第20話「出逢い」
あれから何ヶ月か経った。いや、ほんの数週間、あるいは数日だったかもしれない。僕は相変わらず決まった時間にスイッチを押すだけの日々を過ごしている。今頃地上はどうなっているんだろう。モニターを街のカメラ映像に切り替えるて見るが、様子は何も変わっていない。まだ人類は滅ぼされていないみたいだ。安心したら腹が減ってきた。
むせかえるような暑さ。雑音にしか聞こえない蝉の声を聞きながら僕は水受けを見つめている。そこに水は張られておらず、夏の強い日差しで照らされ、乾いている。確かに存在したはずのものは幻のように消え失せていた。胸に重くのしかかる感情が悲しみなのか、それは分からない。
腹が減った。昨日から何も食べていないのだから当然だ。しかし、空腹を満たしたい欲はあれど何かを口にしたいとは思わない。僕の心とは関係なく、肉体は正常に機能している。そのことに、また嫌悪感を募らせる。
僕はまだ生きている。いや、死んでいないと言う方が近いのかもしれない。けれど生きている実感なんて全く無い。ただ、死んだ家族がここにいないということは僕は今生きているのだろう。それなら今すぐにでもこの生を終わらせてしまいたい。もう生きている意味もない。生きているべきじゃないのだから。
このまま何も食べなければいずれ死ねるのだろうか。「食べる」ということを意識したせいか、飢餓感が一段と激しくなり苦しみとなって現れる。
それが、生きている証。
喜び、悲しみ、苦しみ、腹が減るのも死にたいという思いも全部、生きている証。
僕は静かに目を閉じた。生きている証とやらを全て放棄するのだ。
――ちゃ……。
何も見ない。何も聞かない。腹が減ったと主張する肉体の叫びも無視だ。そのうち何も感じなくなる。
――にいちゃ……。
世界が闇に溶け、自分という存在もそこに消えていくようなイメージが瞼の裏に映る。そこには変わらぬ無邪気な笑顔をうかべた弟たちがいる。
――おにいちゃん。
ああ、迎えに来てくれたんだ。これからはずっと一緒だ。僕は闇に降り立った家族へ前脚を伸ばした。
「お兄ちゃん!」
その声に、僕ははっと目を開く。僕を呼ぶ声が確かに聞こえた。
声の主を捜して飛び回る。ふらつきながらもかろうじて飛ぶことができた。
庭の隅にある水槽を見つけ、そこへ降り立った。中は緑に濁っていて良く見えない。ボウフラらしき白い物体が動いているのは見えるが、判別がつかない。上から身を乗り出して覗き込んでみることにした。中を見下ろすとそこには、僕と良く似た外見の蚊がいた。
「お前は……」
蚊はにっこりと笑って答える。
「……お兄ちゃん、僕、ヤブカだよ」
蚊の発した言葉に僕は衝撃を受けた。昨日のヤブカの最後の姿が脳裏をよぎる。弱って息も絶え絶えのヤブカの姿、力無く水面に浮かんでいる姿、そして――。
「お兄ちゃん寝ぼけてるの? 昨日、お兄ちゃんが僕をここへ運んでくれたんじゃない」
――そうだ。
僕は、昨日のことを再び思い出した。
◆
「おに……いちゃ……ん……まだそこ……に……いる?」
「ああ……ここにいるよ」
僕はそう言いながら、ヤブカにそっと触れた。言葉だけじゃなく、抱きしめてやるのだ。――兄ちゃんは傍にいるぞ。そう伝えるために。
そうしてみて気がついた。ヤブカ一匹だけなら、ここから連れ出せると。先程まで何の役にも立たないと思い込んでいたが、僕の脚と羽ならヤブカを助けられる。思い切ってヤブカを持ち上げた。
「わ……なんか……へん」
「大丈夫。別の水の所へ行くからな。絶対、助けてやるから」
「わ……かった」
僕はヤブカを抱え、庭を飛んだ。目指すは安全な水場。暗闇の中を水の匂いを頼りに動く。
「おにいちゃ――ぼく、とんでる!」
少しだけ回復したヤブカははしゃぎだした。を動こうとするヤブカを落とさぬように強く抱きしめる。
そして、水の中へ入れた。
「おにいちゃん、ぼく、空飛んだよ!」
「そうだな。元気になったら、また一緒に飛ぼうな」
「うん!」
◆
あの時、ヤブカだけは助けることができていたんだ。でも、他の家族を助けられなかったことを僕は許せなかったんだ。
救えなかった命を悔やむばかりじゃなく、救えた命をしっかり見てやらなくては。
「ねえ、僕もお兄ちゃんみたいになれたよ! 一緒に空を飛ぼう!」
