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おとなりさんの診療所  作者: 蒼空チョコ
第三章 鉄鎖の化け物
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妖怪ばばあの流儀

 副腎というのは腎臓の頭側にくっついている臓器で、人間でも二、三センチしかありません。

 それを切除するだけといえば簡単そうにも思えます。

 ただしこの臓器には動脈がたくさん走っていますし、触れ合うほどの距離には後大静脈や腹大動脈という心臓に直結する巨大な血管もあります。

 副腎を走る動脈一つ一つを糸で結び、電気メスで焼いて血流を止め、切除する準備をしていかなければならないのです。別の線に触れれば即起爆する爆発物の解体処理――そんなイメージでもいいでしょう。

 祖母はその手術を見事にやり遂げました。

 あとは麻酔が覚めるのを待つ状態で、純粋なあやかしとして体力がある玉兎くんが様子を見てくれています。

 私たちは手術室に隣接する処置室に移動し、ひとまず息をついていました。

「皆さん、お疲れ様ですぅ。お祝いの日が凄いことになっちゃいましたねぇ」

「立ちっぱなし、足がパンパンになりそうにゃあ……」

 つららさんとミケさんは用意してくれたご飯を持ってきてくれます。

 パーティ用に摘まみやすい料理だったことが幸いして、エネルギー補給が捗りました。

「二人もごたごたで帰るタイミングを逃しただろう? すまなかったね。また今度、埋め合わせでも用意しよう」

「いえいえー! 小夜ちゃんにも美船先生にも日頃お世話になっていますので!」

「回復食の缶詰で手を打つにゃ」

 つららさんが愛想よく微笑む一方、ミケさんは本気の目を見せて呟きます。

 そんな缶詰の情報をどこから聞いたのでしょう。

 回復食は消化管を縫う手術の後や衰弱した子用の代物で、消化がよく、高栄養の缶詰です。それがまた匂いもよく、重度の腎臓病で何も食べなくなった猫でも口にすることがあるという秘蔵の品でした。

 まあ、注文すれば届く品なので私は祖母の視線に従い、ミケさんに献上します。

 彼女は後光が輝くほどのにんまり顔で受け取ってくれました。

「お。先生、目が覚めてきましたー」

 そうこうしているうちに玉兎くんが声を上げました。

 手術台で寝ていたプーカは身じろぎして顔を起こそうとしています。

 しかし、麻酔覚めやらぬ状況で立ち上がれば転倒しかねません。祖母は歩み寄ると、その体を押さえて寝かせます。

「逸る気持ちはわかるけど、今はまだ縫った傷を癒すのに力が回っているはずだよ。岸本さんの方も今はまだ経過観察で集中治療室から出ないはずだ。せめて明日の朝までは待ちな?」

「……仕方ない」

 よしと頷いた祖母は続いて私に目を向けます。

「となると、小夜。一日や二日で帰れないなら、あんたには岸本さんからこいつの世話を頼む電話がかかってくるかもしれない。不安は心臓にも悪いからね。電話に出られるよう、今日は家に帰りな」

「あ、はい。……でも、岸本さんは携帯電話を持っていませんでした。私の番号、覚えていないかもしれません」

「心配ないよ。斑に仕込ませた式神にはあんたの電話番号が書いてある。困っているようだったら見つけられるように仕向けるよ」

 何の関係もない病室で私の電話番号を見つけたら、岸本さんは奇妙に思うでしょう。けれども、ペットの世話がかかっているともなれば確かに否はなさそうです。

 それにしてもプーカを警戒しての仕込みとはいえ、ここまでとは念には念を入れる私でも舌を巻いてしまいます。

 絶句していると、祖母は余裕の顔を見せつけてくれました。

「これが備えるってことだよ。身に染みただろう?」

「……はい。精進します」

 この道数十年は伊達ではありません。手術の腕前といい、素直に脱帽です。

 祖母は手術室の椅子を手に取ると、プーカと向かい合う位置で座りました。

「プーカ。あんたにも今のうちに備えを言っておこうね。うちの孫があんたを見つけたように、きっと魔祓い師もあんたを見つけているだろう。それでも討たれなかったのは噂が最盛期のあやかし退治が手間ってのもあるし、最後のお目溢しだったんだろうね。でも、痛い目を見たこの次はわからない。あちらさんも堪忍袋の緒が切れて、待ち構えているかもしれない。その時は――」

