第18話「穢された世界」
彼は盗聴を警戒してか、声を潜めつつ話してくれた。しかし、そこには根幹に関わるような情報は無かった。構成員ですらその実態を知らないとは、おかしいというか怪しいというか。彼も可能な限り調査をしてくれるとのことだが、所詮僕も彼も素人。ほどほどにしといたほうが良いのかもしれない。
繰り返される同じ夢、しかしそれは、螺旋の中で少しずつ変化していく。今日が昨日ではないように、明日が今日ではないように。そしていつしか、その夢を見ることすらなくなる。
夢の終わりは新たな夢の始まり。安らぎに満ちていたはずの夢は、今や黒き異形に支配されてしまった。闇は恐れへと代わり、夢は現実に飲まれようとしている。この光景は全ての――。
◆
物音に気づいた僕は慌てて水底へ姿を隠した。不思議なもので、蚊の蛹は蝶などのそれと比べてかなり活発に動き回ることが出来る。蛹になり、食事をとることや家族と話すことはなくなったがそれ以外はほとんど何も変わっていない。
ただ、殻の中に一人でいるのは寂しい。家族はすぐ近くにいるのに、ずっと孤独を感じていた。独りで夢を見るしかなかった。
僕は先程まで見ていた夢を思い出そうとしたけれど、どういうわけか少しも思い出せない。確かに何かを見ていたはずなのに、目を覚ますとそれは真夏の逃げ水のごとく消えてしまう。
もう、夢の中で孤独を癒すこともできない。早く皆のところへ戻りたい。窮屈な殻から一刻も早く出たい。そう思った時、背中の殻が割れた。僕は身をよじらせながら殻から這い出た。変態を果たした僕の第二の誕生だった。
「あ、お兄ちゃん出てきた! ……って、えぇ!? だれ!?」
弟妹のどよめき声が聞こえてきた。まあ、無理もないだろう。ボウフラと蚊じゃ似ても似つかない姿をしているし。僕にとってはこっちがお馴染みとも言える姿だけど、皆にとっては未知の存在だもんな。
「皆、落ち着いて! 見た目が変わったけど、兄ちゃんだよ」
そう言いながら水面を見つめると、既に蛹になっているのも何匹かいるようだった。順調に成長しているようで、何だか安心した。
「せなかについてるの何?」
「これは羽だよ。これで空だって飛べるんだぞ」
これまで何度も経験しているから、羽の扱いにも慣れたものだ。僕は少し空を飛び回って見せた。それを見た皆は驚きの声を上げていた。
空を飛べるようになって、水中にいた頃よりも段違いな視野の広さを改めて感じさせる。以前転生した時は視力が曖昧だったのだが、不思議なことにこの体では目もよく見える。ひょっとすると神様からの計らいかもしれない。そのおかげで、周りの様子をはっきりと捉えることが出来た。
僕たちがいたのはどうやら民家の庭、水道の水受けだったらしい。住人は園芸が趣味なのか、庭一面に多くの草花が植えられている。成虫になっても食べ物には困らないが、その分天敵も多くいるはずだ。トカゲやクモ、はたまたカエルなんかもいるかもしれない。
上空からの軽い見回りを終え、僕は家族のもとに戻った。
「お兄ちゃんすごいね!」
「わたしも早く大きくなるね」
「おいらも!」
まだ幼虫の皆も今日か明日になれば全員蛹になるだろうし、蛹になっている子もいつ出てきたっておかしくない。そうして皆が巣立てば、この生活も終わり。あとは各々の人生……いや、蚊生が始まる。
「ねえ、お兄ちゃん」
「ヤブカか。どうしたんだ」
「ぼく、ごはんとるの上手くなったよ。見てて!」
そう言うと素早く水に潜り、五秒にも満たない時間で藻のような何かを咥えて戻ってきた。褒めてやると、自信に満ち溢れた自慢げな笑みを見せてくれた。
末っ子で、甘えん坊で、ほんの数日前まで自分で餌を摂れなかったのに、今では見違えたように立派なボウフラになった。甘えん坊なところは変わらないけれど。
もう、僕がいなくても大丈夫だな。
家族の成長は嬉しくも寂しいものだと気づいた。
「お兄ちゃん……ちょっと、いいかな」
「何だ?」
再び呼びかけてきたヤブカに、僕は優しく返した。
「お兄ちゃんは、どうしてぼくたちといっしょにいるの?」
