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蚊としての人生  作者: 内田らいす
第三生:定めのままに
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第16話「あたたかな水面」

代表は僕の予想より柔和な人物だった。なんと施設の一室まで貸してくれた。いくつかのモニターの並んだ部屋、コンソール中央の目立つ赤いボタンを押せば生成されたフロンが地上に撒かれるらしい。

快く迎えてくれるとは、先程抱いた不安は杞憂だったのか……。この機関が単なる環境保護団体の一派じゃないことは確かだ。裏があると見て間違いない。とりあえず、今のところは自分の仕事をしよう。

 辺りは闇に包まれ、何も見えない。けれど不安はない。温かくて、どこか懐かしい感じがする。それらが生み出す心地良さと安心感が空間に広がっていた。

 ここは一体どこなんだろう。――どこだっていい。憎しみも寂しさもないこの闇の中に、いつまでも留まっていたい。

 ココにいた誰もが、きっとそう思っていたはずだ。


――しかし、安寧は永遠ではない。


 闇の中に突如として亀裂が生じ、そこから一筋の光が差し込んだ。しだいにそれは輝きを増し、闇を打ち払っていく。光を恐れて逃げ回るが、それがむしろ光を拡大させる。他ならぬ自らの手によって、安息の地である闇の世界は壊れ始めた。


 ……ああ、もう外へ出なくちゃ。


 ◆


 膜を破って顔を外に出すと、そこは水の中だった。夏の陽射しで熱せられた水の生暖かい感触が、先程まで感じていた安らぎの残滓を感じさせる。

 周囲には僕が這い出たものと似た形の物、すなわち蚊の卵がたくさん並んでいた。やがてそのうちの一つが微かに動きだし、ボウフラが顔を出した。それに続いて他の卵も一斉に動き出した。何十、何百ものボウフラがその姿を表す。全ての卵が孵るまでに一時間もかからなかった。

 無数の、しかも自分と同じ大きさのボウフラが目の前で孵化するという、人間が見れば目を回して倒れていたであろう光景だが、蚊に転生した僕には少しの不快感も無かった。それどころか、むしろ愛おしさすら感じていた。

 ボウフラたち――僕の弟や妹たちは辺りをキョロキョロ見回したり、泳いだりと各々が好き勝手に動き回っていた。

 そのうちの一匹が僕に近づいてきた。


「おにいちゃん!」

「お……おにいちゃん? 僕が?」

「うん。だって、一番に産まれたんでしょ? だからおにいちゃんだよ」


 それを皮切りに、示し合わせたかのように他の妹や弟たちからも一斉におにいちゃんコールがはじまった。僕はその様子に圧倒されながらも、押し寄せる彼らの頭を順番に撫でてやった。


「お兄ちゃん、か……よし、せっかくだ。お兄ちゃんが皆に名前をつけてやるぞ」


 卵を産んだ母は既にどこかへ行ってしまっている。どの蚊なのか、生きているのかすら分からない。ならば僕が親代わりになろう。名付けはその第一歩だ。きっと喜んでくれるだろう、という僕の予想に反して弟妹たちは皆きょとんとした表情になった。


「なまえってなあに?」

「ぼくわかんない。しってる?」

「しらなーい」

「おにいちゃん、なまえってなあに?」


 そうか、蚊には名前って概念がないのか。何度も蚊として生きてきたはずなのにすっかり忘れていた。だが、親代わりになるなら彼らに名前をつけてやりたい。参ったな、どう説明すればいいか。


「その、まあ……皆の姿、そっくりだろ?」


 弟妹たちは互いに顔を見合わせては「そっくりだね」と声を漏らした。


「見た目じゃ違いがないから、それ以外で皆を区別するためのものが名前だよ」

「わたし、なまえほしい!」

「ぼくも!」


 口々にそう言いながら弟妹たちは我先にと前へ前へ詰めてきた。もし全員が人間だったなら、一人や二人圧死してもおかしくない密度だった。


「順番につけてやる……から、慌てるなって。……もし他の子の名前の方が良くても泣いたり、『あっちの方が良かった』とか言うんじゃないぞ」

「「「「「はーい!」」」」」


 こうして僕は、百個近い数の名前を考えることになった。さすがに百以上の名前を考えるのは骨が折れる。でも、かわいい弟妹たちのためだ。

 俺は頭をフル回転して名前を絞り出した。


「お前の名前はローズだ」

「すてきななまえ! ありがとう!」


「お前はミント」

「ぼく、みんとだね」


 アサガオ、スイレン、アジサイ、ダリア……。


 しかし、段々とネタ切れになってきた。霧に覆われたように真っ白になる脳内。兄貴ぶってかっこつけたことを言わなきゃよかった、自分のことを激しく呪った。しかし後悔したところで状況は変わらない。一度言い出し、始めてしまった手前、途中で辞める訳にはいかない。


