第19話「月の光」
翌日、彼は部屋に来なかった。代表曰く「配置換えをした」とのことだったが、察しはつく。彼がどうなったのかは想像したくもない。手がかりを求めて部屋の中を探してみると、一枚のメモを見つけた。「回帰、現生人類の終幕、人工進化」と走り書きがされている。何となくただ事じゃない、人類の危機なのは分かる。でも、下手に動けば僕も処分される。……それに、今更僕一人でできることなんて無い。
……時間だ。僕はフロン放出のスイッチを押した。
人間に見つかった時はどうなることかと思ったが、今日もまた平穏な一日になりそうだ。平和で何の変哲もない、特別でもない日。
異変が起きたのはそんな一日の終わり、夜になってからのことだった。
何かがおかしかった。いつも聞こえてくるはずの皆の寝息が、今日は酷く乱れて過呼吸のような苦しげなものになっていた。慌てて水受けに近づく。日中に巻かれた洗剤の塩素の臭いがまだ残っている。
「大丈夫か?」
「あ……お兄ちゃ……」
ヤブカの声だった。返事をしてくれたその声は息も絶え絶えという感じで、痛々しく思えた。
「どうした? どっか痛いの――」
「皆……動かなく……なっ……ちゃったの」
え……。
あの時は何ともなかったのに、何がどうなっているんだ。
僕の頭の中は真っ白になった。
「みんな……もう寝ちゃった……のかなぁ」
水面には浮き上がった弟や妹達の姿があった。呼吸をしている時のように垂直に浮いているのではなく、水面で眠るように横たわり、漂っている。
「ぼくも……早く……ねなきゃ」
そんな、嘘だ。
嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。
僕のせいなのか? 多分そうだ。そうに決まってる。時間はあったんだ。こうなるまでに無理やりにでもここから出しておけば、全員とはいかなくても何匹かは救えたかもしれない。何もしなかった僕のせいだ。何ともないだろうと安心した僕のせいだ。自分だけ安全な場所で、油断した僕のせいだ。
目が熱い。涙が溢れていることに気づいた。悔しさか怒りか分からない感情が湧き上がってくる。それを外へ出したくて地面を殴るが、細く弱い腕ではなんの手応えもなかった。
この腕が、この体がただただ憎かった。誰も持ち上げることができず、それでいて自分だけが飛んで逃げられるこの体が。今すぐに羽をもいで、この水の中に体を沈めたかった。でも、それすらもできない。自分を痛め付ける勇気すらなかった。
ごめんなさい――ただその言葉を繰り返しながら小さく泣き叫ぶしかなかった。
刹那、声が聞こえた。
「おに……いちゃ……ん……まだそこ……に……いる?」
「ああ……ここにいるよ」
僕が泣いていたらヤブカも余計に怖がってしまう。そう思い、努めて冷静に答えた。ふっと出た自分の声が恐ろしく冷たく感じた。けれど、ヤブカは安心したように声を漏らした。
「いきが……くるし、いん……だ。ぼく……もう……死んじゃう……のかな」
ヤブカは死期を悟っているようだった。そして、それに気づくと同時に、あの洗剤の意味にも気づいた。あれは酸素の供給を遮る為のものだったのだ。しばらくは水中の酸素でまかなわれていたものの、今ではそれもつき果てているのだ。
「ねえ……おにい、ちゃ……ん。きこえて……る……?」
「きこえてるよ」
「あ……れ? おにい……ちゃん……の……こ、え。きこ……え? なくな、ちゃた」
もう喋らなくていい。もうお兄ちゃんと呼ばないでくれ。そう言いたかった。
「でも……き、ときいて……くれて? る。よね」
僕の声はもうヤブカには届かない。懸命に呼吸しようとしているから、僕の姿だって見えてはいない。それでもヤブカは語りかけている。あまりにも痛々しくて目を逸らしてしまいたかった。そのままどこかへ逃げたかった。けれど、僕にはヤブカの言葉の全てを聞き遂げる義務があり、責任があった。
「ぼ……くね…………しあわせ、だたっよ。おにー……ちゃ、。んや? みんな……といっしょ、に……いら。れて。」
「うん」
「ぼ…………くき、ょう? ガんば……って……い、キた? よ」
「……うん」
「ガン、ばっタ……ヨ…………ぼ………………く」
「…………うん」
よく頑張ったな、偉いぞ。そう言って頭を撫でてやりたかった。力いっぱいに抱きしめてやりたかった。でも、僕にそんな資格はない。
もし、死の苦しみにあえいでいるのが自分だったらどんなに楽だっただろう。皆と共に死ねていたら、どんなに幸せだっただろう。そして、皆を守ることができていたら――。
今の僕には、幼い弟の最期の瞬間まで一緒にいてやることしかできない。
「おにい、ちゃ……。ぼく――」
最後まで言い終わることなく、その言葉は途絶えた。そこに続くはずだった言葉と引き換えに、何かがふわふわと浮かび上がってきた。ヤブカだった。ヤブカ――いや、さっきまでヤブカだったものと目が合った。その顔は酷く歪んでいる。
「ごめんな……皆……何もできなくて。苦しかったよな。……怖かったよな」
物言わぬヤブカを脚で撫でてやる。その時、微かにヤブカが笑ったように見えた。けれど、その目はもはや何も捉えてはいなかった。彼の口は四文字の言葉を描き、永久に閉じられた。
誰も、救えなかった。
何が「お兄ちゃん」だ。何が親代わりだ。
皆に何もしてやれなかった。水の中以外の世界を見せてやりたかった。草花の蜜の味を知ってほしかった。一人飛び立つその日まで、ずっと一緒にいてやりたかった。
無意識に自分の脚が小刻みに震える。僕はもう、何を堪える必要もなくなったのだと気づいた。捕食者にも、まして人間にも、ヤブカにも聞こえない、蚊の上げる泣き声。全ての生命が尊く、また同時に無価値な、残酷でどうしようもないこの世界に僕ができる唯一の抵抗だった。涙で歪む視界には、水面に累々と浮かび上がる弟や妹たちだったものがあった。その様をまざまざと見せつけるかのように、月の光が揺らめいていた。
涙が涸れるまで泣いた僕は、茂みの中で休むことにした。いや、休もうとしたわけじゃない。ただ何もしたくなかっただけだ。何もかもどうでもよかった。それでも生きたいと思っている自分が、ただの一匹も家族を救えなかったのにのうのうと生きている自分が、そして今、生き延びようとしている自分がただただ嫌だった。
何度も負の感情がリフレインする。眠ろうとする度にヤブカたちの姿が脳裏によぎった。今日は眠れないかもしれない。けれど生物の体とは都合の良いもので、いつの間にか眠ってしまっていた。そのことに気づいたのは、陽の光の下で目を覚ましたからだ。
その後、僕が庭の水受けを見に行った時には、もうそこには家族の死体はおろか一滴の水すらもなかった。
つづく




