妖精の番犬とダニ予防
祖母たちは診察中だったようです。
問診内容をカルテに記入する祖母の前には、トンボじみた半透明の羽をぱたぱたと動かして飛ぶ妖精の姿がありました。
私もお手伝いをするために診察室に近づきます。
「センセ、お孫さんが来たみたいよ?」
「大学がある日はいつもこんなものだよ。それより、いつもの定期駆虫以外でクーシーに何か気にかかることはないのかい?」
「とっても元気よ。でもダニはね、もう耳に付いてるの。取ったげてよー、センセ」
二人の前には暗緑色の毛に包まれたコリー似の犬――スコットランドにおいて妖精の番犬と言われるクーシーがお座りしています。
これは超大型犬どころか牛と比べるべき特大の化け物犬です。
妖精はクーシーの耳元に飛ぶと、吸血で小指の先ほどになったダニを示しました。
祖母はピンセットを手にそれを確かめます。
同時進行で診療所の従業員の一人、葛飾斑さんはクーシーの体を触診していました。
この診療所において純粋な人間は私と祖母だけ。若白髪が少し見える好青年という風体の彼もあやかし側の関係者です。
「美船先生、ダニ以外は特に異常はないです」
「わかった。ありがとうよ」
斑さんと祖母のやり取りを見守っていたところ、クーシーはこちらに顔を向けました。
人懐こい子なので尻尾をぶんぶんと振り、身を乗り出してきます。
斑さんが抱え込むものの、ずるずると引きずられるばかり。
体重差は伊達ではありませんね。
二足歩行でないあやかしは基本的に動物的な子が多いです。
人型なら喋るのは基本技能ですし、齢十から二十歳にもなるあやかしなら片言の会話くらいはできる子が多いです。
なんというか、私たちにとっての外国語みたいなものでしょうか。
人間社会にまぎれるものほど習得していることが多いです。
逆に、このクーシーは妖精が主人の番犬というルーツのため、性格はほぼ犬。
長生きのおかげで微妙にタヌキっぽくない刑部とは違うところです。
「小夜ちゃん、ダニとフィラリア用の薬を一式取ってきてくれるかい? 体重は二百キロ」
「了解しました。あとこの子はいつも爪切りもしていますよね。そちらもしますか?」
「そーね! お孫さん、えらいわ。私たちじゃ力が足りないもの。やってちょうだい」
妖精はポンと手を叩きました。
私が離れるとクーシーはすぐに落ち着きを取り戻します。
手のひらサイズの妖精が難なく共同生活を送れるくらいに利口なので状況を察してくれるのです。
妖精とクーシーは寄生虫を落とすため、年間を通して定期的に来院します。
普通のペットなら予防シーズンにはまだ早いでしょう。
けれど野山で生活する彼らは越冬するダニに出会う可能性が高いし、主食とする獣から様々な寄生虫をもらうので猟犬同様、通年の予防が必要になるというわけです。
移動した私は薬品棚を前にします。
あやかし用の薬品棚なんて魔女の工房のようにおどろおどろしいかと思いきや、とんでもありません。
ラベリングされた褐色瓶が上から下まで並ぶだけです。
ですが実のところ、ここにもあやかし診療所の特色が隠れています。
「体重は二百キロ。ひえぇ、ラムネの駄菓子くらいの量になっていますね」
基本的に巨大なあやかしの相手をするのですから、市販品を買っていたのでは医療費が高額になりすぎるし、そもそも入荷が間に合いません。
そこで手を貸してくれたのが医薬の神様だそうです。
神様は薬を複製できる使いを派遣してくれました。
それが従業員の四人目であり、薬品棚に市販品の箱ではなく褐色瓶が並ぶ理由です。
診察室に戻ると、祖母は顔を舐めようとするクーシーをあしらいつつ処置をしていました。
「おばあちゃん、新商品も合わせて二種類持ってきました」
「ありがとう。さて、このクーシーは薬を嫌がる子だったね?」
「そーなの。お肉に挟んでも途中で吐いちゃうし、困るのよねー。私たちがムリにあげたら丸飲みにされちゃうわ! センセー、これもやってちょーだいよ」
「このサイズが強制投薬中に噛んできたらこっちだって手首とお別れしなくちゃならないんだよ。チーズみたいな好物で包むのは試したかい?」
「ないない。ないの! ここは日本。チーズ作りをする妖怪なんていないもの」
妖精はまるで演劇家です。
訴えかける身振り手振りを交えて飛んでいます。
さてどうしたものかと祖母が顎を揉む一方、クーシーはそわそわしていました。
妖精に視線で助けを求めています。
これは薬の気配を察していますね。
お座りしながらも前脚が上がろうとしているので、咄嗟に跳び上がるかもしれません。
私の鼻ですら漢方薬じみた匂いを拾えているくらいです。
彼らの鼻ならより鮮明に感じていることでしょう。
「となると新商品の出番ですね。昨年に出た商品で、フレーバーが改善しているから気難しい小型犬も食べてくれるとお兄ちゃんが言っていました」
私はその薬を前に出します。
寄生虫予防薬は大雑把に言えば臭くて不味いけれど安いもの、匂いも味も改善したが高いもの、食べない子のために注射等にしたものと分かれています。
そちらのパックを開封すると、妖精がまじまじと見つめてきました。
「あら? 干し肉みたいにおいしそうな匂い」
妖精のみならず人の鼻からしてもこの商品はジャーキーを思わせます。
それを嗅いだクーシーは同種の薬だなんて思っていないのか、お座りを正しました。
妖精が一つ抱えて飛び上がると、両前脚を合わせて頂戴と主張まで始めます。
これは最早、おやつをあげる光景ですね。
残る爪切りに関してはお手の要領であっという間に終わってしまいました。
祖母はカルテに処置を書き込みながら妖精とクーシーを見送ります。
「また一ヶ月後に来るんだよ」
「はぁーい。ありがとね、センセたち。あとお孫さんも。クーシー、ほら行くわよ」
妖精が背に乗ると、クーシーはノシノシと歩いて診察室を出ていく。
そのファンシーな後ろ姿には見ているだけで癒されます。
それはさておき祖母はカルテを斑さんに任せ、こちらに視線を向けてきました。
「小夜。いつもの用事で、もうすぐつららが来ると思うから案内をしておくれ」
「冷蔵庫のメンテナンス的な仕事でしたね。ではタオルや洗濯物の取り込みでもして待っておきます」
「ああ、頼んだよ」
動物病院では診察台の布巾や入院室の敷物としてタオルを非常によく使うし、手術に用いる掛け布や作業着も毎日のように洗うので病院の裏手にはいつも洗濯物が干されています。
急患がいつ入ってきてもいいよう、これも隙を見て片付けるべき仕事です。
順次取り込み、畳んでいたところ一陣の寒風が吹き込んできました。
これが来客の合図です。