秘密の散歩
二十三時、玄関の扉が音を鳴らさないように注意しながら、夜の町へと踏み出した。外はとても静かだった。昼間の喧騒は見る影もない。まるで、誰もいなくなったような。そんな静かな夜だが、人の存在は強く感じさせられた。テレビの音、笑い声、料理の匂いなど、人が家で生きているという当たり前の事を、五感を通して訴えてくるのだ。
俺は思わずため息をついた。
月明かりと街灯に照らされた市街地を抜け大通りに出る。
さて、どこへ向かおうか。このあたりは大体知っているから、歩いても面白味はない。それにない事だと思うが、知り合いに会うと面倒なことになってしまうだろう。会うのが友人なら問題はない。だが、それが大人ならどうなるだろうか。親に電話を掛けられてしまうかもしれない。これは秘密の散歩なのだ。だから、親に知られることだけは絶対に避けなくてはならない。そうだ、一方向を目指して遠くに歩くのはどうだろうか。この大きな道路沿いに歩けば、迷子になることはないはずだ。今はスマートフォンも無いから、それが最善だろう。
さあ、右と左どっちに進もうか。
コンビニで買った、エナジードリンクを飲んだ。生き返る、と思った。この散歩は明け方まで、続ける予定だ。途中で睡魔が襲ってきても対処はできない。結局、右か左か悩んだ末に右に決めた。理由は右の方が遠くまで、詳しく、土地を知っているからだ。この右の道は小学校に登校するとき歩いた通学路だ。六年間歩き続けた、感慨深い道だった。校区の端に家があり、小学生の足で三十分かけて通学する。まさに苦行だ。
当時は、どうして自分たちだけ苦しい思いをしないといけないのか、と嘆いていた。しかし、同じ境遇の友達がいたのは、幸運だった。自然と仲良くなり、一緒に登校していた。そのとき、話した内容や友達の表情など、鮮明に覚えていることはない。しかし、体の奥深くに刻まれている感覚は消えておらず、俺は懐かしさを感じる事ができた。
学校が見えた。この十字路を左に曲がった先にあるのだ。創立百年の学校で、建物の古さが目立っている。今年から校舎の建て替えを行うらしい。当然のことだろう。百年越えの校舎は、汚いところが目立ちすぎた。外見が酷ければ、中も酷いものだった。この時代に、まだ和式トイレから洋式に移行してないのは、ここくらいだろう。
少しずつ初めて見る建物が増えてきた。さらに歩けば、目の前に映るのは初めて見る建物のみとなった。ようやく来たな、と俺は思った。時計を見ると、二十五時を過ぎている。俺は少し休憩を取ることにした。周りを見渡すと、公園と近くにコンビニがあった。コンビニで軽食を買い、公園で休むことにした。公園は決して大きくはないが、遊具が一通り揃っていた。昼間は、子供の遊び場になっていることだろう。
ベンチに座り、買ったパンを食べようとした。すると君はまだ子供だろう、と声が聞こえた。
とっさに声が聞こえた方を見ると三十代くらいの男が座っていた。どう答えるのが正解なのか、俺の頭の中に居るネズミが走り回っていた。心臓の鼓動が早くなるのを感じ、額には汗をかいていた。そして額から汗が流れ地面に落ちた。
「通報はしないさ、君が子供だろうと俺には関係ない。それに誰だって、そういう時期はある」男はとても柔らかい口調だった。口元は暗くて見えないが、微笑んでいるのではないだろうか。
俺の口からは、「はぁ」というどうにもならない音しか出なかった。通報されない事には安堵できるが、関わらない方が良い人に会ってしまったんじゃないだろうか。
「今暇なんだ。少し付き合ってくれないか?」
「いいですよ」
俺は少し悩んでからそう言った。ここで断ったら、通報されるかもしれないと思ったからだ。
「ありがとう、俺はしがないトラック運転手だ。君は?」
「高校生です」
「そうだと思ったよ。なんで君は深夜に、外を出歩いているんだ?」
「別に、理由はありません、ただ眠れなかったので」
「眠れないのか」
男は唸った。手を口の前に持って行き、男はさらに訊いてきた。「何か心配していること、不安に思っていることでもあるのか?」
「いえ、特には」
「高校生といえば、大学受験はするのか?」
「S大を受けます」
「合格できそうか?」
「分かりません。ただ俺は合格しないといけないんです」
「何か理由があるのか?」
男の顔を見た。何を考えているか、俺には分からない。男は俺を待っていた。
しばしの沈黙の後、俺は口を開いた。
