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前編

□◆□◆

1


 青空の下。鉄橋を渡った電車は町なかの高架上を走る。

 午後二時十五分。ビルや民家を横目に駅のホームを視界にとらえた梅宮弘樹は少しだけ電車のスピードを落とした。

 停車するわけではない。

 快速電車であるこの車両は目の前にある駅を通過するのだ。

 カタンカタン……カタンカタン……という振動と音が心地良い。

 鉄道会社に入り運転手になる。それが弘樹の子供の頃からの夢だった。

 そして二年前、弘樹は念願の運転手になることが出来た。勤務時間はバラバラ、運行表通りに発着させるための集中力、なによりも多くの人々を乗せているという責任から疲労感は常にある。だが辞めようと思ったことは一度もない。

 鉄道好きで、心から運転手という仕事が楽しいのだ。

 夢だったものが現実となり、それで生活していられる人というのは決して多くはないだろう。

 今年で二十七歳。まさに夢を叶えた弘樹は毎日に幸せを感じている。


 ホームにいる人々が一斉に下がった。

 黄色い点字ブロックの内側まで下がるよう放送が流されたようだ。


「少し早いか。次の駅には定刻通りに着かないとな」


 腕時計で時間を確認した弘樹は、白い手袋ごしにもう少しスピードを落とす。


 風を切りながらホームに入ると電車の音が変わった。走行音が構内で反響しているのだ。

 駅を通過するのは僅かな時間。後続を待つ人々が窓を流れていく。

 今日も順調な運行。

 順調な運行――だった。

 弘樹が異変に気付くまでは……。


「ん?」


 ホームの先の方、人の間から白い影が躍り出た。白いワンピースを着た髪の長い女性だ。

 彼女はそのまま点字ブロックを越え、快速電車に向かってその身を投げる。


「なんだよ!? なんなんだよ!」


 弘樹は急ブレーキをかけた。

 運転席の後ろの窓に乗客がぶつかる音。そしておびただしい数の悲鳴。

 だが、それよりも大きな音が弘樹の目の前でおきた。

 それは後ろから聞こえる甲高い音ではなく、とても重く鈍い音――。


 一瞬の出来事だった。

 目の前のガラス越しに、髪の長い女性がへばりついている。

 放射状のヒビの入ったガラスは真っ赤に染まり、顔は潰れて誰なのかもわからない。

 わずかに彼女の口が動いているように見える。しかし何を言っているのかは不明だ。

 そして彼女は重力に導かれていく――。間もなく、ゴリゴリと耳を塞ぎたくなる音と振動が車両の鉄板ごしに伝わってきた。


「ひぃッ!」


 弘樹の短い悲鳴。

 何が起きたのかわからなかった――いや、実際にはわかっている。

 白いワンピースの女性が線路に飛び込んできたのだ。

 弘樹はサーと血の気が引いていくのを感じている。

 急ブレーキはかけたが電車は急には止まらない。停車するまで三百~五百メートル進むことだろう。

 その間、弘樹の運転するこの車両は彼女を轢き続けることになる。

 間違いなく助からない――。


 楽しかった電車の運転が


 心地良かった走行音とレールから伝わる振動が


 子供の頃からの夢が叶ったのに


 弘樹の幸せが今――すべて悪夢と変わった。





 駅構内は騒然としている。

 現場は立ち入り禁止となり、多くの駅員が救出活動にあたっていた。

 どこの誰とも知れない彼女の身体は、大小の肉片となりバラバラと散り乱れていた。線路上は保線社員、車両に付着しているものは車両担当者が拾い集めて袋に詰めている。

 生きていないのはあきらかである。けれども生存反応の有無を下せるのは医師だけ。まだその判断がない以上、救出活動と呼ぶのが通例となっていた。


 ホームの片隅で弘樹はうずくまり膝を抱えている。


「俺じゃない……俺のせいじゃない……」


 顔面は蒼白、口から漏れるのは呪文のように繰り返される言葉。その目は虚ろで全身が小刻みに震えていた。

 駅員たちはその様子が目に入ると視線をそらし、無言で活動を続けている。

 なんと声をかけれてやればよいのかわからないのだ。

 遠巻きに弘樹を心配する同期の男性駅員。その肩に老駅員がそっと手を触れる。


「梅宮が悪いわけじゃないが、マグロがでちまったんだ。これから警察の事情聴取やらなんやらでさらにつらくなる。今はそっとしておいてやれ」


 その言葉に同期の駅員はコクリと頷く。

 マグロという言葉を実際に耳にしたのは初めてだったが、何を意味しているのかは知っていた。もう使われてはいないが、鉄道業界で人身事故を意味する隠語である。

 広範囲に散らばっている肉片を拾い集める。それが人間のモノだというのは理解しているが、作業をする上では精神がもたない。

 マグロという隠語は、それは人間のモノではないと自分に言い聞かせるために生み出された自己防衛手段なのだろう。


 線路上では車両担当者が悪戦苦闘していた。

