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後編

□◆□◆

2



 日が暮れ、夜空に月が出た。

 下弦の月の明かりは道を照らすには心許なく、電柱に備え付けられた灯りの方が頼りになる。

 仕事を終えた弘樹は一人暮らしをしているアパートへの帰路を歩いていた。

 静かな住宅地を抜けると広い公園があり、弘樹はなかにある池を半周まわって公園を出た。自宅までの近道なのだ。

 こちら側はまだ開発が進んでおらず、畑を挟んで家が散らばっている。

 街灯も少なく足元はさらに悪くなったが、弘樹は通いなれた道をトボトボと進んでいった。

 空き地と畑の間にある二階建てのアパートが見えた時、弘樹は突然振り返った。

 誰かの視線を感じたのだ。

 だがそこには誰もいない。

 夜道で暗いとはいえ、百メートルほど向うには通ってきた公園も見える。そこからの一本道。誰かがいればわかりそうなものだが、人影は見受けられなかった。


「……気のせいか」


 ポツリとつぶやき、弘樹は再び前を向いた。

 そして右足を一歩踏み出した時――



 カツン



 石が転がる音に弘樹は慌てて振り返る。

 そして、今度は人影が視界に入ってきた。

 百メートルほど離れた公園の木々。その間からジッとこちらを見ている人影。

 チカチカトと点滅する電灯の下に女が立っている。

 白いワンピースを着た髪の長い女。

 顔はわからないが、弘樹はその容貌に見覚えがあった。

 石は彼女が投げたわけではないだろう。あそこからでは遠すぎる。


 ならば誰が――?


 そんな疑問も一瞬のこと。


「なんで……なんでいるんだよ……」


 ゾッと背筋が凍る。

 その女は自分が轢いてしまった獄谷加代子にそっくりなのだ。

 彼女は動かず、ジッと弘樹を見据えて立っている。ただただ静かに、弘樹を見つめているのだ。


「あ……あ……ああぁぁぁっ!」


 恐怖に駆られた弘樹はアパートに向かって走り出した。

 まだ背中に視線を感じる。

 振り返りたかったがそれも怖ろしい。振り返ればあの女がすぐ後ろにいるかもしれないのだ。

 もつれる足を踏ん張り、息がつまり声にならない叫び声を上げ、弘樹は懸命に走った。


 アパートの敷地に入り、弘樹は一番奥の部屋の前で止まる。

 このアパートは八部屋ある。一階に四部屋、二階に四部屋。

 弘樹は一階の104号室に住んでいるのだ。

 急いでズボンのポケットから部屋の鍵を取り出す。そして震える手で鍵穴に入れようとするが狙いが定まらない。

 カタカタと鍵と鍵穴が反発し合っている。


「はやく、はやくしてくれよっ!」


 弘樹は自分に言い聞かせるが、震える手は止まらない。それどころか、鍵と鍵穴のこすれる音が自分を嘲笑っているかのように聞こえてくる。


「なんなんだよッ! くそッ、くそッ!」


 弘樹は敷地の外を見た。

 あの女はいない。

 だが、これからゆっくりと姿を現してくる――。そんな幻想が目に浮かんでしまった。


 ガリ……


 鈍い音に弘樹は手もとを見た。

 鍵が鍵穴に入っている。


「よしッ、よしッ!」


 嬉しさが込み上がり、弘樹は鍵を回した。

 カチという音に心地良さと安堵感を覚えたのは初めてだった。

 急いで鍵を抜き、ドアノブに手をかける。そして――弘樹の動きが止まった。


 弘樹の右側。そのすぐ後ろに誰かが立っている。

 木目調のドア。そのドアの表面は汚れた鏡のように反射し、弘樹の後ろに人影を映し出していた。

 白い服の女ではないが、そのシルエットは女性だ。


 恐る恐る振り向く弘樹。

 そしてその女性を見た弘樹は短い悲鳴を上げ、背中をドアに張り付けた。


「加代子は今もお前を愛しているんだってさ……。お前はどうなんだ? 加代子を愛しているのか?」


 そう問うてきたのは、獄谷加代子の母親だというあの夫人だった。

 警察に連行されて行った時に抵抗して乱れた髪。そのボサボサの髪のままに、あの時と同じ鬼の目を弘樹に向けている。


 弘樹はカタカタと歯を鳴らし、問いに答えることができない。いや、正確には答えられない。

 そもそも獄谷加代子という女性を知らない。そんな人を愛しているのかと訊かれても答えは否だ。

 しかしそう答えて夫人を刺激してしまうのは恐ろしい。だが、この場を取り繕うために愛していると嘘を吐けばこの夫人に付きまとわれてしまうかもしれない。そればかりか、愛していたのになぜ加代子を傷つけたと理不尽な責めを負うかもしれない。

