イエティの真実
あれから数日、二つのことが起こりました。
一つは巳之吉さんです。
研究資料の発見を大学に報告したそうですが、責を取るという形で早期退職を申し出たニュースが流れていました。
けれどもその表情に後悔は見えません。はっきりと割り切っていることが映像越しでも伝わってきます。
二つ目は、イエティの快復です。
このまほろばでは娑婆と違ってあやかしの体力が削れることはありません。
母子共に食欲があり、入院用のケージが狭いと大きな鉤爪で引っ掻いて主張するほどになりました。
なので斑さんの監視の下、日に数度は庭でストレス発散をしてもらっています。
「イエティちゃん。患者さんも途切れましたし、お外に出ましょうか」
入院室に入ってみると、母獣は目を大きく開いてこちらを見つめてきます。
温帯の動物とは違って明らかに太く毛並み豊かなその尻尾を口に咥え、じぃーっと睨んでくるのです。
不安、警戒の表情とはわかっているのですが、私としては愛くるしすぎて胸が苦しくなります。
大丈夫、私は怖くありませんよ。
それをわかってくれるのでしょうか。
子供の方は尻尾を咥えるのをすぐにやめ、にゃあにゃあと鳴きながら格子扉に張り付きます。
「小夜ちゃん。正面にいると対応ができないから、ちょっと避けてくれるかい?」
「ごめんなさい。でも、もうちょっとだけ……痛っ」
涎を垂らしかけて見つめていたところ、指に引っかき傷ができました。
そろそろ我慢ならないというセンリの主張です。
このところ、私の生傷はかなり増えてしまいました。
あまりに堪えがないと斑さんからもドクターストップがかかるので控えておきます。
イエティはあやかしなだけあって動物以上に利口です。
この数日でもうこれはお散歩と理解してくれているので、警戒をしながらもついてきてくれました。
庭に出ると、いくらかのあやかしが見えます。
まずは化け狸の刑部。
この診療所に居つき、病院犬じみた存在になっているこの子は縁側で寝ていました。
次に先日保護した雷獣です。
この子もここのところ居ついており、イエティの子供の遊び相手になってくれています。
四六時中、子供の相手があるイエティの母獣はここでようやく世話から解放されるので地面に横たわってくつろぎました。
私と斑さんは縁側に座って彼らを眺めます。
普段は何気ない談笑をしたり、診療所のことを聞いたりするのですが、直近で重要なのは先日の祖母の言葉です。
私はそれを議題に上げます。
「斑さん。あのイエティが偶然の存在かって話、考えましたか?」
「もちろん。まずつららさんが手を回したとかで海外から研究資料を拝借できて、それをDNA解析したらユキヒョウと判明した。そのニュースが一か月前に流れて、先日、研究資料の紛失騒ぎになって、イエティが生まれて『開かずの風穴』騒ぎになった。そして、それを見つけたつららさんにはやけに懐いている。偶然の連続で生まれたにしては、つららさんとの関係が深すぎるな」
「そうですよね。そこは明らかです」
ではそれ以外に何に気付けばいいのでしょう?