 車軸に巻きついた長い髪の毛が取り除けないのだ。

 このまま車両を車庫に移して処理するしかない。車体に付着した人の脂を落とすのにも苦労することだろう。


 弘樹は警察官に促されて立ち上がった。

 なにやら心配する言葉をかけてもらったが、今の弘樹の耳には入ってこない。

 警察官に支えられ、弘樹は重い足取りで事務所へ向かう。

 そしてそこで、弘樹は飛び込んできた女性の名前を聞かされた――。





「獄谷加代子さん……。いえ、知らない方です」


 駅構内の事務所。少し落ち着いてからの質問に、弘樹は静かな声で答えた。


「本当ですか? この女性なんですが、全く見覚えはありませんか?」


 警察官が運転免許証を机に滑らせる。

 獄谷加代子、生年月日から年齢は弘樹と同じ二十七歳。

 写真からでもわかる青白さ、頬はこけ、細い目のまわりにはクマが出来ている。


「うっ……」


 吐き気をもよおした弘樹が口を押えた。

 彼女に見覚えはないが、その長い髪から衝突時の血飛沫が記憶から蘇ったのだ。


「う、梅宮、大丈夫か!?」


 駅長が心配し、弘樹の背中をさする。

 呼吸の荒い弘樹に警察官も同情の色を隠せないが、彼らにも職務があった。


「梅宮さん、お辛いでしょうがもう一点だけ。こちらをごらんください」


 ピンク色の定期入れから写真を取り出し、再び弘樹の前まで滑らせた。

 弘樹は口もとを拭い、ゆっくりと顔を上げる。そして写真を見た途端に表情を凍らせた。


「こ、これは……な、なんで……」


「少なくとも、獄谷加代子さんは梅宮さんのことを知っていたようですね」


 言葉の詰まった弘樹に、警察官はトンと写真に指を置いた。

 その写真には獄谷加代子と弘樹が写っている。背景が白の証明写真の真ん中に、胸から上の加代子が、そしてその隣には寄り添うようにして弘樹がいた。

 だが制服姿の弘樹の写り方がおかしい。

 加代子の隣で笑顔を見せてはいるが、その目はカメラの方を見ておらず、二人の光彩も違う。

 あきらかに合成された写真だ。


「獄谷さんのバッグから日記も見つかりました。そこには梅宮さんとの交際の日々が書かれていまして……」


「そんなバカなッ! 俺はこの女性を知らないのに、交際していたなんてあるわけないじゃないですか!」


 身に覚えのない出来事に弘樹は立ち上がった。

 その困惑した表情に警察官は頭を掻く。


「落ち着いてください梅宮さん。我々も状況からそうみています。ですが、確認はしなければなりませんので」


 警察官もバツが悪そうだ。


「なんだよ、なんなんだよこれは……」


 弘樹が力なく座ると、なだめるようにその肩に手を置いた駅長が警察官に向かっ

て口を開く。


「ということは、梅宮はこの獄谷加代子さんという女性にストーカーされていたということですか?」


「他にも携帯端末には梅谷さんを盗撮したと思われる写真が複数ありますし……その、梅谷さんのご自宅とおぼしきアパートの写真もありましたので、そう認識していただいてもかまわないかと思います」


 弘樹が涙目になっている顔を上げ、警察官を見据えた。


「なぜ俺が住んでいるアパートだと?」


「そのアパートに出入りする梅宮さんの姿が画像にありましたので」


「なんてこった……」


 そんな気配など微塵も感じていなかった弘樹は頭を抱えた。

 警察官は言葉を続ける。


「これから裏付けはしなければなりませんが、獄谷加代子さんは梅宮さんにかなりの好意を寄せていたようですね。日々の梅宮さんを追っていましたが直接話しかける勇気はなかった。ですが思いは募り、いつからか二人は恋人同士だと妄想するようになったのかもしれません。なにがきっかけとなったのかは不明ですが、現実と妄想のギャップに気付いた獄谷さんは絶望して、このような行為に出たのかもしれませんね」


 状況をみれば警察官の言う通りなのだろう。

 そうであれば、獄谷加代子が弘樹の運転する快速電車に飛び込んだのも偶然ではないのかもしれない。

 この後も弘樹はいくつかの質問をされ、それに答えた。だが精神的ショックの大きい弘樹は、質問の内容も回答もほとんど覚えてはいなかった――。





 あの人身事故から数週間が経った。

 弘樹は今、駅構内の事務所で働いている。電車の運転席に戻りたいとは思う。だが今はそれも怖い。ガラスに広がった長い髪と血飛沫が頭から離れないのだ。

 毎日パソコンと向かい合う日々。

 同僚はどこかぎこちないが、それでも弘樹には普通に接してきた。それは弘樹にとってありがたくもあり苦しくもある。

 弘樹は事故後の一週間、仕事を休んだ。仕事が出来る精神状態ではなかったからだ。

 今はだいぶ落ち着きを取り戻してはいるものの、突然時間が止まったかのように動かなくなることがある。数分間まばたきもせずにパソコン画面を見つめたあと我に返り、席を立ってトイレで泣くのだ。