 弘樹には答えようがなかった。


 そんな弘樹に、夫人はギリッと奥歯を鳴らす。

 そして鬼の顔で弘樹に掴みかかってきた。


「どうしたッ、なぜ答えないッ!」


 夫人は激しく弘樹を揺さぶる。

 それで我に返った弘樹は強引に夫人を引き離し、突き飛ばしていた。

 声も上げないまま地面に倒れた夫人は顔を上げて弘樹を睨みつける。

 だが弘樹も夫人を睨み返した。


「お、俺はあんたの娘さんなんて知らないし、関係もないんだッ! もう帰ってくれッ!」


 そう叫ぶと、弘樹は素早くドアを開けて室内に逃げ込む。

 夫人は起き上がって追ってきたが、弘樹がドアを閉める方が早かった。

 そして弘樹はドアにチェーンをかける。


「開けろッ! このドアを開けろ卑怯者ッ!」


 夫人が激しくドアを叩きだす。

 その鬼気迫る声に弘樹は尻餅をついた。そして震える手で警察に通報する。


「通報したぞ! 警察に通報したからなッ!」


 弘樹は叫ぶが、激しいノックはおさまらない。

 だが警察車両のサイレンが聞こえてきた時、急にドアを叩く音が止んだ。

 夫人が逃げ出したのかと思いドアに近づく弘樹。けれども夫人は逃げ出したわけではないようだ。

 なにやらブツブツと言っている。


「加代子はどうしてほしい? ――うん、そうだね。忘れてほしくはないよね」


 ドアの覗き穴からは夫人しか見えないが、まるで娘と会話をしているかのように見える。

 しかしそれはありえない。

 獄谷加代子はすでに死んでいるからだ。


「狂ってる……。この人はもう、気が狂ってる……」


 弘樹は驚愕の表情でつぶやいた。

 娘を亡くした悲しみは夫人の心を壊し、その結果夫人はいるはずのない娘の幻影と会話までしている。

 弘樹にはそうとしか思えない。


 不意に夫人が視界から消える。

 今度こそ逃げ出したのかもしれないと弘樹は思った。サイレンを鳴らしていた警察車両がアパートの前で止まった音がしたからだ。

 覗き穴から夫人の姿は見えない。

 弘樹は恐る恐るドアノブをまわす。そっと、そっとドアを動かし、僅かな隙間を開けた。

 夫人の姿は見えない。

 安堵した弘樹がホッと息をついた時、突然ドアが開かれた。

 ガチャっと勢いよくチェーンが張られる。

 そしてドアノブを握る弘樹の手を誰かが掴んだ。


「やっと開けたね。答える気になったのかい?」


 ドアの隙間から顔を出したのは夫人だった。

 叫び声を上げた弘樹は部屋の中へ逃げ込もうとしたが、夫人の手は弘樹を離してくれない。

 とても女性とは思えない力で弘樹の腕に爪を喰いこませてきた。

 夫人は部屋のなかへ入ってこようとするが、ドアにかかったチェーンが侵入を阻んでくれる。

 ガチャガチャと鳴り響く音。夫人は苛立たしげに何度もドアをこじ開けようとした。

 しかしそれは叶わず、夫人は二名の警察官によって取り押さえられた。

 やっと夫人の手から弘樹が解放される。だがその腕には夫人が引っ掻いた長い傷に血が滲んでいる。

 痛くないと言えばうそになる。しかし弘樹は助かっという嬉しさから痛みも忘れて涙を流していた。


 警察官に事情を説明した弘樹。

 警察車両に乗せられた夫人はその間、口もとをニヤつかせ、見開いた目で弘樹を見据えていた。

 だから弘樹は去っていく警察車両を見送ることはしなかった。

 おそらくまだこちらを見ている夫人と目が合っているかもしれない。そう思うだけで鳥肌が立ってしまうのだから――。





 翌日、弘樹は仕事を休んで引っ越しをした。

 間取りが狭くなり、通勤するにも遠くなってしまったが、即日入居できる物件ならばどこでもよかった。

 急な出費も財布に痛い。けれどもあの夫人が知らない所まで逃げたかったのだ。

 当然警察に被害届も出した。だが大事にしてしまえば夫人と関わる期間が長くなってしまう。そこで弘樹は弁護士を通じて夫人にもう自分には近づかないという誓約書にサインさせて事を収めた。

