仙狸と雷獣
翌日九時ごろ、私は自室で身支度を整えていました。
とはいえ、別に戦場に出るわけでもなし。私にできる準備といえばあやかし対策の護身具を一応持つことと、夜叉神様にもらった組紐を持っておくことだけです。
「さて、時間ですね」
これから斑さんたちと合流し、病院に向かえばちょうど面会時間という具合を予定しています。
車庫に向かってみると、そこには斑さんと老人がいました。
「岸本さんの旦那さんの姿……化けたんですね?」
自宅に訪問した際に見た写真の姿と同じです。
予想通りその正体はプーカだったらしく、頷きが返ってきました。
「傷は大丈夫なんですか?」
「ある程度は塞がった」
「噂が最盛期のあやかしなだけありますね」
縫合部位にもよりますが、普通は一週間から十日は繋がるのを待つものでしょう。それがたった一晩で治るなんてやはり人よりずっと高い治癒能力です。
同時に、それだけ傷が治っていれば治癒以外に力を回せる証拠でもあります。予想通り、これは期待できるかもしれません。
「小夜ちゃん。もし何か危ないことが起こった時はこれを」
「昨日の夕市に着ていった羽織ですね」
そして同行している斑さんは昨日の面と羽織を手渡してくれました。
街中で着こむと流石に浮いてしまうでしょうが、魔祓い師もあやかしと同じく表舞台に出ないことを好みます。何かあるとすれば格好を気にする必要なんてない状況になっているでしょう。
――それにしても、面と羽織は昨日に比べてずしりと重い気がします。
はて、これはおかしい。そんなことを思っていると、羽織はもぞもぞと動き出しました。面を持ち上げてみると、そこから覗くのはくりくりした瞳の雷獣です。
それを目にした斑さんは頭を押さえました。
「あっ、しまった。姿が見えないと思ったら潜り込まれていたか」
「昨日の私たちの話を聞いて心配してくれたのかもしれないですね」
頭を掻いてあげると、クックックと喉を鳴らしてくすぐったがり、甘噛みをしてきました。
ご飯時など、こちらの生活リズムを把握して待機していることも多い子です。あやかしにとって過ごしにくい娑婆までついてきたということはそれなりの意味があるでしょう。
それに、無理に引っぺがそうとすれば放電する危険性もあるので斑さんもため息一つで許容していました。
「この後の予定だけど、岸本さんが入院する病院の面会時間に合わせて行くんだったね?」
「はい。昨日、斑さんの式神で確認した通り、救急車で搬送された後は集中治療室にいたようですが、治療にはすぐに反応が出るくらい状態がよかったようです」
やはり斑さんの式神に書かれた番号を頼りに電話があったのです。
朝一から通常病棟に移動し、全体的に再検査をして今回倒れた原因の精査。治療方針によっては明日以降に退院という形になると言っていました。
だから申し訳ないけれど、馬の水や餌の用意だけどうにか頼むという内容です。
「つまり、このプーカが今日岸本さんに面会して奇跡でも起こせるなら、再検査ですぐに結果がわかるというわけだね」
「そうなります。ある意味では好都合かもしれません」
噂なんて一過性で、いつピークが来るかもしれないものです。それならば早く結果がわかる方がやり直しも利いて好都合というものでしょう。
「もういいか? 早く出よう」
「そうですね。じゃあ車に乗ってください」
焦れた様子で口にするプーカに促され、私たちは車に乗り込みました。
時間的にはまだ早いくらいですが、どうなることでしょう。
岸本さんが入院する病院に向けて出発し、街の中心部にある通りに差し掛かってきました。すると状況の変化がちらついてきます。
「小夜ちゃん、気付いているかい?」
「はい、多少は。人通りがいつもより少ないですし、白い鳥みたいなのが視界に入ってきますね」
あと五分も走れば病院というところまで来ると、変化も濃厚になってきます。
まず、車通りも人通りも絶えないはずの道が嘘のようにがらんとしてきました。それこそ交差点で信号機待ちしても他に車が見えなくなるほどです。
そして、視界にちらちらと入ってきていたのは式神でしょう。私は運転があるのでさほど目で追えないですが、斑さんやプーカはじっと見つめて警戒していました。
噂が最盛期のあやかし討伐は楽ではないですが、超常の存在に好き勝手させないという規律はやはり守りたいようです。
「これはちょっとまずそうだな。辺りを包囲されそうだ」
「あの飛んでいる式神ですよね。囲まれるとどうなるんですか?」
「人払いが先行して効果を発しているけど、光や音も捻じ曲げられて荒事を始めても周囲にはバレなくなる。つまり、戦うリングを作られているような感じだね。病院まであと少しだけど、そこのパーキングに停めよう。あと、全部の窓を開けてくれるかい?」
「わかりましたっ」
映画のようにいきなり実力行使とはならないでしょうが、もし運転中に巻き込まれでもしたら大事故必死です。
指示通りにパワーウィンドウを開け、前方に見えるコインパーキングを目指しました。
普通にこの速度で入ればタイヤが滑ってパーキング入り口の対向車側まで入ってしまいそうですが、人がいないならば関係ありません。横転しないようにだけ注意してハンドルを捌きます。
それと同時、窓の向こうには獲物を追うオオカミのように獣を模した紙の塊が迫っていたことに気付きました。
