逢魔時の怪異
夏も終わりかけたある日の夕暮れ時、少年は一人で家路を辿っていた。
現在時刻は午後6時ごろ、陽が長い時期ではあるが、そろそろ太陽が沈み始める頃合いである。
現在中学一年生、ついこの間まで小学生だったその少年にとって、この時間帯は少し怖いものがある。
さらに今少年が歩いているのは、薄暗い裏路地だ。
大通りにさえ出れば、街灯の数も多くなるし、人通りも多いので安心なのだが、あいにくと今は、少し入り組んだ道を通らなければ、家に辿り着けない状況にある。
「早く帰らないとな」
少年がそう呟き、早足に裏路地を進んでいくと、不意に耳元で何かの音が鳴った……気がした。
「なんだ……?」
少年は足を止めて耳を澄ます。
すると今度は、さっきよりもはっきりとした音が耳に入った。
――ちりん……りーん……
鈴のような音。
それを認識した瞬間、少年は僅かな目眩を覚えた。
(あれ……?)
くらりと視界が歪み、膝から力が抜ける。
そのまま倒れそうになるが、なんとか壁に手をついて堪えることができた。
(なんだ……貧血か……?)
心の中で呟き、息を整える。すると、すぐに眩暈は治まった。
少年はホッと胸を撫でおろすと、「今日は暑かったら熱中症にでもなってしまったのかもしれない……早く帰らないと」と呟いて、再び帰路についた。
しかし、それから数分後、異変が起こった。
「…………?」
少年は首を傾げながら周囲を見渡す。
「ここ、さっきも通ったような……」
少年の視界に広がっているのは、先ほどと同じ風景だった。
同じような、ではない、まったく同じ光景が広がっているのだ。
「……あ、れ?」
急に背筋が寒くなり、冷や汗が流れる。
「ま、まさかそんなはず……」
自分に言い聞かせるように呟きながら、少年は再び歩き出した。
「おかしい……おかしいよ……」
いくら歩いても同じ景色が続いている。
まるで同じところをぐるぐると回っているようだ。
焦燥感に駆られ、何度も振り返って確認するが、やはり結果は同じだった。
「どうしよう……」
ついに足が止まってしまった。
パニックに陥り、頭が真っ白になる。
その時、ふと声が聞こえた。
『ねぇ、そこの坊や』
それは鈴の音のように澄んだ声だった。
驚いて顔を上げると、目の前に一人の女性が立っていた。
歳は二十代後半くらいだろうか? 妖艶な雰囲気を纏った美しい女性だ。
女性は艶やかな笑みを浮かべ、少年に話しかける。
「あなた、迷子になっちゃったのかしら?」
少年は無意識に一歩後ずさった。
なぜだろう、この人を見ていると不安が込み上げてくる。
この人は危険だ、関わってはいけない、本能がそう訴えかけてくる。
だが、恐怖で身体が動かない。
逃げなければと思う反面、どうしても逃げることができなかった。
そんな少年の様子を見て、女性はクスリと笑みをこぼす。
「あらあら、そんなに怯えないでちょうだいな。私は別に取って食おうってわけじゃないんだから」
そう言って、女性は優しく微笑んだ。
その微笑みを見た瞬間、背中にぞくりとしたものが走り、全身の毛が逆立つような感覚に襲われた。
(嘘だ……。この人は、僕を取って食おうと考えてるに違いない!)
直感的にそう思った。
逃げなくては、そう思うのだが、身体が言うことを聞いてくれない。
女性がゆっくりとこちらに近づいてくる。
そして、目の前まで来ると、そっと手を伸ばしてきた。
その手が頬に触れた瞬間、ビクリと身体を震わせる。
女性の手は冷たかった。いや、冷たいというより、体温を感じないのだ。
まるで氷のような冷たさだった。
そのことに驚いている間に、女性の顔がすぐ近くまで迫ってきた。
「う、う、うわあああああっ!!」
少年は思いっきり両手を突き出すと、勢い余って女性を突き飛ばし駆けだした。
「ふふ、追いかけっこというわけ……? でも、無理よ」
背後から声が聞こえると同時に、何かが追いかけてくる気配がした。
振り返ると、先ほどの女性がものすごい速さで追いかけてきていた。
しかも、走っているわけではなく、宙を浮いているように見える。
(な、なんなんだよあれ!?)
