが元に戻る。動かない体を抱きかかえ、ヤブカを捜しに向かおうとした時、周りに落ちている何かに気がついた。どうやらそれは蚊の死体のようだった。どことなくボウフラの面影の残った奇妙な死体が、そこかしこに落ちていた。
そうです。これは皆、家族の死体なのです。
僕が殺した家族たちなのです。
いやいや、そんな訳ないじゃないか。だって家族は皆生きてるんだ。お前が見殺した家族が。違う、皆を殺したのは僕じゃない。あの人間だ。そうだ、あいつを――あいつらを皆殺しにしてやる。
その時、閃光と共に見知らぬ光景が脳裏を駆け巡った。人、人、人。人間たちの姿。どれも知らない顔ばかりだ。けれど、それは確かに知っている光景。
これは僕の記憶? 僕は元々人間だったんだ。……どうでもいいよ、そんなこと。それが何だって言うんだ。僕が人間だったからといって、人間への殺意に変わりはないし、人間を殺しちゃいけない理由にもならない。
僕にはまだ、やることがあるんだ。
その時、腕の中でヤブカが目を覚ました。ヤブカは僕の姿を認めると、にっこりと微笑んだ。
「ヤブカ、もう大丈夫だよ。兄ちゃんが皆の仇を討ってやるから。全部終わったらまたここで――」
「違う……お兄ちゃん、もういいんだ。そんなこと僕も皆も望んでなんかいないよ。ただ、お兄ちゃんには幸せになってほしかったんだ」
幸せ? 僕の幸せは皆と一緒にいることだ。皆といられるなら僕は何も悲しくなかった。何も怖くなかった。それを奪われた。世界でただ一つの幸せを奪われたんだ。
「だから、僕たちの夢を見るんだ。気づいているんでしょう?」
そうだよ。だから僕は自分が幸せになれる世界を作ったんだ。ここには皆がいるから。ここでなら僕は生きていけるから。
『夜、空を見上げると、たくさんの光がキラキラしてるんだ。お兄ちゃん、言ってた。水の中以外にも広い世界があるって。お兄ちゃんが話してくれた世界、とても綺麗で素敵だったよ。だから、お兄ちゃんはその世界で生きて』
ヤブカは涙を流しながら言葉を紡いだ。卵から孵ったばかりのあの時より、ヤブカはずっと大人になっていた。
……もちろん、そんなことあるわけがない。ヤブカはもう大人になんてなれないから。この言葉だって、ヤブカがそう言ってくれたら嬉しいと僕が思っているだけ。自分が言われたい言葉をヤブカを使って言い聞かせているだけ。
だけど――そうだな。いつまでもここにはいられないもんな。
直後、世界に一筋の線が刻まれた。それは徐々に広がり、四方八方に枝が伸びていく。
「ヤブカ、分かったよ。もうお別れだ。お前とも、この世界とも」
ヤブカの姿も光の粒に変わり、少しずつ消え始めた。ガラスが砕け散るかのようにこの空間そのものが形を失い、崩れ始めた。次第に広がる強い光が、全てを飲み込んでいった。
『大丈夫。僕たちはお兄ちゃんのそばにいるよ。それに――』
ヤブカは僕ではないどこかへ視線を向けた。穏やかで切ない目の見つめる先には一匹の蚊の姿があった。それはつい先程出会ったあの雌の蚊だった。
ヤブカは最後にもう一度だけこちらを見ると、小さく微笑んだ。だいすき――最後にそう聞こえた気がした。それは、ヤブカの最期の言葉そのものだった。
世界は再び無に帰った。暗い道、何もない世界。僕はそこを歩いていた。どこを目指すでもなく。
やがて、はるか遠くに光が見えた。そこから声が聞こえてくる。
「ねえ! 聞こえているんでしょ? お願い、戻ってきて――!」
あぁ、そうか。そこが僕の生きる世界。
次第に世界の輪郭がはっきりとしてきた。頭の中が霧に覆われているような奇妙な感覚がする。けれど、先程まで感じていた重苦しくてドロドロとした感情は消えている。いつの間にか僕は地面に突っ伏していたようだ。そんな僕をメスの蚊が見下ろしていた。
「大丈夫?」
「あぁ……」
僕は体を起こすと彼女の横に並んだ。微かに震える体に、彼女はそっと前脚を添えてくれた。自分以外の誰かがいてくれるだけで、僕は気持ちが少しだけ落ち着いた。
僕は迷っていた。自分の身に起きたことを彼女に話すべきかを。初対面でいきなり不幸な話をするのは、やはり嫌われるだろうか。でも、彼女なら受け止めてくれる気がする。
意を決して僕は口を開いた。
「あの……!」
「ねえ……」
なんという間の悪さか、あるいは間が良すぎたのか僕たちは同時に言葉を発してしまった。お互いの声が交わったことに若干の気まずさを覚えながら、僕は言葉を繋いでいく。
「あの、実は僕、家族が皆死んじゃったんだ。あの時、僕は何も出来なかった。助けられたかもしれないのに……それで、何だか自分でもよく分かんなくなっちゃって。……まだ頭が上手く回らないや」
「ええ、分かってるわ。私も同じようなものだもの」
そして彼女は語り出した。僕と同じようにたくさんの家族と一緒だったこと、一匹で出かけ、家族の元に戻った時にはそこに誰もいなかったこと。それから彼女は自ら孤独を選ぶようになったのだ。失う悲しみを知ってしまったから。
けれど、それでも彼女は僕の元へ現れた。同じ孤独同士の出会い、それは単なる偶然だったのかもしれない。
「聞いていいかな、僕、死んだ家族は今でもそばにいてくれると思うんだ。目には見えないけれど、すぐ近くで見守ってくれているというか。これって変かな?」
彼女は小さく微笑み、答える。
「変じゃないわ。そういうのも素敵よ。でも、私の家族は違うと思う。私の知らない、どこか離れた場所にいる気がする。私の生きる場所とは少しだけ離れたどこかに」
なるほど、そういう考えもあるのか。などと感心しながら、なぜか僕の心はドキドキしていた。愉快な話題でもないのに。だけど、彼女と一緒にいると安心する。彼女もそう思ってくれていたら嬉しい。とはいえ、そんなことを聞ける勇気なんてない。ただ、今はこんな時間がずっと続けばいい。そう思った。
不意に、絞り出すように彼女は言った。
「ねえ……私と家族にならない?」
つづく




