ゆきの物語
あれから二週間ほど経過しました。
イエティは母子共々つららさんが保護し、仕事回りでどうしても世話できない時は診療所に預けるということで平穏無事な時が戻っています。
私からすると、雷獣とイエティの両方と戯れる機会が増えたので役得です。
嫉妬したセンリによって生傷は増えていますが、まだまだ許容範囲内。
普通の動物を相手にする兄の手の方が傷だらけです。
気がかりといえば、例の風穴近くに残された『鉄鎖の化け物』の痕跡でしょうか。
あちらは結局、巳之吉さんの研究資料紛失騒ぎが鎮火してそのまま姿を消してしまいました。
私が診療所で働くため、芋づる式に解決してしまえたらよかったのに残念です。
――まあ、それも本日は忘れましょう。
今日は何と言っても、他人がご飯を振る舞ってくれる日です。
「はぁい、皆さん。お待たせしましたぁ」
あやかし診療所の業務が終わったこの時間、休憩室に料理が運ばれてきます。
料理人はこの甘い声の通り、つららさんです。
患者の快復を機に菓子折りやお裾分けという程度は割とあるのですが、それよりもう一歩踏み込んだお礼がしたいと言われ、こんなお返しを頼んでしまいました。
並ぶ料理は焼き魚や芋の煮物など、素朴な郷土料理を思わせるラインナップです。
「うふふふ。やっぱり誰かが作ってくれる料理はいいですね」
こういう料理にはやはりビールよりも日本酒がよく合います。
じんわりと体が温まり、いい気分になってついつい笑みがこぼれてしまいました。
そーれ、飲み干したのでお猪口におかわりを注ぎます。
すると隣に座っていた斑さんがさりげなく徳利に手を伸ばし、私から遠ざけました。
先日もたしなめられましたが、まほろばでのお酒は控えめにという警告です。
「小夜ちゃんはこういうこと、本当に好きだよね」
呆れたように口にする斑さんに私は人差し指を立てて主張します。
「はい。だって料理は疲れますし、味見で微妙に空腹感も紛れてしまいます。作る立場になれば良さがわかるというものですよ」
まあ、祖母が傍にいる手前、口にしない本音もありました。
小さい頃から家で一人ということが多かったものですから、こうして誰かが自分のために何かをしてくれることそのものが特別なのです。
それを眺めていられるというだけで妙に楽しい気分になります。
斑さんに祖母、玉兎くんがいて、テーブルの近くにはイエティと刑部が寝転がっていて。
何とも穏やかな団らんではないですか。
欲しかったけれどもこれまで手に入ることがなかった姿です。
そんなことに満足して日本酒をちびちび飲んでいると、料理を終えたつららさんが席に着きました。
「つららさん、豪勢なお食事ありがとうございます。そちらもようやく生活が落ち着いてきた頃合いだったりしたんですか?」
彼女はまほろばの冷蔵庫管理で歩く際、イエティを伴って歩いています。
それ故の苦労などがあり、ようやく腰を落ち着けられる状況になってきたのかもしれません。
「えっ!? ああ、そのぉ。実はとてもいいことがありまして」
「そんな風にはにかんでいる辺り、よっぽどいいことだったんですね?」
「はい。巳之吉さんは地元の環境保全の仕事が決まりまして、ご両親の介護も無理なくできるようになったんです。それにぃ……」
と、指を組んだつららさんは何やら熱っぽい様子でもじもじとしています。
これは何とも甘酸っぱい反応ですね。
何があったのかはうっすらと想像できます。
巳之吉さんが数十年とつららさんを意識して民俗学を研究していたのなら、それをこっそりと手助けしたつららさんも同じだけ相手を気にしてきたことになります。
そんな二人に向き合う機会ができ、環境が変われば距離感も変わるでしょう。
そこから恋愛に行きついたなら流石は恋多きあやかしというほかありません。
「まあ、いろいろとありましてー。あと、この子の名前も決まったんですぅ!」
「いつまでもイエティちゃんじゃ呼びにくいですもんね。子供もいますし」
「そうなんです。だからお母さんの方は吹雪、子供の方は男の子なので諭吉ちゃんということになりましたぁ」
「ほほう。そんなお名前を?」
名前とは特別なものです。
動物病院業界だとそれがさらに拍車がかかり、多種多様な名前と出会う機会があります。
響きや字面で選ぶほか、身体的特徴をノワールなどと外国語にしていたり、神話にちなんだものをつけたりという具合です。
その経験からすると吹雪という名前は実に率直ですが、諭吉は突拍子もありません。
はてさて、一体何が由来でしょうか。
イエティ。雪男。雪女。
小泉八雲に、その物語に出てくる茂作と巳之吉。
あのご家庭自体、雪女にちなんだ名前で縁があります。
これも一種の謎解きですね。
(あ、なるほど。もしや『ゆき』と『みのきち』の音を繋いで……?)
実にそれらしい答えに行きついた私はつららさんに視線を戻します。
もしかすると単なる関係修復どころか、もっと深い縁になっているのかもしれないのでした。