異獣とのご近所づきあい
そうして診療所にやってくる患者さんを一人一人さばき、夜になりました。
今日は駆け込む患者さんもいなかったので、時計が八時を示すとそのまま店じまいです。
祖母は私が下ごしらえをした食材で晩ご飯作りをするために一足早くあがり、肉体労働は若い者のお役目となりました。
「小夜ー、今日はこっちでご飯を食べて帰るの?」
洗浄した手術器具をまとめて滅菌用の機械に入れようとしたところ、受付勘定を終わらせた玉兎くんが確認にやってきました。
夜遅くなれば食べて帰るのですが時間通りに終わったので悩みどころです。
「家は忙しいかもしれませんし、今日は帰ってご飯を作ろうと思います」
「オッケー。それなら入院患者の世話はこっちでやっておくから斑と異獣のお世話と灯篭の色変更をよろしくー」
「異獣さんですか。今回は何か食べたいって言っていましたか?」
これはいい日に当たりました。
私は口元をほころばせます。
異獣とは北陸で語り継がれる善良なあやかしです。
旅人が食事を取ろうとしたところ、人間より大きな獣が現れて弁当を食べたそうにしました。
なんとも恐ろしいけれど相手は弁当を欲しがるだけです。
仕方ないので応じたらどうでしょう。
その獣は荷物を運んでお返ししてくれました。
ご飯をあげれば助けてくれるなんて、とてもいじらしい習性ですね。
この子も診療所に寄りつき、ご飯をねだっては雑用を手伝ってくれる子でした。
「それがねえ、ミックスナッツなんだって。酒飲みみたいだよね」
「いえいえ、あれは無性に食べたくなる魔力を秘めていますよ。わかります」
「あはは。小夜もそっち側だなぁ」
玉兎くんはほどほどにねと軽く心配してくれたあと、薬品棚に向かいました。
あちらは夜の投薬とご飯の準備ですね。
それに比べれば実に楽な仕事ですが、これは小さな配慮です。
まほろばの夜道は危険なので、稲原の石碑まで斑さんが送り迎えをしてくれる――そういう時間配分も合わせての分担なのでしょう。
私服に着がえて母屋に出向きます。
祖母は土間にかまどという古風な調理場で揚げ物をしているところでした。
古き良き割烹着の背中に「今日は帰りますね」と軽く挨拶をします。
「気をつけて帰るんだよ」
「もちろんです。……あ。でもですね、送り狼になら出会いたい気もします」
「残念だねえ。この辺りに出るのは本物くらいだよ」
そんな冗談を交わしていたところ、祖母の足元に刑部を見つけました。
ねえ、つまみ食いしたい。
とでも言いたげに祖母の足にタッチしては見上げるという繰り返しで、こちらには目もくれません。
まあ、よしとしましょう。
私にはこれから異獣との触れ合いが待っているのですから。
ふふふと期待に胸を躍らせながら処置室に向かいます。
斑さんは玉兎くんの準備を手伝っていました。
「話は聞いたよ。じゃあ行こうか」
「はい、お願いします。玉兎くん、また明日ですね」
「そだね。また明日! 待ってるよー」
にこやかに返答をくれた玉兎くんと別れて玄関を出ます。
がらりと引き戸を開けると、そこには夜のまほろばならではの風景が広がりました。
「うわぁ、今日は野生の鬼火が多いですね」
「待ちくたびれた異獣の仕業だね。ほら、あそこ」
眩い星空のもと、青白く燃えて漂う鬼火が見える限りで六匹。
これもこれで特大のホタルのような趣があるのですが、斑さんが指を差す方向では違った光が見えました。
サルとクマの中間のような人間大の獣が鬼火を歩いて追い、前脚でちょいちょいとつついて遊んでいます。
そうして接触があるたび、鬼火は赤色の光を放っていました。
土の成分によって色を変える鬼火ですが、ああしてストレスがかかると色を変えて威嚇し、ついには熱まで発する生態なのです。
二重の意味でヒートアップしないうちに、私はミックスナッツが詰まった缶を振り鳴らしました。
「異獣ちゃん、お話にあったナッツですよー」
声をかけると異獣はこちらに顔を向け、大型犬のように走ってきました。
ぺたりとお座りした状態でも私より頭頂部が高いサイズ感です。
グリズリーやホッキョクグマよりも大きいくらいかもしれません。
こんな存在感が溢れる大きさですが、異獣は大人しく手を出してきました。
刑部は滅多にしてくれないおねだりです。
「はい、どうぞ」
器用なもので、ナッツを手に出してあげると爪で摘まみ上げて咀嚼します。
この反応がまたかわいいのです。
異獣はナッツを噛み締めるなり、ぞわぞわと毛を逆立てました。
まるで味覚が痺れるほど美味しく、それが伝染しちゃったとでも言うようです。
まん丸く見開いた目で私を見つめ、また咀嚼してはぞわぞわと毛を震わせて見つめてくるのです。