「迷惑をかけない。約束する」

「何言ってんだい。あんたは無礼な人間には痛い目を見せて、恩義がある人間には幸福を返す生き物だろう? 物を壊したり、人を傷つけたりするのは控えるべきだけど、邪魔をする人間くらいは盛大に化かしておやりよ。そうしてこそ、逸話通りご主人に幸せを届けられる。むしろ狼藉物は上等なくらいじゃないか」

 それはここまで深謀遠慮を聞かせていた祖母からするとありえない言葉でした。

 斑さんと玉兎くんは苦笑気味で、残る私たちといえばハトが豆鉄砲でも食らったような顔になります。

「え。あの、おばあちゃん? その方針は一体……?」

「生き物は生き物らしく。よく言うお話だろう?」

 動物関係者としては確かに耳にする話です。

 けれども、この状況ではとても頷けません。

 だというのにこれほど自信たっぷりに呟かれると、こちらが間違っているような気さえしてきました。

「あやかしはね、日々の教訓や願いが形になったものだよ。善人は報われてほしいという願いから生まれたあやかしが、ずっとよくしてくれた飼い主に報いることができないなんてとんでもない話じゃないか。だからこそ、普段から備えておく必要がある。妖怪ばばあの貫禄なんてものはね、こういう時に我を通そうとした結果でしかないのさ」

 理想は高く、しかして堅実に。

 あやかし診療における祖母の口癖だと、斑さんも言っていました。

 けれども今までの祖母からすると私は疑問を覚えます。

「でも、魔祓い師はこの業界の警察みたいなものですよね? それと事を荒立てるのはダメなんじゃ……」

「小夜、それは誤解だよ。一般社会ではそうだけど、政治もいろいろと裏があるだろう? それと一緒だよ。この業界なんて、診療所とあやかしと魔祓い師で持ちつ持たれつ。規律はあるけれど、案外緩くもある。そうだろう、つらら?」

 唐突に話を振られたつららさんは目に見えるほどにびくりと揺れました。

 彼女は露骨に視線を逸らすと、口の前で指を交差させて×字を作ります。

「そ、それについてはノーコメントですぅ」

 怪しいですね、非常に。彼女は嘘を吐けない人です。

 そういえばつららさんは以前、政府と闇に葬る案件がどうのと口を滑らせていました。

 おまけに、巳之吉さんの再就職について。

 地元の環境保全の仕事に就けたと言っていましたが、そんな即座に滑り込めるほど枠は余っているものなのでしょうか。

 私が訝しんでいると、祖母は「まあいいか」と思考を遮ります。

「小夜。いろいろと妙には思うだろうね。だからこれはおまけの問題にしよう。騙されたと思ってプーカの恩返しを見届けてくるといい。どうして魔祓い師とやりあって大丈夫なのか正解できたら、ここまで頑張った分も合わせてご褒美だ。あんたのお願いを一つ聞いてあげよう」

 これはどうしたことでしょう。

 祖母はいつになく甘々です。こういう時はむしろ、答えられなければ減点一としてきたところが、聖母の顔でした。ここまで頑張ったご褒美というように、私を祝福してくれる計らいなのかもしれません。

 ああ、これはチャンスです。

 頑固な祖母がこんなことを言い出す機会なんて二度はありません。私がこの業界に踏み入ろうとした目的の一つを叶えるいい機会です。

 俄然やる気が出てきました。

「わかりました。おばあちゃん、約束ですよ」

「ああ、いいとも」

「美船先生、ちょっと待ってください。小夜ちゃんをわざわざそんな危ない渦中に放り込まなくてもいいんじゃないですか?」

 私と祖母で話がまとまりそうだったところ、斑さんが口を挟みます。

 彼は同情するような目でプーカを見つめました。

「もしプーカが岸本さんの症状を好転させられなかったら、きっと騒ぎを繰り返す。助けられるか、志半ばで魔祓い師に討たれるかです。それを最後まで見届けるのは並大抵のことじゃないかと」