ヤブカは無邪気にそう言った。きっと悲しみは残っているだろうにそれを見せようとしない。僕が思っている以上にヤブカは成長していたのかもしれない。そして今、僕はヤブカに救われているのかもしれない。そう感じた。
一緒に空を飛ぶ、か。ようやく広い世界をヤブカにも見せてやれるんだ。しかし、今の俺は空腹が限界に達している。まずはそれを何とかしなければ。
「分かったよ。でも、兄ちゃん腹減ってるから、ちょっと待っててくれよ」
「分かった! 待ってるからね!」
大急ぎで草花の蜜を吸う。青臭くて甘い味が口いっぱいに広がる。こんなに蜜がおいしいと思ったのは初めてだった。それだけじゃない。太陽も、風に揺れる草花も、蝉の音も、何もかも美しく思える。今ここにある命をまざまざと感じさせられた。
満腹の少し手前あたりで蜜を吸うのをやめ、ヤブカのもとへ戻る。本調子とはいえないが、頭もスッキリして飛び方も安定している。
「ヤブカ、お待たせ」
「おそいよ!」
水槽を覗くと、やはりそこにはヤブカがいる。ヤブカははやる気持ちを抑えられないという様子で、体をゆらゆらと揺らしている。 ヤブカへと伸ばした前脚。それが水面に触れた途端、ヤブカの姿は波紋にかき消されてしまった。
突然のことに混乱しつつ辺りを見回すと、ヤブカは僕のすぐ後ろにいた。消えたのではなく、ただ水から出ただけだった。いたずらに、僕を驚かせるつもりだったのかもしれない。実際、驚いたけど。
「いたずらは終わり! さあ、空を飛ぼう」
「うん!」
僕たちは羽を広げて、青空へ飛び立った。始めはゆっくり、そこからスピードを上げたり旋回したり、思う存分風を感じた。ヤブカも僕のすぐ後ろについてくる。てっきりまだ上手く飛べないかと思っていたので意外だった。きっと、練習をしていたのだろう。その姿をイメージすると、自然と笑みがこぼれた。
僕と一緒に飛ぶために、頑張って――。
頑張って……。
ふと、頭の中にいつかの景色が浮かぶ。
『お前は誰よりも頑張れるすごい子だよ。だから、何が待っていたって、お前はきっと乗り越えられるさ』
『ほんと?』
餌を取れるようになったヤブカ。あんなに小さかったのに、今では空を飛ぶように――
『ぼ…………くき、ょう? ガんば……って……い、キた? よ』
記憶の風景へヤブカの顔が重なる。死への恐怖と苦痛に歪んだ顔が。
――違う、あれは夢、悪い夢だったんだ! 僕はヤブカを助けたんだ!
頭の中に描かれた幸せな思い出たちが、夢の光景で塗りつぶされていく。
『ガン、ばっタ……ヨ…………ぼ………………く』
――頑張らなくたっていい! ただ一緒にいられるならそれで……いや、ヤブカは死んでなんかいない! 今も生きてるんだ! だって、僕は――。
『おにい、ちゃ……。ぼく――』
「ごめ……あぁ……うわあああああっ!!」
俺は幻影を振り払うために無我夢中で飛んだ。声にならない叫びが無意識に発せられる。天と地が何度も入れ替わり、視界が渦巻いていく。やがて僕の体は糸が切れたように力が抜け、木の葉の上に落ちた。
ただの夢。そのはずなのに。
どうしてこんなにカナしいんダろウ。
「お兄ちゃん、大丈夫?」
その声を聞いて、僕は少しだけ安心した。ヤブカは確かにここにいる。僕はヤブカを助けたのだから。こうして姿を見て、声を聞けることが何よりの証拠じゃないか。どんな悪い夢でも夢は夢。いつか忘れるに決まってる。
僕は嫌な想像を振り払うように笑いながら立ち上がった。
「ごめんごめん。大丈夫だ……よ……」
その言葉を聞いている者はいなかった。すぐ側にいたはずのヤブカの姿がなぜか見当たらない。またいたずらしようとしているのか、と後ろを振り返ってみるが、葉が風に揺れるばかりでヤブカの姿はない。
――どこにもいない。そんなわけない。どこだ? どこにいるんだ! ヤブカ!
ヤブカ。ヤブカ。ヤブカ。ヤブカ。ヤブカ。
ヤブカヤブカヤブカヤブカヤブカヤブカヤブカヤブカヤブカヤブカヤブカヤブカヤブカ――。
得体の知れない不安と心細さ、寂しさが胸の内を侵食していく。まさか、夢は――。
「大丈夫?」
刹那、声が聞こえた。ヤブカの物とは違っている。祈るような気持ちでその声に振り返ると、見慣れない一匹の蚊がこちらを見下ろしていた。
つづく