ヤブカの言葉は、僕の想像していないものだった。それが僕には拒絶のように思えた。彼が一匹でもやっていけることは分かっている。けれど、面と向かってそう言われるとさすがに傷つく。はたまた姿の変わった僕のことが怖いのかもしれない。確かに、ずっと一緒にいた存在がある日突然、全く別の姿に変わるというのは恐怖以外に何物でもない。
「……兄ちゃんが一緒にいるの、嫌かい?」
色々な可能性を考えた上で、あえて深入りはせずにシンプルな質問を返した。するとヤブカは首を横に振ってそれを否定した。
「ううん、そうじゃなくて、お兄ちゃんは羽があるからどこへでも飛んで行けるじゃない。それなのに、そばにいてくれるのは何でかなって思って」
「それはね、僕が皆の兄ちゃんだからだよ。皆が無事に大人になって、飛べるようになるまで見守るって決めたからさ」
それを聞いたヤブカは、安心したような表情になった。だが、すぐに不安げな面持ちで目を伏せた。
「ぼくが大人になってもずっと一緒にいてほしいな。ぼく、こわいよ。皆とはなれて一人だけで生きていくの。ごはんをとるのも皆より下手だったし、きっと、すぐにしんじゃ――」
僕はヤブカの目の前に降り立ち、その口に前足を当てた。それ以上は言わせない。死ぬなんて言葉を言わせたくない。たった数ヶ月の命だとしても、人間に潰されてしまえばひとたまりもないとしても。生きることを諦めずにいてほしい、そんな気持ちでいっぱいだった。
「ヤブカ、どんな生き物もいつかは死ぬ。でも、だからって諦めるんじゃなく、生きることに一生懸命になるんだ。死ぬ時に、これまで生きてきた時間が幸せだったって思えた方がいいだろ?」
「ぼくにできるかな……」
「大丈夫。餌を摂れるように頑張ってたことはよく知ってる。お前は誰よりも頑張れるすごい子だよ。だから、何が待っていたって、お前はきっと乗り越えられるさ」
「ほんと?」
「そうさ。それから、覚えておいてくれ。ヤブカが兄ちゃんを忘れないでいる限り、兄ちゃんはいつでもそばにいるから」
なんて、ちょっと気取りすぎかな。でも、これは本心だ。大したことは言えないけれど、少しでもヤブカが生きたいと思えようになるなら、悪くはないだろう。
それからヤブカは羽化した後のことを話し出した。空を飛んでどこへ行きたいだとか、一緒に空を飛びたいだとか、そんな話だった。叶うといい、いや、叶えてやりたいと思う。
と、その時足音が聞こえた。トカゲやカエルじゃない。それよりもっと巨大な……人間だ! 僕は目に付いた家族の名を咄嗟に呼ぶ。
「ヤブカ、ヒマワリ、ミケ、タカシ、水の中に潜れ! 皆にも伝えろ! 早く!」
すると四匹は他の兄弟たちに呼びかけ、素早く水中に身を潜めた。軽く濁った水の底ならそうそう見つかることはないし、もうずっと放置してるんだ。今回も多分見逃してくれるはずだ。
だが、僕の予想は外れた。軽やかな足取りが一歩ずつ近づいてきた。その主は一人の少女だった。そして、僕たちの住処が彼女に見つかってしまった。
「ママー、ここ水溜まってるよ。……何かキモイのがいっぱいいる! ねえ! キモイのがいる!」
「あー……分かった。すぐ行くわ」
まずい。どうすればいい。考えろ、考えるんだ。何か手は……場所を移す……いや、こんな短時間じゃ全員は無理だ。第一、こんな体じゃ僕には運べない。ならば、一時的に避難させる……こともできない。水がなければ皆はいずれ死んでしまう。どうしたらいいんだ。俺は何もできないのか……。
何の案も見つからないまま数分後、少女の母親がやってきた。ゴム手袋を着けた手には何かの洗剤と思しき容器を持っている。
僕は彼女の妨害をするために目の前を激しく飛び回った。だが、その進行を阻むには至らない。一歩、また一歩と進み、ついに水受けの前に到達した。
母親は水面に向けて洗剤を垂らした。鼻をつく塩素の臭いが微かに広がる。状況に頭が追いついていない。けれど、これだけは分かる。僕は皆を守れなかった。
…………。
誰の声も聞こえてこない。悲鳴も、苦しむ声も。
しばらくすると、母親も少女も家の中に戻っていった。慌てて水受けに向かい、その様子を伺う。
「おい、みんな、大丈夫か?」
呼びかけてみると、予想に反して元気そうな声が返ってきた。腑に落ちないことだらけだが皆は無事そうだ。ひとまず安心しても良さそうだ。
つづく