 そしてそれから、夫人は反省したのか、弘樹の前に姿を現す事は無かった。

 こうして、弘樹はやっと一息つくことができたのである。



 それから数か月後――。


 弘樹は運転手に復帰した。

 担当する路線は今までとは違う。風景から嫌な記憶を呼び起こさないための会社の配慮だ。

 それでも弘樹はかまわない。また大好きな電車を運転する事が出来るのだから。


 以前とは違う風景が流れる窓が新鮮に感じる。弘樹は少しだけ電車のスピードを上げた。

 慣れない路線だけに慎重さが増し、時間に遅れが出ているのだ。


 次の駅が見えてくる。

 各駅で止まるこの電車は次の駅で停車する。だが次の駅はホームが長い。なので弘樹はゆっくりと電車のスピードを落とす。

 そして弘樹は二度と会いたくない人物を目にしてしまった。


「なんだよ……なんでいるんだよッ!」


 運転席で弘樹が叫ぶ。

 次の駅、そのホームの後方の端に女性が立っていた。

 遠目でもわかる。二度と関わりたくないあの夫人だ。

 嫌がらせのつもりなのか、夫人は娘だった加代子と同じ白いワンピースを着て弘樹の方をじっと見据えている。

 弘樹は夫人と目が合わないように帽子を目深にかぶりなおした。

 そして電車がホームに入ったその時――


「あぁぁぁッ!」


 弘樹は悲鳴を上げた。

 夫人が電車に向かって飛び込んできたのだ。

 弘樹は急ブレーキをかけるが間に合うはずもない。

 夫人は鈍く大きな音と共に運転席の窓に張り付いた。

 あの時と同じ――。

 窓一面に飛び散る血飛沫。

 重力に逆らえず落ちていく身体、そしてゴリゴリという思い出したくもない音と振動。

 一つ違うことがあるとすれば、落ちていく前に夫人の声を聞いたことであろう。


「加代子を忘れるんじゃないよ」


 ガラス越しに、弘樹は確かにその声を聞いた。


 急ブレーキの甲高い音が止む。

 電車は停止したが、弘樹は脂汗を流しながら頭を抱えていた。


「なんでだよ。何でこんなことを……」


 弘樹は悔しかった。今度は恐ろしさより怒りが先に立つ。

 なぜ自分がこんな目に遭わなければならないのか。

 あの母娘のせいで人生は滅茶苦茶だ。会社も二度と運転席には座らせてくれないだろう。

 二度目の人身事故。それは弘樹にとって夢の終わりを意味していた。


 嗚咽を漏らす弘樹。流れる涙は止まらない。

 その涙を拭った時、不意に弘樹は自分の足元で目が留まった。

 そこには弘樹の足首を掴む青白い手がある。


 ――ありえない


 ぞくっと背筋に冷たいものが走り、弘樹は目を見張った。

 電車の運転席は狭い。足元に人が入れるはずなどないのだ。

 しかしそこには間違いなく人の手があり、弘樹の足首を掴んでいる。

 普段ならば驚きで退くところだが、今の弘樹は金縛りにあっているかのように身動きが出来ない。


 そして青白い手が動く。

 ズズズと肘を曲げると、運転席の下からうつぶせになっている女の頭が現れた。

 長い髪が赤黒く濡れている。まるで血のシャワーを浴びたかのように。

 のそり……のそりと這い出てくる女。

 着ている白いワンピースも血に染まっている。


 弘樹はソレから目が離せない。

 目を逸らしたいのに、この場から逃げ出したいのに――そう思うのだが体が動かないのだ。


 女は弘樹の足首からふくらはぎに手を移し、もう片方の手で膝を掴む。

 弘樹にもたれるように密着しながら起き上がり、女はうつむきながら弘樹の肩に手をかけた。

 その血生臭さに弘樹は顔をしかめるが、やはり体は動かず、目も逸らせない。出て来るのは悲鳴にならない擦れた息のみである。

 女は弘樹の両肩を掴むと一瞬動きを止める。

 そしてゆっくり、ゆっくりとその顔を上げた。


「ご、獄谷……加代子……」


 弘樹は震える息で女の名を出す。

 

 青白い肌、頬はこけ、細い目のまわりにはクマが出来ている女。

 女は弘樹が忘れたいと願う獄谷加代子だ。


 加代子は愛おしそうな目で弘樹の目を見据え、その凍るような冷たい手で弘樹の頬を撫でる。



<いつも一緒にいるからね>



 そう言って微笑み、加代子は愛しい人の胸に身を預けた。


 命が吸い取られるような悪寒に弘樹の顔が引き攣る。

 そして弘樹は、力の限りをふりしぼった絶叫を上げた――。




 弘樹に落ち度などない。

 こんな体験をしてしまうことに意味などなく、理由がわかっても回避する術などなかった。


 獄谷加代子に見初められてしまったこと。


 梅谷弘樹は、ただ運が悪かったのだ――。





 発狂した弘樹は錯乱状態が続き、専門の病院に入院を余儀なくされた。


 弘樹は白い壁に囲まれた病室に一人で入院している。

 体に異常はない。けれども精神はおおいに病んでいた。

 薄いカーテンで仕切られたベッド。そこに布団のなかで身を縮めて怯えている弘樹がいる。

 そしてその傍らには血が斑模様になったワンピース姿の獄谷加代子が立つ。


 加代子は今日も虚ろな目で、弘樹が自分を見てくれるのを待っているのだ――。






   ――――ぴく



 加代子の指が動いた。

 そろそろ待ちきれなくなったのかもしれない――――。




□◆□◆

読んでくださりありがとうございました。

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