表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/13

番外1. 毒入りお菓子の届いた日(間諜視点)

遅ればせながら番外編です。



眠い。


目を覚まそうと、俺は両手で自分の頬をぱちんと叩いた。

ここのところ、ろくに寝ていない。しかし今はまだ気を抜くことはできなかった。


我が国レスダンの王太子と隣国イザークの王女ディートリンデの婚約が正式に発表されてから二ヶ月になるが、嫉妬に狂う貴族の女たちの状況は想像していた以上だった。


最初は正式な手順を踏んで王太子への目通りを願う令嬢が多かった。今更会ったところで婚約の決定が覆るわけでもないのに、謁見の間までの長蛇の列は日が昇る前から暮れるまで続いた。

もちろん婚姻の準備で忙しい王太子に一人一人と会って話す暇などない。結局彼女たちの相手を引き受けるのは、王太子の側近か侍従たちだった。


「どうして殿下に会えないのよ!」


「あんたなんかと話したってしょうがないじゃない」


「王太子様を出して!」


女たちの金切り声を天井から聞いていたが、対応している連中に、大いに同情した……俺には絶対無理だ。


王太子に会えないとなると、ある程度の女たちは諦めたようだったが、しぶとい者もまだ数人いた。一日に何通も手紙を送りつけてくるのはましな方で、宮殿に忍び込もうとする者もいた。やっかいなのは宮殿内の人間を使って手回ししようとする者たちだった。


ある上位貴族の屋敷の天井裏を見回っていると、なぜか城の兵士が一人いるのを見つけた。話を聞けば、夜にその家の令嬢が兵士の制服を着て宮殿内に入ろうという内容だ。兵士は大金を積まれるとあっさり制服を渡していた。おいおい、大丈夫かこの国は。

他にも下働きの洗濯メイドや調理メイドなどを利用して、王太子の寝床に侵入しようとするような計画さえあった。全く恐ろしいことを画策する。

もちろん事前に俺が調べて報告していたから、親衛隊の徹底した動きによってそれらはすべて阻止された。


今週に入ると、過激派の女たちもようやく落ち着いてきたようで、いまだ諦めきれていないのはデュボワ公爵家の娘マルティーヌと、ランベルト侯爵家の娘エロイーズ、そして例によってギロー伯爵家のあのわがまま娘ジョゼフィーヌの三人だけとなった。

この人数に絞れたことに胸を撫で下ろしたいところだが、この三人こそ警戒すべき女たちだ。それこそ何をしでかすかわからない。


イザーク王女ディートリンデの輿入れまであと二日。

あと二日乗り切れば、俺は休暇をもらえることになっている。やっと……やっと落ち着いてレリアと一緒に時を過ごせるのだ。

俺はその日を心待ちにして生きていた。


実際のところ、二ヶ月前ーー王太子と隣国王女が婚約を結んだ日の翌日だーー俺はレリアと婚姻を結んだ。それはこの上ない喜びで俺は幸せに包まれていたが、暴走する女たちのおかげで、俺は彼女と会うどころか寝床でゆっくり休む時間すらほとんどなかった。

ほんとうなら、結婚したら宮殿のすぐ近くの家に一緒に住みたいと思っていたのに、家を探す暇もなかった。

王太子からは一応宮殿内に小さな部屋をもらっているが、誰にも気づかれないような天井裏の奥にある空間だ。まさか彼女とそんなところでねずみみたいに住むわけにもいかない。


レリアの方は宮殿内で侍女としての部屋が区分されているようで、時おり物陰から彼女の姿を見かけることもあった。

だが新人の彼女には大抵侍女長が常に横についており、直接会って話したのはなんと結婚式のときが最後だった。

ただ、それでは俺のために宮殿に入った彼女にあまりに申し訳ないので、毎日彼女の枕元に置き手紙を置いた。しかも、レリアはちゃんと返事を書いてくれている……こんな状態になってしまって怒っていてもおかしくないのに。





「……ン、ジャン? おい、聞いているのか?」


呼ばれて俺ははっと顔を上げた。まずい、礼節の体勢をとったまま寝てしまっていた!


執務室でちょうど王太子の話を聞いていたところだった。油断した……これが標的の家でなかったのが救いだ。仕方ない、昼も過ぎて一番眠くなる時刻だ。


王太子は怪訝そうに執務室の机からこちらを見下ろしている。

俺は上げた顔をすぐさま下げた。


「申し訳ありません、聞いておりませんでした……もう一度おっしゃっていただけますか」


王太子はいぶかし気な表情を浮かべてから「いいとも」と言ってくれた。


「菓子の箱が私宛てに届けられていたのだ、内密にな。しかも差出人はイザーク王女ディートリンデとある。これについて何か知らないか」


差出人がディートリンデ王女? 