「……親に言われているんです。大学は、S大以上に合格できなかったら許さない。これまでお前を育てる為に使った金を返してもらう。そう言われました」
俺はそう言いながら、あの日の光景が目に浮かんでいた。
学校から帰宅し、数学の授業で出された宿題を片付けようと机に向かったとき、扉を叩く音がした。俺は、椅子に座ったまま「はーい」と答えた。すると、「部屋に来なさい」と父の声が聞こえ、廊下を歩く音が遠のいていく。父の後を追うように部屋を出た。呼ばれた理由が分からず心の波紋が大きくなった。自分を落ち着かせるように、ゆっくりと廊下を歩いた。廊下の端にある、父の部屋の扉をノックし部屋に入る。
「来たか」
椅子に座り、窓の外を眺めながら父がそう言った。
「父さん、何の用?」
俺は声を震わせながら話しかけた。
「お前の進路の話だ。まずk大の医学部を目指しなさい。もし合格できなくてもS大レベルの医学部に合格しなさい。できなければ、即刻、荷物をまとめて家を出て、働きなさい。そして、お前を育てる為に使った金を返しなさい。話はそれだけだ。戻っていいぞ」
父はそう言い、机の上にあるパソコンをいじり始めた。
「と……父さん、俺は医者になりたいわけじゃない。小説家になりたいんだ。それに金を返せって無理だよ」
勇気を振り絞り、父に言った。声は震えており、それは圧倒的強者を前にした弱者の声色だった。俺はこのまま変わることはできないのだろう。
「駄目だ、お前は医者になり私の後を継ぐ、そう決まっているのだ。嫌なら出ていけばいい。ただし、金は返すんだ」
「でも……」
そう言いかけた時父が言った。「もういい、時間の無駄だ」
その後どうやって部屋に戻ったか覚えていない。気づいたときにはベッドに横たわっていて、俺はそっと目を閉じた。寝ている間は、何も考えることができない。その事実は、俺を安心感で包むと共に、憂懼といった感情が雲となり俺にまとわりついていた。
目が覚めると、体が無重力に包まれていた。そこは真っ青に透き通った水の中だった。上の方から光が差し込み、水の中を照らしている。綺麗だ、俺は心から思った。水面から入った光が、水に反射し光の粒が浮かんでいるようだった。光に近づこうと、水を下の方に掻いた。普通は上に浮上するはずだが、体は下に進んだ。不思議に思った俺は、もう一度水を掻く。しかし、またもや体は下に進んだ。さらにもう一度、そしてもう一度続けてみたが、結果は変わらなかった。何回も抗っている内に、辺りが暗くなっていることに気づいた。ずいぶん下の方に来てしまったのだろう。そこで俺は察した、意味がないと。そして動くことを辞めた。ゆっくりと、ゆっくりと、暗闇の見えない底に向かって沈んでいく。
光はもう見えなかった。
「おい、おい、大丈夫か?」
俺の肩を揺すりながら、男が呼びかけていた。
「あ……はい。大丈夫です」
男が体を後ろに大きく反らし、息を吐いた。
「それならいいが。それで、さっきの話だけど金を返すって言ったって、何千万とあるじゃないか。それだけの金は用意できるのか?」
「できないです。なので、s大に行かないといけないんですが、僕はやりたい事があるんです」
「何がしたいんだ?」
男の首が少し傾いたように見えた。
「小説を勉強したいんです。そして小説だけで、ご飯を食べていきたい。だから医者の道には進みたくないんです」
「医者になれと言われているのか」
男の目が一瞬大きく見えた。
「はい。俺の親は病院の院長をしていて、代々子供が継いでいます。俺の父も親から継いで、俺で六代目になるそうです」
「兄弟はいないのか?」
「いません」
「絶望的だな」
男が手を顎に添えて続けた。
「少し歩かないか」
男と公園を出た。公園の時計を見ると、二十七時になっている。長い時間男と、公園で話していたようだ。この公園に立ち寄って良かった、と心から俺は思っていた。友達に相談することもできず、教師も役に立たない。ずっと自分の中に秘めていたものを、口にできなかった。人は、他人に何かを打ち明けることで、その苦しみを紛らわす。相談しても解決策が思いつかないから、意味がないという人もいるが、それは間違っていると思う。悩みを打ち明け、一緒にいるという事が大切なのだ。一人は良くない、自暴自棄になり、悪い方向に進んでしまうかもしれない。でも、そんなときに横にいてくれる人がいたら、その人が止めてくれる。そして話を聞いてくれる。そういったときに頼れる最高の友達像を、この男に少し重ねてしまっている、そんな俺がいた。