人のご飯だけでなくペットフードを要求することもありますが、いつもこんなに美味しそうに食べてくれるので見飽きません。
「満足してもらえて何よりです」
くすくすと付き合っていたところ、私の足元から視線を感じました。
見れば、影のなかで獣の双眸が光っています。
動物アレルギーの一歩手前ですね。私は斑さんとナッツ係を交代し、影にいる守護霊のセンリを抱き上げました。
ですが、なんということでしょう。
その長い胴体はいくら引っ張り上げても影から抜けきりません。
イタチ以上の胴長になっています。
この子は本当に気分が姿に表れますね。
仕方ないので持てるだけ持ち、撫で続けていると徐々に縮んできました。
「やっぱり小夜ちゃんにべったりみたいだね」
「はい。これ以上となく守護霊をしてくれています」
ようやく腕で抱え込める状態になるとセンリは喉を鳴らし、前脚はにぎにぎとして甘えてきました。
この子は幽霊や神様に近く、あやかしでも見えないし触れません。
斑さんにも無理なので、ちらと確認のように視線を向けてくるだけでした。
異獣の食事もしばらくかかるので、私たちは階段に移動して座り込みます。
左から順に斑さん、私、異獣という感じですね。
しかし、座る位置を間違えました。
べしべしと上がる音がその理由です。
ナッツを堪能する異獣は犬みたく尻尾を振るのですが、往復する度に人の腕並みに太い尻尾が背に当たるのです。
これは体の芯に響く衝撃ですね。
座り直しましょう。
そんなことを思っていたところ、私の背に斑さんの腕が回ってきて尾を防いでくれました。
抱き寄せそうで、しかしそうはならないこの距離感。
なんとも悩ましいです。
まあ、近くに鬼火が浮き、膝ではセンリがごろごろしていて横ではクマみたいな獣が楽しそうにナッツを食べている状況なのでロマンチックに転がしようもありません。
普通の話題を選ぶとします。
「あのう、斑さん。明日の予定を強引に進めちゃってすみません」
「気にしてないよ。複雑そうな事態だし、どちらにせよ美船先生が付き添わせたと思う。一ヶ月前、小夜ちゃんがここを見つけるまでに比べたらお利口だよ。あの時はキャリーを引いた文学少女が怪奇現象を解決して回るなんて噂が出回ったくらいらしいしね」
「うっ」
それはここに来る前の話です。
祖母は十五年前にまほろばに行ったきり、完全に音信不通でした。
その所在を探す手がかりなんてなかったので私はあやかしを追ってみたのです。
護身グッズで身を固め、祖母が残した書斎の知識を頼りにあやかしを見つけ、鎮める。
時に危ないことになればセンリに助けてもらうといったことを繰り返しながら祖母のことを訪ねてまわり、このまほろばに辿り着いたというわけです。
人間の尺度で言うなら、不良やヤクザを鎮圧して回って闇医者を探り当てたというところでしょうか。
今思うと危ない橋を渡ったなと思います。
感動の再会どころか、正座で半日お説教を食らったのでもうしません。
痛切に感じ入っていたところ、斑さんは苦笑を浮かべました。
そうこうしているうちに異獣はナッツに満足したようで手が止まります。
「ツギ。キナコモチ、タベタイ」
「はい、わかりました。準備しておきますね」
たどたどしいながらも人の言葉で発した後は大きく伸びをして藪に消えました。
私たちは診療所前の階段を下りて火受け皿を交換し、色を変えます。
あとは稲原の石碑から帰るのみですね。
「さて、小夜ちゃん。顔が緩んでいるところ悪いけど、ここは異獣みたいに愉快なあやかしもいれば、映画のホラーや都市伝説みたいなものだっているからね。帰りもそれなりに気を張っていないと駄目だよ?」
「もう、斑さん。確かにクーシーや異獣と触れ合えて充実したなぁとは思うんですけど、私の表情が緩んでいるのはそればかりじゃないんですよ? 頑張って、だからこそ毎日前進している実感もあるからこの表情なんです」
ここで作り笑いというのも妙なので両手の指で口の端を押し上げました。
砂利道を越え、稲原に踏み入りながら傍らを歩く斑さんに問いかけます。
「斑さんから見てどうですか。私はちゃんと前に歩いていますか? 正しい努力ができていますか?」
返答は言葉よりも先に笑みで返されます。
「そうだね。そこのところは美船先生だって認めるくらいだと思う」
この確かな表情が今のところの採点というところでしょうか。
稲原を進み、石碑まで辿り着いた私は上機嫌で振り返ります。
「じゃあ、また明日ですね。この調子で胸を張って頑張らせてもらいます」
「疲れを残さないようにしっかりと休んでおくんだよ」
「はい。斑さんこそ一日中立ち仕事でしたし、しっかり休んでくださいね」
大体いつも通りの別れです。
くるりと踵を返した私は石碑に二礼二拝して帰宅の風に包まれるのでした。