あまりのことに驚き、恐怖心が倍増する。
とにかく必死に走るが、相手は空を飛んでいるためか、徐々に距離が縮まっていく。
このままでは追いつかれると思ったその時、前方に人影が見えた。
(た、助かった……!)
そう思ったのもつかの間、徐々に明らかになっていく前方の人影を見て愕然とした。
(し、死神……!)
その人影は全身黒装束に大鎌を持った男だった。
まさしくイメージ通りの死神の姿である。
少年は慌てて方向転換しようとしたが遅かった。
もう既に目の前まで迫っていた死神は、大鎌を振りかぶっていた。
「あああああああああ!!」
少年は叫びながら咄嗟に腕で頭を庇う。
「ぎゃぶふうっ!」
うめき声と、肉を切り裂く嫌な音が響く。しかし、それは少年の肉体から発せられたものではなかった。
恐る恐る目を開けると、そこには真っ二つに切り裂かれた黒い塊があった。
よく見ると、それは先ほど見たばかりの女性であった。
女性はビクビクと痙攣しながら地面に落下していく。
その光景を見た途端、頭の中で警鐘が鳴った。
(逃げろ!!)
本能的にそう悟った瞬間、少年は踵を返して走り出した。後ろからは、ズルリズルリという不気味な音が聞こえている。
その音を聞きながら一心不乱に走り続けると、やがて見慣れた大通りに出た。
そこでようやく足を止める。
(逃げ切れた……のか?)
後ろを振り返り、何も追ってきていないことを確認して安堵の息を吐く。
それと同時に緊張の糸が切れたのだろう、その場にへたり込んでしまった。
「はぁ~……」
大きく息を吐き出すと同時に、どっと疲れが出てきたような気がする。
いや、実際に疲れているのだろう。変な出来事に巻き込まれてしまったのだから当然だ。
(それにしても、あれは一体なんだったんだ……?)
あの女性と死神の事を思い浮かべる、最初の女性、あれは確かに人に見えたが、今思い返してみるとどこかおかしかった気がする。
それに、あの女性の手に触れた時の感触、とても生きている人間のものとは思えなかった。
まるで死人のような冷たさだった。
(もしも、あの女の捕まっていたら……)
その先を想像してしまい、ゾッとした。
考えるだけでも恐ろしい。あんなものに捕まったら最後、生きて帰ることはできないだろう。
(でも、だとしたら……)
あの女を斬ってくれたあの死神は自分を助けてくれたのだろうか?
少年にはわからなかった、ただ、ほんの少しだけ感謝している自分がいることにも気づいていた。
(ありがとう……)
心の中で小さくお礼を言うと、少年は家に向けて歩き始めたのだった。
「やれやれ、驚かせてしまいましたね。どうも私はヒーローっぽくは振舞えないようです」
死神は小さく呟き苦笑する。
そんな死神の背後で、もぞもぞと蠢くものがあった。
それは先ほど少年を襲った女の死体だ。
女は両断された身体を繋ぎ合わせようと蠢いていた。
「き、さま……。何者だ……?」
息も絶え絶えになりながらも、なんとか声を絞り出す。
そんな女に死神は口元を歪めながら答える。
「私ですか? 私はただの死神ですよ。あなたたちのような存在を消し去るただの死神です……」
死神の赤い瞳が女を睨みつける、その瞳の中には強い意志が宿っていた。その意志を一言で言い表すのならば、相応しい言葉は一つしかないだろう、すなわち、『正義』である。
「や、やめ……!」
女が言い切る前に、死神は大きく鎌を振り上げた……。