俺は思い切り眉を寄せた。あと二日もすれば結婚する相手に、内密で菓子の贈り物など普通ならば考えられない。ディートリンデ王女はそもそも王太子に贈り物などするような方ではない。彼女はこの王太子に乞われて乞われてしぶしぶ我が国に来るのだという噂さえ流れている。

となると、あの過激派の三人のうちの誰かだろう……そういえばジョゼフィーヌが一昨日からずっと屋敷の調理場に入り浸っていたようだったが、あれが関係しているのだろうか。


「存じません。中身は確認されましたか」


「いや、恐ろしくて開けられぬのだ。しかしこれは開けなくてもわかる、絶対に毒入りだ……だがこんな見えすいた罠に、この私がひっかかるとでも思っているのか?」


「もちろん殿下を甘く見ているわけではないでしょうが、向こうも殿下を王女と結婚させたくない思いで必死なんでしょう。いずれにせよあのデュボワの娘やランベルトが行う所業ではありません」


「だろうな。となるとやはりギローの娘か……ランベルト侯爵はどうしている?」


「目立った行動は取っていません。ですが侯爵が何もしないとは思えないので、これからまた様子を見に行きます」


俺が答えると、王太子は「そうか」と言って立ち上がる。そしてカツカツと俺の目の前に来てその場に突然しゃがみ込んだかと思ったら、俺の目元しか出していない顔を至近距離でまじまじと見た。


「ジャン、お前何日寝ていない?」


「……仮眠は取っております」


「馬鹿者、自室で寝たのは何日前だと尋ねておるのだ」


そんなのはいちいち数えていない。


「……俺は、立って熟睡することもできるので……」


「黙れ、そんなことは聞いておらん」


王太子は「全く」と不満そうな声を漏らして立ち上がった。


「職務に忠実なのは良いことだが、自分のことも少しは顧みろ。無理をしろと言った覚えはないぞ。そんな状態で侯爵家に行って倒れでもしたらどうする」


「お言葉ですが、俺はそんなへまは……」


「うるさい、言い訳はいいからそこの長椅子に横になって一時間だけでも寝ろ」


そんな! 困る、今すぐランベルト邸に行くつもりだったのに。俺が嫌そうに目を細めたのに王太子は言った。


「これは命令だ。私は今から日暮れまでここで仕事をする。途中で抜け出すことは許さんぞ」


王太子はギロリと青い眼光をこちらに向けた。まいったな、これは従うしかなさそうだ。しかし一時間か……長いな。


王太子が促すので、俺は言われるままに長椅子に座った。


「殿下、その、一時間ではなく十五分にするというわけには……」


「いかない。たった一時間くらい、おとなしく眠れ。さあ」


王太子が仁王立ちして見下ろしている。俺が眠るまで動かないつもりなのだろう。俺はしぶしぶ横になって目を閉じた。

一時間か。その間にランベルト侯爵はどう動くだろう。あそこには以前勤めたことがある――つまりは間諜を雇う家なのだ。他の二家、デュボワ公爵家とギロー伯爵家は両家とも娘一人の暴走に過ぎないが、ランベルト侯爵家は娘エロイーズよりも父親の方が野心が高かった。おそらく本気で攻めてくるに違いない……。

そこまで考えていたが、二ヶ月間極限の睡眠時間で過ごしていたからかすぐにうとうとと眠くなり、意識が遠のいていった。




すぐそばに人がいる気配がして、俺ははっと目が覚めた。目の前に王太子がこちらに手を伸ばしていた。起こそうとしてくれたらしい。いつのまにか毛織物の布までかけてくれていたようだ。


「おっ、時間ちょうどに目覚めたか。さすがだな」


むくりと起き上がると、窓辺に視線をやった。日の傾き方から判断して、ほんとうに一時間くらい眠っていたらしい。頭が先ほどよりすっきりしている気がする。

俺が起きたのを見ると、王太子は自分の机の方へ戻った。


「十分に眠れたようだな」


「はい、殿下のおかげで久しぶりに横になって睡眠をとることができました」


俺は立ち上がると、かけられていた布をきれいにたたむ。


「実はお前が寝ている間にこの部屋に一人、客が入ってきた」


まさか! 俺はがばっと顔を上げた。

ちっとも気づかなかった……いよいよ間諜としてまずいんじゃないか。最近ちゃんと寝ていなかったからと言ってこれじゃほんとうにクビは時間の問題になるかもしれない。

焦った俺を見て、王太子はにやりと笑みを向けた。


「安心しろ。来たのはお前の妻だ」


「えっ」


妻って……レリアが!? 彼女がここに来ただって?