夜の町はやはり静かだった。歩いている人も見当たらなかった。俺は男の後を追って歩き出した。男が俺の一歩先を歩いている。どこに向かっているか分からない。しかし、付いていく以外に選択肢はない。大通りを少し歩いた後、住宅街に入った。俺が家を出るときに感じたものはもうなかった。時刻は深夜になっている。この時間帯に起きている人は中々いないだろう。人の気配がない街に、二人の影、それに足音が溶け込んでいった。
男が不意に足を止めた。どうしたのかと思った俺は、男の視線の先を探した。そこには、暗闇に満ちた住宅街に似つかわしくない、光に満ちた活気あふれる場所があった。
その場所は、毎朝新聞という何の変哲もない家屋を、改造して作っただろう新聞屋だった。改造というが、ただ家の一階部分をくりぬいた程度の改造だ。一階部分に十人くらいの人が集まって、作業している。今が夜であるのが、関係ないような迫力だ。俺はこんな夜中に何をしているのか、男に訊いてみることにした。
「これは何をしているんですか?」
「仕分けだな。まず新聞を注文している客を地域ごとに分ける。地域で分けた客の数だけ、新聞を分ける。s地域に客が十人いれば、新聞を十枚、束になっているものから取り分けるっていう感じだ。それから、取り分けた新聞を配達の人に渡す。これはこの家に、と説明付きでな。そして配達員がポストに投函し、ここまで戻って来たら、仕事完了だ。これを日が昇るまでにやるんだ」
「日が昇るまでに配達する理由は何ですか?」
「これは朝刊だからな。朝起きて新聞がないってことになると、おかしいだろ」
そう言った男の顔は綻んでいた。
「え、そうですかね?」
「朝起きて、会社に行くまでの時間にサラリーマンは新聞を読む。お父さんは朝食を食べている間に、新聞を読んでないか?」
「確かに。読んでいます」
そう答えたが実際に読んでいるのか分からない。父と朝ご飯を最後に食べたのは、何年前の事だろうか。
「そうだろう。起きてくる前に新聞が届いていなかったら、読むことができなくなってしまう。だから、夜が明ける前から皆働いているんだ」
「そういうことだったんですね」
俺はそう言いながら、顔が綻んでいた。なぜ綻んでいるか自分では分からない。だが、自分で抑えられる代物でない、と理解していた。何かを知る行為は大切、そう教育されてきた結果なのだ。「知識は財産」父の言葉だ。知らないことを、知ることはとても重要であり、さらに積み重ねることが大事である。そして、忘れたという概念が消えた瞬間、人の知るという行為は完了する。そういった信念のようなものを持っていた父は、小さい時から俺を教育した。ただ教育と言っても、俺が興味を持ったものは、必ず一度は触れさせるという教育方針で、それは良い父親のような行いだった。しかし、ここで終わる父ではなかった。興味を持ったものに触れた後は、自分なりに調べてまとめなければならなかった。そしてまとめたものを父親に見せる。それから、文章の推敲と情報の正誤を確認してもらい、間違いを正しファイルに入れて保管する。この流れを、幼少期から続けさせられた。この中でも大変だったのが、情報を集めることだった。小学生のとき、スマホは持っていなかった。だから、俺は図書館に通っていた。ノートと筆記用具を持参し、本を数冊用意して読む。そして、読みながら良い部分を抜き出し、ノートに書く。それらを繰り返し、ノートにまとめを書いていった。その作業は当時、小学生だった俺には大変なことだった。
それでも良いことはあった。図書館に通い続けたおかげで、司書の人に顔を覚えられていたのだ。基本、待ちの仕事であった司書さんは、暇があれば俺を手伝ってくれるようになった。無知な俺に、丁寧に接してくれた司書さんには感謝しかなかった。そんな充実した図書館通いも中学生になると、通うことはなくなった。理由はスマートフォンを買い与えられた事と、父親の使わなくなったパソコンを譲り受けたからだ。インターネットの便利さを知らなかった俺にとって、ネットの世界は実に革新的な代物だった。分からないことも検索すると、すぐに大量の情報を得ることができた。今まで色々な本から抜粋していた時間を短縮することができ、まとめを作るのが楽になると同時に、楽しくなっている自分もいた。そんなまとめ作りも高校生になると、作ることはなくなった。もはや、気になった事はパソコンで調べ自主的にまとめを作るようになっていた。そういった良い習慣がついたおかげで勉強に困ることもなく、良い成績を保つことができていた。俺は勉強の面では父を尊敬している。医者という職に就くため、どれだけの時間を費やしたか、分からないほど馬鹿ではない。そんな尊敬できる父だからこそ、裏切りたくないという気持ちがあった。だから俺はため息をつくのだ。