「おや。あんたがそう言うとは驚きだよ。むしろ、プーカのことは一番信じるかと思っていた」

 と、返された言葉に斑さんは困惑の表情を浮かべました。

 祖母も祖母でしばし逡巡し、言葉を選ぼうとしています。

「プーカ、あんたに聞こう。岸本夫妻とは一体何年の付き合いなんだい?」

「……三十年だ。こんなあやかしの世界を知ったのはずっと後。貧相な馬として売られ、恵たちの手に渡って育てられた」

「……! 三十年、か……」

 祖母が何を言おうとしていたのか、斑さんはプーカの言葉で察したようです。彼は自らを振り返るように言葉を反芻していました。

 なんとなくわかるようで、意味が繋がりません。私が頭を悩ませていると、祖母はプーカの言葉を咀嚼するようになぞります。

「三十年か。長いねえ。妖精は純粋だから、ここまで想うなんてよっぽど大切にされたんだと思ったけど、そこまで長いとはね。プーカの噂の一つも上がらない異国の地で、よっぽど大切にされてきたんだね」

「あっ……」

 そこまで聞いて、私にもようやくわかりました。

 私たちの世界はあやかしにとっては生き辛い娑婆です。そんな世界で生きる馬の妖精なら、相応に虚弱だったでしょう。

 知名度のある現地なら細々と生きられたでしょうが、日本のようにプーカが知られない土地では若くして死んでもおかしくなかったはずです。

 けれども、プーカは愛情を受ければ恩返しをするという逸話を持つあやかしでした。

 岸本さん夫妻に大切にされ、ささやかな恩返しをすれば、それがあやかしとしての力になるのです。虚弱だった馬がこんな立派な体躯で今日まで生きるほど、絶え間なく愛情を注がれていたのでしょう。

 祖母は斑さんに目を向けました。

「すまなかったね。私は次なんて考えてなかったよ。三十年も溜まり続けた想いなら、邪魔さえなければ奇跡の一つくらい起こすだろうと思っていた」

 この呟きで納得できます。

 止血縫合の麻酔から目覚め、傷が裂開するのも構わずに暴れようとしたこと。こうして待つことが身を裂かれるように辛いはずだと祖母が言ったこと。

 プーカは言葉に表さないけれど、大きな想いを胸に抱えているのでしょう。

 私の胸まで痛くなるほどに感じられました。

「斑さん、あの……魔祓い師さんがもし何かしてきても、私たちが助力できることもありますよね?」

「……そうだね。プーカ、すまない。僕の物言いが冷たかった。つまりお前は岸本さんのもとに行って恩を返したい。僕らはそれについていって、もし魔祓い師が邪魔でもするなら力を貸す。そういう運びでいいかい?」

 私がねだるように言わなくとも、斑さんも心を揺らされていたのでしょう。

 彼はプーカに向かって深く頭を下げました。

「構わない。……お前も大事なものがあるから言ったのはわかる。気にするな」

 話はこれでひと通り終わったと見たのでしょう。プーカはそれきり目を閉じ、休息に努めていました。

 椅子を立った祖母が部屋を出るようにと無言でジェスチャーします。

 そしてある程度離れたところで私を見つめてきました。

「小夜。妖怪ばばあの流儀が少しはわかったかい?」

「慎重にあやかしを調べたり、地道に治療したりするのとは大違いですけど……とても大切なことだと思います」

「よろしい。じゃあ今日はもう疲れただろうし、帰ってゆっくり休みな」

「はい」

 確かに午前中からいろいろとあって疲れました。

「ああ、それと明日は例の組紐を忘れないように。ちょうどいい具合な使い道があるかもしれない。どうするかはわかるかい?」

 では、帰り準備でもしようとしたところ、背に声をかけられます。

「はい、大丈夫です」

 私が使えば厄介そうなあの品も、確かに使いようです。

 祖母の問いにはっきりと頷きを返すのでした。


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