馬のあやかし
その後はお茶を一杯、二杯と頂きながら岸本さんの思い出話に付き合いました。
けれども嫌々というわけではありません。
動物好きとしてはやはり馬術は憧れであり、軍服にも似た馬術着はドレスと同じく一度は袖を通してみたいものでしょう。
それにどっぷりと浸かってきた岸本さんの経験談は実に興味深いものです。
「――楽しくお話をできたはいいけれど、小夜ちゃんの時間は大丈夫かい?」
「えっと……。あ、そろそろいい頃合いですね。ごめんなさい。すっかり忘れてお話に没頭していました!」
「いいんだよ。こんなおばあちゃん子、本当に孫ができたようでとても嬉しかったよ。ありがとうねえ」
「こちらこそ。また時間が合った時には話の続きを教えてください」
「ああ、もちろんだよ。またいらっしゃい」
偶然の出会いにしがみついてしまった格好にはなりましたが、話すことで随分と打ち解けることができました。『富士の不死』の調査という名目にも感謝です。
あとは罪滅ぼしにでも、何回か送迎をしてあげたいところですね。
そんなことを思って立ち上がった時、ぞくりと背筋に悪寒が走りました。
一体なんだろうと周囲を見回してみると、驚いたことにベランダのガラス戸越しに厩舎の馬と目が合います。
利口な生き物とは言いますが、睨むように見据えられるとは驚きを隠せません。
「どうしたんだい?」
「すみません。馬がこっちをじっと見ていたことに驚いただけです」
「ああ、あの子はとても利口だけど人が来なくなってから人見知りになったんだよ。初めて見る人が家にまで入ったから気になっているんだろうね」
「そ、そうでしたか。おっと、こうしていると本当に遅れちゃいそうなので失礼します」
どうやらこんな前例もいくらかある様子です。
そして私は岸本さんに見送られるがままに玄関へ向かいました。
「岸本さん、もうここまでで大丈夫ですよ。酸素吸入器のコードも届かないですし、リビングでゆっくりなさってください」
「そうかい? 今日はありがとうね。気をつけて帰りなさい」
「はい。ありがとうございます」
自宅用の酸素濃縮器は言うなれば空気清浄機並みの大きさです。重い上にコードの長さにも限りがあるので家中好きに歩けるものではありません。
廊下の半分くらいまで来てくれた岸本さんに頭を下げ、私は一人で家を出ました。
その顔に一陣の風が吹きつけてきたことで、私はある事実に気付きます。
そう、小さい頃から私を悩ませるあれがないのです。
「……うん? そういえばこの家はやたらと馬術具がありましたし、馬も近くにいます。なのにどうしてアレルギーが出ないんでしょうか?」
牛用の発酵飼料の匂いが乗った風の方が鼻にむずむずと来るくらいです。
それなのにこの家では何故これほどまで影響が少ないのでしょうか。
(これはまるで……)
あやかし診療所と似た感覚にも思えます。
いや、そんな要素はどこにもないのにこれはおかしいなどと考えあぐねて歩いていたところ、足元にセンリが現れました。
センリはまた厩舎に向かって睨みを利かせます。
こうして警戒する姿はイエティを保護しに行った時と重なります。
この子がこれだけ警戒を示す相手がいるとすれば、それは――?
「……なるほど。センリ、もしかしてあの馬はあやかしなの?」
少しばかり珍しくはありますが、ありえないことではないでしょう。
長く生きた飼い猫が猫又になったり、海外品種が実はケットシーだったり。そういう例は現代でもひっそりとあるものです。
それを思えば、長く愛された馬があやかしであることも不思議はありません。
「ふむ。馬が亡くなった旦那さんを連れてきた……。思いつくものがないですね」
霊魂を運ぶ動物、死体を運び去る妖怪猫の火車、人に死を告げるデュラハンと愛馬くらいは思い浮かぶものの、馬と黄泉返りがセットで語られるあやかしは思いつきません。
まあ、正体はひとまず置いておいてもいいでしょう。
この馬は岸本さんを愛し、愛されていました。それがあやかしだったとして、悪いものであるはずがありません。
この子はきっと私にとってのセンリみたいなものなのでしょう。
私は馬の視線を浴びながら厩舎の前まで近づきます。
「君はお喋りができる子ですか? それだったら楽なんですけど……」
警戒をしているセンリを抱き上げ、穏やかに問いかけます。
返ってくるのは変わらない視線だけで、声はありません。
「私は悪いことをしに来たわけじゃありません。世間で噂になっている『富士の不死』を調べさせてもらった代わりに、岸本さんには病院の送り迎えとか、できることをさせてもらおうと思っています。またいずれ、お邪魔しますね」
言葉が通じるならせめてこの警戒くらいは解きたいものです。
私は伝えるべきことだけ伝えると車に戻るのでした。