第21話「堕ちる」
本物の建物も本物の街も見なくなって久しい。もちろん、本物の太陽も。窓から差し込む光やそこに映る景色は、外の世界の再現に過ぎない。毎日毎日何も変わらない光景に静かすぎる空間。そろそろ嫌になってきた。……そういえば、このところ本当に静かだ。
「大丈夫?」
視線の先で、一匹の蚊が僕を見下ろしていた。見知らぬ蚊だ。声も知らないメスのもの。ヤブカでも、家族の誰かでもない。けれど、今の僕にはその蚊しか頼れる者はいない。そう思ってしまった。
彼女は少しずつ羽の動きを止めていき、ゆっくりと僕の前に降り立った。僕のものとは違う繊細な触覚、そして人の血を吸うための口吻。蚊は視覚で相手に惹かれることはないと思うけれど、僕には彼女の姿が美しいと感じられた。神様にもらった、「恋愛神の作った聖水」の効能なのだろうか。
「えっと……君の名前は?」
「名前? 何それ? めちゃくちゃに飛んだり不思議なことを聞いたり。あなた、変な蚊ね」
「変……? そうだ、変なんだよ。ヤブカ――弟が急にいなくなっちゃったんだ! さっき見た時はボウフラだったんだけど、今は僕にそっくりで、でもちょっと色は黒くて……」
僕は早口でまくし立てた。黙って聞いていた彼女の顔からは少しずつ表情が消えていくように見えた。ひとしきり話終えると、彼女は目線を何度かずらした後、ゆっくりと口を開いた。
「えっと……私はあなた以外見なかったわよ。弟さんらしい姿は影ひとつなかったと思う」
彼女の言葉に僕は呆気に取られてしまった。言っている意味がわからなかったのだ。ずっと一緒に飛んでいたのに、僕一匹しか見ていないなんてあるはずがない。きっと嘘をついているんだ。本当は彼女が弟をさらった犯人なんだ。そうに違いない。ヤブカの影ひとつないだなんて……影? ――黒い外見でずっと後ろをついてきて、突然に消える。ヤブカのこれまでの行動が一つの線で繋がり始めた。
そんなことさせない。これは繋げてはいけないことなんだ。頭に浮かんだ疑念を振り払おうと、他のことへ意識を向ける。しかし、僕の目は見てしまった。僕の足元にいるヤブカを――否、それは僕の影に過ぎなかった。
「そんな……そんなはずない。だって一緒に……」
その時、僕は水槽のことを思い出した。ひょっとしたら、疲れてあそこに戻っているだけかもしれない。最初に僕が見た時、ヤブカはそこにいた。だから、また覗けばきっとヤブカはいるはずだ。
僕は胸の内にざわめきを抱えながら水槽へ向かった。
「ちょっと、どこ行くのよ」
彼女も僕の後ろをついてきてきた。でもそんなのは関係ない。重要なのは水槽の中にヤブカがいるかどうかだ。もちろん、いるに決まってる。僕が覗けばそこにいるのだから、いないはずがないんだ。
水槽の縁に立ち、中をのぞき込む。そこにはやはり僕と同じ外見のヤブカがいて、こちらを見上げている。安心して笑顔を向けると、ヤブカも同じように笑顔を返してくれた。
僕の隣に彼女が止まり、同じように覗き込む。すると、ヤブカの隣にもう一匹別の蚊が現れた。他にも生き残っていた家族がいたのか、それとも友人ができたのか……。
「そこに弟さんがいるの?」
彼女がそう言うと、水槽の中の蚊もそれに合わせるように口を動かした。一体何が起こっているんだ? 確かめるように、僕もヤブカへと声をかける。
「ヤブカ、そこにいるんだろ?」
すると、ヤブカも僕と全く同じタイミングで全く同じ形を描いて口を動かした。
これは……僕? ヤブカだと思って話しかけていたのは僕だったのか? ということはヤブカはいない……。と、ここで僕はあることに気づく。――水槽の中を泳いでいるボウフラらしい影を見たじゃないか。一緒に飛んでいたのは影で、ここから見えるのは水面に映った僕。ヤブカはまだ蚊になっていないんだ。あんなに小さかったんだ。何を勘違いしていたんだろう。
僕は真横から水槽を覗く。その中には、やはり動く何かがいる。目をこらすと、それはボウフラに違いなかった。しかも一匹ではなく何匹もいる。
そうだ、僕は家族を皆助けていたんだ! 誰も死んじゃいない。皆こうして生きているんだ!
僕は嬉しくなって皆の名前を呼んだ。しかし、水槽越しでは聞こえないのか、気づかないように泳いでいる。
次の瞬間、背後から巨大な影が迫り、ボウフラ達を口の中に閉じ込めてしまった。
「やめろ!」
影の主はメダカだった。ボウフラ達は次々にその口の中に吸い込まれていく。その凄惨な光景を僕はただ見ていることしかできなかった。あの時のように――。
水の流れに乗って、何かが僕の前に漂っていた。よく見るとそれは、メダカが食べ損ねたボウフラの頭部だった。しかし、僕が驚いたのはそれが頭だったからというわけではない。
「これ……誰だ?」
その頭部は僕の家族ではない、見知らぬボウフラのものだった。この水槽の中にいたのは全員、僕の家族とは全く違うボウフラ達だったのだ。僕の目前にはただ無情な現実が広がっていた。
「くっ……はは……あれ? はぁ……ふふっ」
何故か笑いが込み上げてきた。僕はどうしてしまったんだろうか。何がおかしくて笑っているのだろうか。分からない。でも、止まらない。笑いを止めれば、それこそ僕の心が粉々に崩れてしまう。そんな気がした。
「どうしたのよ! しっかりしなさいよ!」
「誰も……助けてなかったんだ……ヤブカだって、もう……」
モノクロームに濁った視界が歪み始めた。もう何も考えたくない。何もしたくない。何もかも嫌だ。死にたい。
死にたい。
誰か。
僕を助けて。
僕は落ちていく。どこまでも深く。底に着いたと思っても、それは通過点でしかない。地上からはるか下には、もはや陽の光は届かない。
ここには誰もいない。僕一人の世界。孤独が、寂しさが、苦しみが僕の上に堆積していく。僕の体は押し潰され、地上への唯一の道も永久に閉ざされる。
僕は穴を掘っている。どこまでも深く。押し潰されないためにはそうするしかなかった。自ら陽の光を拒絶するしかなかった。
どこまで進んだかは分からない。ただ、背後には嫌な感情たちがすぐ側まで迫っている。逃げなければ。自分の心を守らなければ。たとえ、命を犠牲にしてでも。
やがて、光が見えた。これまでの穴の中とは違う、広々とした世界。そして何より、ここにはたくさんのものがいた。その中にはヤブカや家族もいる。
「おにいちゃんだ!」
「来てくれたんだね!」
蚊への変態を果たした家族が一斉に寄ってきた。皆の嬉しそうな様子が、羽音で伝わってくる。
こここそ、僕が求めていた場所。僕がいるべき場所だ。僕はここにいたい。この暖かな光に包まれた世界に、いつまでもずっと。
やり直すんだ。僕の全てを。みんなとの全てを。
つづく
あと数話で終わるはずです。
終わりたいです。終わらせます。