「旦那、早く手伝って」
店の方から女の人の声がふと聞こえてきた。
「すぐ行きます」
横に立っている男が答えた。
俺は何が何だか分からなくなり、混乱した。そんな俺を見て、男は口を開いた。
「知り合いの店なんだよ。近くにきた時は偶に手伝っているんだ」
「凄いですね……」
トラック運転手の貴重な仮眠時間を削り、店を手伝っていることに俺は驚いた。
「でも、どうして知り合いの店なのに名前で呼ばれてないんですか?」
「ウチの会社は副業禁止でね。この近くは同僚が寄ることもある。俺が手伝っているのがばれない様に、旦那呼びなんだ。そもそもここの従業員は、俺の名前を知らないんだ。紹介されたときに、知り合いは俺の名前を明かさずに、今日から働く旦那だって紹介したからね」
そう言った男の顔は、悪巧みを企む悪ガキの顔だった。
「面白い人ですね」
俺はそう答える以外の、選択肢を持ち合わせてはいなかった。
「旦那、いつも悪いな」
後ろから声が聞こえた。振り返るとそこには、大柄な男がこちらに歩きながら手を振っている。横の男は大柄な男に、微笑みながら言った。
「俺が好きでやっている事だよ、親方」
すると親方と呼ばれた男は、はにかんだ笑顔で「そう言って貰えると助かる」と返した。
そのまま親方と呼ばれる男は、二人の目の前に立った。俺は近くで親方を見てこう思った。
デカい。百九十は超えると思われる身長に、アメフトの防具のような肩幅がある。それに肩幅だけではなく、色々な箇所に筋肉もついている。それが、服の上からでもしっかりと見て取れた。多種多様なスポーツに対応できる体だろうな、と俺は思った。そして俺は気がついてしまった。俺が親方を観察していたように、親方もまた俺を観察していたのだ。
「旦那、この子供はどこの子なんだ?」
俺の事が心配だ、と言いたげな優しい雰囲気を醸し出しながら、親方は言った。
「どこの子なのかは知らない。でも親方と話をして欲しくて連れてきた」
「俺と話をする?新聞の配達を仕事にしているおじさんと、話をしても面白くないと思うんだが……」
親方は頭を掻きながら言った。
「そこは大丈夫だ。この子は小説家志望なんだ、話をきかせてやってくれ。道を先に行く先輩としてな」
「なるほど、そういう事なら分かった」
親方の顔が明るくなった。そして俺の事を理解した、そう言いたげな瞳を親方に向けられた。居心地が悪い、そう俺は思った。少なくとも初対面の高校生に、向ける目ではないのではないだろうか。こういった目は長い付き合いの友人などが、何か過ちを犯してしまった時に向ける目だ。小説家になりたいと思うのは、間違ったことなのだろうか。
近くのベンチに座った。店の賑やかな声がほのかに聞こえる。心が落ち着く、良い場所だった。近くの自動販売機で買った二つのコーヒーを、持って親方が横に座った。はい、と片方のコーヒーを渡された。俺がお金を払おうと財布を出したが、親方はそれを手で制した。そして、おそらく親方にしか見ることのできない、暗闇に見える何かを見つめながら、語り始めた。
中学一年生の時、ある本を読んだ。タイトルは「考える少女」考える人を少しもじったタイトルだった。この本の内容といったら、高校生の読書家で好奇心旺盛な少女が「どう生きるか」「人間とは」「この世界は何か」「普通とは」「家族とは」といった哲学的な事象について考え、周りの人と触れ合い、自分の考えを深め、その先に少女は何を考えるのか、といった物語だった。この物語には起伏といったものは存在せずに、ただたんたんと進んでいく。見る人によればつまらないと言われてしまうような本。だけど、俺はこの本に強く惹かれたんだ。当時の俺は簡単にいうと馬鹿な男だった。何があったかは言うつもりはない。だがこの本に救われ、憧れを持ち文章を書き始めた。その若々しい思い出だけで埋め尽くすことができる中学生活、それが幸せだった。