 二時間後――。


「お前の名前は……カトリだ」

「わぁい」


「お前は…………ムヒ」

「むひ!」


「お前は………………タミン」

「おいら、おとこだよ」

「文句を言わないって……じゃあ、ヒスタだ」

「にいちゃん、ありがと!」


「お前は……………………ヒャクゴジュウイチ……」

「ぼくがいちばんさいごかぁ」


 やり切った。僕は思わずその場に倒れ込んだ。けれどここは水の中。倒れ込む地面など無いので、中途半端な体勢で浮かぶだけだった。

 ようやく全員に名前を付け終えた。皆幼いからか、それとも虫だからか、勝手に動き回るもんだからすぐに誰が誰だか分からなくなってしまう。名前も思いつかないことと相まって凄まじく時間がかかってしまった。ひょっとするとダブってる名前もあるかもしれないので後で確認しておくとしよう。

 でも、皆喜んでくれてるみたいで良かった。外見で見分けはつかないと思い、名前をつけることにしたけど、近くでよく見たみんなの顔は少しずつ違って見えた。それに、喜び方も様々だった。

 名前だけでなく外見でも見分けられるように、せめて成虫になるまではちゃんと皆の事を見てあげよう。長男として、親代わりとしてね。


 僕がくつろいでいると一匹のボウフラが近づいてきた。


「お……にいちゃん……」


 一際小さな体と、引っ込み思案な喋り方、そしてこの声には確かに覚えがある。きちんと名前を呼んでやりたいが、まだ外見と名前が一致できていない。


「どうした? お前はえーっと――」

「あ、あの、えっと、ぼく……ヤブカ」


 そうだ、ヤブカだ。名付けた順番と生まれた順番は一致しているわけじゃないから分かりにくいが、こいつはこのボウフラ達の中で一番の末っ子だ。


「あの、ぼく、おなかがすいちゃって……」


 それと同時に、ヤブカの腹が音を立てて鳴った。僕は周りの弟たちの姿を一瞥し、その様子を見た。皆、水中を漂う極小のものを追いかけては口にしている。


「その辺りに小さいのがいるだろ? それを食べればいいんだぞ」

「でも、ぼく、ぜんぜんとれないし、みんなもわけてくれないんだもん」


 ヤブカは今にも泣き出しそうだった。

 水の中には微生物だけじゃなく、その死骸だって多くいる。それすらも取れないとは鈍臭すぎる。末っ子と言ったって、長男である僕とは数十分ほどしか年は変わらないというのに。

 他の兄弟たちも気にかけて……って生後数時間でそんなことできるわけないか。仕方ない、僕が面倒を見てやろう。


「分かった。お兄ちゃんが捕まえてあげるからな」


 僕は目の前を通り過ぎようとした微生物をさっと口に入れた。間違えて飲み込んでしまわないように、慎重に咥える。そして、それをヤブカにあげ……るにはどうすればいいんだ? 手は使えないし、かといって離したらヤブカは上手く食べられないだろうし……。

 と、すると口移ししかないのか。

 ……いや、ちょっと待て! 


 ヤブカは口を大きく開けて待っている。弟が腹を空かせてるってのに、迷ってどうする。でも……。

 逡巡(しゅんじゅん)した後、僕はヤブカと口を合わせ餌を直接運んだ。

 まさかファーストキスが弟――それ以前にボウフラになるとは……マジかよ。大丈夫、舌は入れないし誰にも見られていない……はず。

 それでも何かいけないことをしている気がしてならない。胸の内にモヤモヤとした感情が渦巻く。

 一方、ヤブカはといえばそんな僕を気にも留めず、必死に口を動かしている。それを勢いよく飲み込むと、僕の方を向いた。


「おにいちゃん、ありがと!」


 純真で無邪気な笑顔だった。それを見た途端、先程湧いた気持ちも一気に吹き飛んでしまった。

 考えてみれば僕だってボウフラだし、そもそも虫の間じゃキスなんて概念も存在しないんだからこんなことを意識すること自体間違っているんだ。誰と口移ししたっておかしなことじゃないんだ。

 そう開き直ったところで、ヤブカの腹が再び音を立てた。


「まだ足りないみたい……」


 顔を赤くして、恥ずかしそうにヤブカはそう呟いた。目の前にいるのは紛れもなくボウフラなのだが、お兄ちゃんフィルターのせいかボウフラフィルターのせいか、その姿が酷く愛おしく思えた。

 僕はいっそう張り切って微生物を捕まえては、ヤブカの口に運んでやった。

つづく

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