そんなところで煮詰まっているわけです。
日々の忙しさにかまけて先送りにしていると、祖母に失望されかねません。
つららさんを助ける意味も含め、これは重要です。
頭を悩ませていたところ、イエティの子供が寄ってきました。
どうやら雷獣とのじゃれ合いに飽きたようですね。
つまりこれは合法的にもふもふできるチャンス到来。
思考を中断し、私は腕を広げて待ち構えました。
「はぁーい、私の胸においでー」
「シャァッ!!」
その時、威嚇の声が真横から飛んできました。
見れば母獣が歯を剥いています。
地面に横たわったままなので激怒というほどもないですが、この叱責は場の雰囲気を払拭するには十分すぎました。
子供はしゅんとして引き下がり、私もそれにつられて縁側に戻ります。
このように、私は子供に触ることすら許してもらえません。
イエティはやっぱりつららさんだけ特別扱いです。
「この子、どうしてつららさんにだけ態度が違うんでしょうか?」
「同じ雪山のあやかしで、同族っぽさがあるとも思えるね。それ以上の理由となると、どうだろう。ちょっと思いつかないな」
「そうですね。それこそ憶測だらけになってしまいそうです」
例えば美人好き。雰囲気が柔らかい人が好み。
そんなところもあるかもしれませんが、確証はありません。
「おばあちゃんのあの口調です。確定事項ではないにしろ、もっとこう、それらしく説明できるものがありそうですよね」
何か閃きに繋がらないかと口にしてみますが、進展はありません。
時刻は十六時。
そろそろ休憩時間も終わって診療所の夕方の部が始まります。
「駄目だね。どうにも煮詰まってしまうし、ここまでにしよう。診療所が終わってからまた話そうか」
「それなら場所は斑さんのお部屋ですね。ミケさんから山鳥を頂いたんです。それをおつまみに、日本酒を交えてお話しましょう!」
「小夜ちゃん。発想の転換が必要と言っても、もう少し節度は考えないと駄目だよ。まほろばの夜は特に危ない。飲酒をさせて帰すなんて不安だ」
「それじゃあ、お泊りをするしか――」
斑さんはあれこれと世話を焼いてくれますし、ついつい甘えたくなってしまいます。
そんな気持ちで呟いていた時のこと。
私はハッと口を押さえました。
「そう、ですね。誰かの匂いがする場所に上がり込むのは抵抗があるものですよね」
「いや、清潔にはしているつもりだよ。ただし、小夜ちゃんを預かっている身の上としてはまだ……ん、どうかしたのかい?」
先程までの歓談から一転。
真剣に考えている様に気付いたようです。
私はたった今気づいた疑問を口にします。
「ならば何故、イエティは巳之吉さんの家の風穴に潜り込んだのでしょうか? 富士山周辺は風穴が無数にあります。鳴沢氷穴のようにもっと涼しい場所も、人が来ない場所もあります。あやかし同士は気配を感じられるのに、つららさんが氷精を残した風穴なんてわざわざ選ぶでしょうか?」
「なるほど。子供を衰弱させないために手近なところへ転がり込んだなら、つららさんに出会った時もひと悶着あってもよさそうなものだしね」
「それですよ。つららさんは私に依頼してきた時、『人懐こい子ではあったんですけど、体調が悪そうだし、保護するにしても一人では手に余る』と言っていました。子連れや手負いの獣は過敏なはずなのにです」
あやかしを産む噂は一過性のものが多いです。
状況的には、RPGを始めたら最初から毒でHPが削れていくような状態で生を受けます。
知性を持っているなら動揺と焦燥を味わいながらも助けを求めるし、動物的なら手負いの獣じみてきます。
噂になるあやかしといえばやんちゃな存在か、こういうタイプになるので接触には用心が必要――だからこそ、祖母の行方を探るためにあやかしの噂を追った行為はこっぴどく怒られたものでした。
私たちはこの子たちのことをユキヒョウのようなイエティとだけ思ってきました。
けれども、考えが足りてなかったかもしれません。
祖母はこの件を引き受ける時、忠告してくれました。
あやかしは『一部の人間が強く信じれば予想外の要素や能力が混じることがある』と。
では、誰のどんな気持ちが混じれば、つららさんだけが特別扱いになるのでしょう?
「この子は遭遇時からつららさんを特別扱いしています。これはひょっとして……」
その答えを口にしようとした時、てくてくと刑部が歩いてきました。
彼は私の膝の上にちょこんとお座りします。
「あらら? どうしたんですか、刑部ちゃん。もしかして抱っこしてほし――ぐえっ」
抱き上げて頬擦りしようとしたところ、刑部は不愛想にも手をつっかえ棒にして拒否してきました。
相変わらずですね。
私の膝から逃れた刑部はそれっきり、診療所に逃げていきました。
ユキヒョウに負けないくらいふわふわで豊かな毛並みの尾を振って歩くその姿はとても愛らしいです。
「……中断されたけど、それらしい答えは見つかったね」
「そうですね。いろいろと残念ですけど、閃きました」
刑部の毛皮も楽しめなかったし、斑さんの部屋に転がり込む口実も失いました。
けれどもそちらについてはまた機会があるでしょう。
今はこの話をどうまとめるかの方が大切です。
そんなことを考えていると刑部を抱きかかえた祖母が歩いてきました。
「答えは出たようだね」
もしかすると、刑部は祖母の言いつけで私たちの観察でもしていたのでしょうか。
歴戦の演出家はそう言って静かに微笑むのでした。