始めて文章を書いてみた。テーマは家族とは何か、というものだった。高校生の男子が主人公の話で、父親はギャンブルと酒に依存しており、母親は若くして重度の認知症という設定の話だ。縁を切りたくても切れない、理由は家族だから。そんな思いを抱いた男子高校生の生活を書いてみたんだ。自分なりによく考えた。どうしたら絶望するのか、複雑な気持ちでいっぱいにさせる為に父と母にどんな行動を取らせるかなど、たくさん考えて書いた。そしてちょうどこれを書き終わったときに、ニュースを見たんだ。自分が考えた設定と、まったく同じ境遇の男の子が両親を殺害して捕まったニュース。それを見た時、俺は思ったよ。この男の子壊れたんだろうなって、そう思ったんだ。足かせにしかならない親を持ってしまった子供に、逃げることを許さない家族という縛り、理性が壊れてもおかしくないだろう。しかも男の子は中学生だったそうだ。多感な時期の事だ、親をコンプレックスに思っていたのかもしれない。それから俺は確信した。家族という括りこそ、辛いグループはない。学校、部活、会社などのグループは回避することが可能だ。学校や会社はたくさんあり、自分に合ったのが見つかるまで探せばいい。だが、家族は違う。生まれた瞬間に決定づけされた確定事項であり、取り消すことなど不可能なのである。だから家族という括りは、馬鹿馬鹿しい物だと本気で思っている。
そんな考えを持って過ごしていたからだろうか。俺は高校卒業と同時に家を出た。理由は小説家になるという夢を馬鹿にされたからだ。たったそれだけか、と思う人もいるはずだ。だがそれは家を出る決心をする、トリガーとなっただけに過ぎなかった。俺に文才はない。その事を悔しいと一番思ったのは俺であり、理解しているのも俺だ。文章を笑うのはいい。その通りなのだから。だが夢を笑われたとき、俺の中にあった何かが壊れた音がした。脈拍は上がり、目の前に存在する全てのものを壊したい衝動に駆られた。そして家を出ることを決意し、衣食住の確保に動いた。それで見つけたのがここだった。ここに務めてからは執筆活動に勤しんでいる。好きな環境で好きな事ができ、俺は家を出て良かった、と思っている。そして横に座っている少年も同じ境遇なんだと察している。旦那の言い方からも考えて、まず間違いないだろう。
「家族は誰がいる?」
「父がいます」
「少年はなりたいものを反対されている、違うか?」
少年は両方の眉を上げ、目を見開いた。今の少年の目は、昔の自分の目と同じ目をしている。分からないはずがなかった。
「俺もそうだった。だが俺はこう考えている、家族なんて馬鹿馬鹿しい。もちろん育ててくれた事に感謝はしているが、それでも馬鹿馬鹿しい。子供の方は産んでくれなんて、頼んでなどいない。結婚して家族になった親、自分たちは自分の意志で家族になると決めることができた。だが子供はどうだ、子供を欲しいと思ったのは親、産んだのも親だ。子供は全て決められてから、誕生するんだ。子供の思いが入る余地は絶対にない。なのに家族として一緒に暮らしなさいと決められてやがる。意味が分からない。だから俺は切ろうとしたんだ。それでも親と子という関係は消えることはない。虚しくないか。絶対に切れない関係を俺は切ろうとしたんだ。おそらく俺の親は家を出たことについて若気の至り、とでも思っているはずだ。俺は切ったと思っている。だが、向こうは切れたと思っていない。それに切るという考えも間違っているものだと気づいた。だって絶対に親子という契りは切れないんだからな。だから少年も父親のことで、悩んでいるなら気楽に考えろ。家族なんてものは自分に一番近い、ただの他人だからな」
そう言い切った俺は息を吐き、手に込められていた力を抜いた。言いたいことは全て言えた。あの少年は何を選ぶだろうか。小説家を目指す同士として、彼の人生が良い方向に向かうことを願う。
親方に見送られながら帰路についた。凄い話を聞けた、と俺は思った。親の許しなく、家を出る。そんなことが頭に浮かんだことはない。親方と旦那、この二人を忘れることはできないだろう。時計を見ると、もう五時になっていた。静かだった住宅街が、音を取り戻している。
ふと顔を上げると、地平線から光が漏れ出していた。光は建物の影を伸ばしながら、俺に近づいてくる。明るく温かい太陽の光。
その光は俺に夜の終わりを静かに告げた。
読みづらい文を読んでいただきありがとうございました