 獄谷加代子の死は弘樹の責任ではない。

 警察の捜査からも、彼女が弘樹のストーカーであったことが確認された。なぜ、獄谷加代子が弘樹の運転する快速電車に身を投げたのかはわからないままだが、弘樹に罪はない。

 だが、そうは思はない人もいるようだ――。


「すみません、こちらに梅宮弘樹さんがいると伺ったのですが……」


 事務所のガラス戸を開いたのは中年女性だった。

 中肉中背、肩まである髪。大人しめの服装で気品の良さそうな夫人だが、その顔色が悪い。顔の皴も深く、一見すると老女のようにも見える。その皴に人生の苦労が刻み込まれているかのようだ。


「はい梅宮は私ですが。どのようなご用件でしょう?」


 弘樹が席を立つ。

 見覚えのない夫人が自分に何の用があるのだろうと、カウンターへと向かう。

 すると、カウンター越しに立つ夫人の顔が鬼と化した。


「見つけたッ! お前だッ、お前が加代子を殺したんだッ!」


 夫人がカウンターを乗り越え、弘樹に飛びかかった。

 中年女性とは思えない素早さに、弘樹は躱しきれない。その鬼の形相に気後れした弘樹が尻餅をつくと、夫人は馬乗りになって弘樹の髪を掴む。


「人殺しッ! この人殺しッ! かえせッ、私の加代子を返せぇぇぇッ!」


「やめてくださいっ! やめてくださいよ!」


 弘樹は抵抗するが、興奮する夫人は聞く耳を持たず、弘樹の髪を掴んだまま振り回す。

 その様子に弘樹の同僚たちは席を立ち、慌てて夫人を弘樹から引き剥がした。


「はなせッ、お前たちはあの人殺しをかばうのかッ!」


 夫人の手には弘樹からむしり取った髪の毛が握られている。

 引き離され、駅職員二人に押さえられてもなお、夫人は暴れ、弘樹へと飛びかかろうとした。


「あなた誰なんですか!?」


 弘樹の問いに、夫人はさらに目を剥く。


「わからないのか!? お前は結婚を約束した人の親もわからないというのか!」


「け、結婚!?」


「お前は私の娘と、獄谷加代子と結婚すると約束していたのにッ! なんの恨みがあって加代子を殺したんだッ!」


「そんな……結婚の約束なんてしてませんっ! 俺はあなたの娘さんと会ったことも話をしたこともないんですよ!」


 この鬼の形相が崩れない夫人が、弘樹が運転していた快速電車に飛び込んできた獄谷加代子の母親だということはわかった。だが、会ったこともない人と結婚の約束をしていたなんて、弘樹にとっては寝耳に水だ。


「嘘を言うなッ! 娘の、加代子の日記にそう書いてあったのを読んだんだッ!」


 日記――。

 あの日、警察官も同じことを言っていた……。弘樹はそれを思い出す。


『獄谷さんのバッグから日記も見つかりました。そこには梅宮さんとの交際の日々が書かれていまして……』


 獄谷加代子の隣で合成された弘樹の写真。

 ストーカーだったのかと尋ねると――


『他にも携帯端末には梅谷さんを盗撮したと思われる写真が複数ありますし……その、梅谷さんのご自宅とおぼしきマンションの写真もありましたので、そう認識していただいてもかまわないかと思います』


 と、警察官も苦い顔をしていた。

 しかしこの夫人は違う。

 獄谷加代子の母親だというこの夫人は、自分の娘が弘樹と交際し、結婚の約束をしていたのだと信じて疑っていないようだ。――いや、警察からあの合成写真を見せられているはずである。その時に、状況から加代子は弘樹をストーカーしていたという見解も聞いていることだろう。


<それなのになぜ――>


 どうしてこの夫人はこれほどの怒りを自分に向けてくるのか。弘樹にはわからなかった。


 数分後に来た警察に取り押さえられても夫人は抵抗し、部屋から出されて連行される間も弘樹に恨みの言葉を吐き続けていた。


 放心状態の弘樹に同僚の中年男性が寄り添う。


「とんでもない逆恨みだな。あんな死に方をした娘の死を誰かのせいにしたいという気持ちはわからないでもないが……。梅宮が悪いわけじゃねぇよ」


「俺のせいにしたい……か」


 同僚の言葉に納得しながらも、弘樹は違和感も覚えていた。

 あの夫人の目――。

 その怒りの目は娘が綴った日記の内容を疑っていないことからきているように見えた。

 そして弘樹に悪寒が走る。

 あの夫人は自分が加代子の婚約者だと信じ込んでいるからこそこの場に来たのではないか。けれども獄谷加代子は自分という婚約者に裏切られた。だから自分が運転する快速電車に飛び込んだのだと思っているのではないかと。だが夫人は自分に対し、満足に抗議も出来なかった。

 だからきっと――。


(あの夫人はまた、ここへやってくる……)


 そう思うと、残りの就業時間、弘樹は仕事に集中できなかった。




□◆□◆

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