一緒にいても、遠い日々
体の異変を感じ、もしやと思い産科を受診した。
結果はやはりジュリアは妊娠していた。
産科専門の医療魔術師に妊娠を告げられ、ジュリアはしばし呆然となった。
どこか現実味がなく、本当に自分の身に起きた事なのだろうかと俄には信じられない。
いつも避妊はクリスが気を付けてくれていた。
女性側が服用する魔法薬の避妊剤がジュリアの体質に合わず体調を崩してからはクリスの方が魔術にて対処してくれていたのだ。
恋人関係になって一年半。
それがなぜ今になって………。
───疲れが酷くて避妊を忘れていた?
先月、遅くに帰ってきたクリスに酷く求められて体を重ねた。
真夜中でジュリアも驚いたのだが、温かいクリスの手に触れられると幸せが溢れてきてそのまま受け入れたのだ。
その時に出来たとしか考えられない。
どうして先がどうなるかもわからないこんな時に妊娠なんて……
一気に不安が押し寄せ、堪らずぎゅっと目を閉じた。
その時、会計待ちのために産科の受付に座っていたジュリアの耳に赤ん坊が泣く声が届いた。
甘えたような、母を求めて泣く赤ん坊の声にジュリアはハッとさせられ、自身の下腹部に手を置いた。
ここに、いるのだ。
小さな命が。愛する人の子が。
想定外で芽吹いた命だとしても、この子は確かにここにいる。
たとえ誰からも祝福されない子になったとしても、母親である自分だけはこの子の誕生を喜んであげなくてどうする……!
「情けないママでごめんね……あなたのことは、ママが必ず守るからね。ママの元に、来てくれてありがとう……!」
ジュリアはまだとても小さな我が子に、そう話しかけた。
とにかくクリスとちゃんと向き合おう。
怖がっていても何も始まらない。
自分たちの子が生まれる事をきちんと伝えて、これからの事を話し合おう。
ジュリアはそう心に決めた。
が、その日はとうとう、クリスは帰って来なかった。
念書鳩で緊急事態にて帰れないと、簡潔な連絡がクリスからは届いたが……。
だが次の日の朝、省舎の前で次席秘書官の馬車から秘書官とそのご令嬢と一緒に降りてきたクリスの姿を見た。
馬車を降りるご令嬢に手を貸してエスコートしているその姿を見て、ジュリアの中で何かが切れてしまった。
───あぁ……やっぱりもうダメか。
陽の当たる、誰もが羨む道を歩き始めたクリス。
彼の人生にはもう自分は必要ない。
だけど子どもの事はいやだ。
必要ないなんて、出来た事を後悔されるなんて、そんなのは耐えられない。
それなら子どもの存在は知らせずに、クリスの前から消えようとジュリアは決断した。
そこからのジュリアの行動は早かった。
まずは一身上の都合を理由として辞表を提出した。
人事異動のために新しい課長に変わっていたのがラッキーだった。
さして事情を知らない課長は、退省する事を周囲には黙っていて欲しいとジュリアが頼むと簡単に了承してくれた。
引き継ぎもスムーズに済みそうなので、辞表を受理されて一月後には退省できる運びとなった。
その間ジュリアはクリスのアパートにある私物を少しずつ片付けていく。
夜遅くに帰宅し、朝はぼーっとしたまま登省して行くクリスは部屋の変化に気付かない。
───仕事とご令嬢との事で頭がいっぱいで、それどころじゃないんでしょうね。
なんだかもう乾いた笑いしか出てこなかった。
次にジュリアは移り住む街を探した。
王都から離れていて魔法省の地方局もない小さな街が好ましい。
そして安心して子育てが出来る、治安が良くて街か子育て世帯への支援が受けられる所を選んだ。
妊娠中のため疲れやすくはあったが、有り難い事に悪阻がほとんど無いので無理をしない範囲でゆっくりと転居の用意を進めてゆく。
───すでに寮を引き払っていて本当に良かったわ。新しい家さえ決まればすぐに引越し出来るもの。
相変わらずクリスのいない休日に、ジュリアは一人で移り住む予定の街に行きアパートを探した。
その時偶然見かけた小さな空き店舗。
カウンターが七席だけの小さな店だが、ジュリアはそれを見た途端に自分がそのカウンターの向こうに立ち、客にドリアを出している姿が浮かんだ。
どうせ何か新しい職を見つけなくてはならないと思っていたし、貯金ならある。
貸店舗なので保証人が必要だが、それは実の父親に頼めばいいだろう。
それくらいは引き受けてくれるだろう。
そうやって準備を重ねてゆく中、残り少なくなってゆくクリスとの暮らし。
ジュリアは相変わらず疲れきって帰ってくるクリスに背を向けて眠るようになっていた。
お腹の子を守るように身を丸くして、子と共に秘密も宿してジュリアは眠る。
クリスはそんなジュリアを後ろから抱きしめて、自らの懐に抱え込むようにして眠った。
一緒にいるのにどこか遠い。
一緒にいるのにどうしようもなく寂しい。
ジュリアの涙が枕に滲んだ。
そうやって過ごす日々も瞬く間に経ち、ジュリアはとうとう退省する日を迎えた。
課長に言われ、皆に挨拶をする。
そこで初めてジュリアが退省することを知った同僚たちのざわめく声が聞こえたが、ジュリアは心を込めて世話になった事への感謝の言葉を述べた。
二課の皆もきっとクリスとご令嬢の噂が耳に入っているのだろうが、余計な事を言う者は誰もいなかった。
いつもジュリアに食ってかかる一期上の先輩すら、何も言わずに黙りしている姿を見ると、本当に恵まれた職場にいたのだと心の中で小さく笑った。
贈られた花束を持って省舎内を歩いて行く。
正面玄関を出て、ジュリアは振り返って立派な本省の建物を見上げた。
入省してもうすぐ七年。
魔法省での思い出全てがクリスとの思い出でもある。
ジュリアはそれら全てを本省に置いてゆくことに決めたのだ。
省舎の上層階では今もクリスが忙しく仕事をしているのだろう。
もしかしたらあのご令嬢もまた来ているのかもしれない。
ジュリアはただ黙って踵を返し、魔法省を後にした。
そしてそのまま、転移魔法にて王都を去った。