斑さんはそれに向かって窓から呪符を投げ、無力化してくれていたようです。
ほぼ真っすぐ突っ込むように車庫入れすると同時、私たちは外へ飛び出ました。
すると、目の前に迫ったのは式神の津波です。
「ひえっ!?」
恐らくは先程の獣を模した式神がばらけ、殺到しただけなのでしょうが圧巻でした。私の身は思わず竦んでしまいます。
けれどもそれが私に触れることはありません。
私に触れる寸前、見えない壁に阻まれるように動きが止まったのです。羽織が淡く光を放っているとおり、これが守ってくれたのでしょう。
「小夜ちゃん、そのまま。プーカは走ってついてきてくれ!」
「わかった」
「ひゃぁっ!?」
雷獣を小脇に抱え、運転席を出た格好で固まっていると、体をすくい上げられました。これはいわゆるお姫様だっこです。
抱えてくれた斑さんの首に腕を回した瞬間、ぐんと慣性の力がのしかかってきました。
斑さんはパーキングから跳躍し、垂直に立つ街路樹の幹を足場に九十度曲がって歩道に出ます。プーカは擬態を解いて牡馬の姿になると、それを追ってきました。
こちらではすぐに体力が尽きる斑さんですが、いざという時はあやかしらしく超常じみた身体能力を見せます。
「はあっはあっ、ダメか。先回りされるね」
けれども少しばかり息を乱れてきた頃、足を止めます。
地面に下ろされた私は前方を見据えました。式神が何枚もより集まって形成しているのは、まるで魔法使い――いえ、陰陽師らしき人型です。
それが五体。前方の道を塞いでいました。
それだけでなく車を包み込もうとしたように、ばらけた式神の群れも頭上に何個か集まろうとしています。
「小夜ちゃん、すまない。相手は随分やり手だ。これだけ操っているのに、居場所が掴めない」
「なるほど……」
普通ならこちらを目視できるところからこれらを操っているはずが、姿も見えません。
こちらの意図を伝えて交渉できたらよかったのに残念です。私が胸に抱く雷獣も、プーカも交戦の気配を感じて殺気立ってきました。
荒事になっては私に出る幕もありません。やけに静まり返った周囲を見回し、思考を巡らせます。
「斑さん。これは強行突破しましょう。私たちは争うのが目的じゃないし、何より人払いはバレないための小技です。ある種の催眠術みたいに道から人を遠ざけられても、みんなの目的地となる要所には使いようがないと聞きます」
あやかしのような超常の存在を認めれば社会が乱れる。
だから行き過ぎたあやかしは魔祓い師が討つし、魔祓い師自体もひっそりと活動をおこなう――そういうものだと聞いてきました。
単なる通り一つくらいなら、縦横無尽に走る別の小道を代用する人が不自然に増えれば無人化もするでしょう。
ですが、病院はそうもいきません。動かしようがない人が多くいる以上、踏み込んでしまえば魔祓い師も下手に動けないはずです。
「プーカさんの目的は岸本さんに会うことです。争って怪我でもしたら、また桶の底が抜けてしまうようなもの。本末転倒になりますよね? 後のことは後で考えましょう」
だってプーカは岸本さんを助けるのが最大の目的なのですから。特に視野が狭くなりかけていた彼も、そう呼びかけると顔つきが変わります。
「おばあちゃんも言っていました。相手を攻撃せず、物を壊さず。盛大に化かしてやりましょう」
ある程度、相手が戦力を集めてくれたのなら一点突破の頃合いです。
私はぞわぞわと動きっぱなしだった自分の影に視線を落としました。途端、影は太陽が落とす普通のものに落ち着きます。
「――センリ。私を助けてください」
口にした直後、前方にいた人型の一体が沼にでも沈むように消えました。
人型を飲み込んだ地面は固いコンクリートであり、痕跡もありません。
その異常事態に、この人型にも人の癖が現れました。ぎょっと驚くように注視して固まり、今度は時が凍り付いたままの二体から首が跳ね飛びます。
見えない何かによってあっという間に食い散らかされるなんてホラー映画の一場面のようです。相手がただの紙で何よりでした。
「ぬえちゃん、ちょっと眩しいのをお願いします」
尻尾まで毛が立って膨らんでいた雷獣に呼びかけると、顔をこちらに向けました。
ずっと待てのような状態だったのもストレスだったのでしょう。毛並みが少しばかり落ち着き、抱いている腕が電気風呂にでも入るようにぴりりと痺れます。
さあ、目と耳を塞ぎましょう。
パチッと空に向かって幾筋かの電気が走ったかと思うと、落雷が起きました。眩い閃光に、轟音です。備えていなければ数秒は怯んでしまったことでしょう。
「斑さん、プーカさん、行きましょう!」
いつかの刑部のように大きくなったセンリがその体を擦りつけてくるので、私はそれに跨ります。
見れば斑さんもプーカの背に飛び乗っていました。
センリは風のように走り出し、プーカは力強く駆け出してそれを追いかけてきます。
……そういえば、まっすぐ突っ切ったプーカは途中、式神を跳ね飛ばしました。
何でもプーカ元来のお話では、彼をないがしろにした人はその背に放り投げられ、じゃらじゃらと巻かれた鎖を手綱代わりに命懸けのロデオがスタートするだとか。
けれど背中は斑さんがもう跨っているだけに、べしゃりと地面に叩きつけられるのみでした。