「そ、それはどういう……」


「私がお茶を淹れるよう頼んだのだ。その毛布をお前にかけてやったのは彼女だ。お前の姿を目にすることができたと喜んでいたが、やはり私がお前をこき使っていると思われた。散々どやされたのだぞ」


そうだったのか。王太子には申し訳ないなと感じつつも、レリアが来たのなら起こしてくれたらよかったのにと思った。


「ジャン、よく聞け」


王太子が真剣な顔でこちらを見ている。


「今のところ私に直接の被害はない。それはひとえにお前が私のために死力を尽くしてくれているからだ。それだけでも十分にお前を評価するべきだと思っている」


彼の真摯な言葉に、俺はその場で礼節の体勢を取り頭を下げた。


「ありがたいお言葉ですが、まだあと二日ございます。なにが起こるかわかりませんので、どうかくれぐれもお気を抜かれませんよう」


「わかっている。私とて恐ろしくて眠れぬ夜を過ごしておるわ……もっとも私は先のことも考えているから、お前よりはちゃんと睡眠をとっているがな」


王太子は得意そうにふふんと涼しげに笑った。


この男はときどきこうして少年のような笑みを浮かべる。それが悪いことを考えているときなのか、良いことを考えているときなのかはまだわからないが、いずれにせよ絵に描いたような美しさだ。こんな彫刻のような男のもとに仕えていて、レリアは俺と結婚したことを後悔していないだろうか。

顔を売りに出している王太子は、側から見ても彼女とウマが合わないように見えた。でも一緒に過ごす時間が長いんだ、気持ちがどう変化するかわからないぞ。彼専属の侍女なのだから尚更だ。

ささくれだった気持ちになってしまうのを振り払い、礼節の体勢から立ち上がったとき、俺は長椅子に紙切れが置いてあったことに気づいた。


なんだこれ。

手にとって広げてみると、驚いたことにレリアの筆跡だった。


"あなたに会える日を楽しみにしています。どうか無理せずに"


うわ。俺は胸をぎゅっと掴まれたような気がして、思わず目を細めた。そうか、彼女がここに来たとき書いて置いていったんだ。

心の中を優しい風が凪いでいった。遠く離れていたレリアとの距離が急に縮まったように感じる。


「ジャン」


王太子が少し俯きながら言った。


「その、悪かったな」


突然の謝罪に、俺はびっくりして顔を上げた。


「お前が彼女とずっと会えないのは私のせいだ。ほんとうであればお前たちは夫婦なのだから、ばらばらで暮らしているなんておかしな話だ。それに下世話かもしれないが……お前たちは白い結婚のままであろう? 式の後すぐに私が仕事を命じたのだから」


ぐっと返事に詰まる。

そう、結婚式を挙げた夜からもうすでに俺は仕事で調査に動いていたのである。まさか初夜を取り上げられるとは思わなかったので、あのときは王太子を心から恨んだ。しかしあの夜に見張っていたからこそ得た情報もたくさんあった。


「……殿下のせいではありません。あの日はやむを得ませんでした。それに、二日後のディートリンデ王女の輿入れの日からは当分休暇をいただいていますから」


俺がそう言うと、王太子は目を細めて柔らかい笑みを浮かべた。


「そうだった。それまではよろしく頼む……ところで輿入れの日だが、お前とレリアさえ良ければ、実は行ってもらいたい家がある」


なんだ、それは。


「行ってもらいたい家、ですか」


「そうだ。彼女にはすでにもう話してある。まあ二人で相談して決めてくれたまえ」


よくわからないが、レリアに話しているということは間諜としての依頼ではないらしい。

俺が理解しないまま「わかりました」と答えると、王太子はにっと笑みを浮かべた。またこの笑顔。


王太子の大安売りの笑顔にはげんなりしたが、あんな風に俺を気遣ってくれるなんて思わなかったな。

まあそれなりの無茶をさせている自覚があるとわかってよかった。


俺は宮殿を出ると、いよいよランベルト邸へ向かった。



ランベルト邸に入るときは少し注意しなきゃならない。

簡単に侵入できないように窓は小さく、天井裏には罠がいくつか仕掛けてある。宮殿ほどではないが、潜入するときは五感も直感も研ぎ澄ませなければならない。

まあうまく侵入することができたことを見込まれたから、以前雇われたんだが。あのときは確か一年だけという契約だった。もう一年契約するかと問われたが、政治の話がきなくさかったから断ったのだ。

天井裏の仕掛けが以前と変わっているかと思い少し緊張して入ったがそれは数カ所だけで、ほとんど前と同じであった。

肝心のところで手を抜くのがランベルト侯爵なんだよな。


俺は人の気配を感じて息を潜めた。居間の上の天井裏にたどり着いたようだ。

俺は隙間から下の様子を伺った。

扉が開いて召使いに案内された少女が一人、きょろきょろと辺りを見回している。

見た顔だぞ、あれは……街中で薬草や花を売っている娘だ、確か名前はソフィー。

彼女は売り子をしているそのままの格好だった。貧しく粗末なワンピースにエプロンをつけ、首から下げた木の板の台に可憐な花々を並べ、またもう半分には薬草を置いている。彼女はそわそわと落ち着かなげに長椅子に座った。



ほどなくして居間に屋敷の主人とその後ろから女が入ってきた。

なんだあの女。侯爵の娘じゃない。侍女やメイドらしい服装はしておらず、かと言ってドレスを着ているわけでもない、黒い服で男装しているようにも見えるが、赤い髪はメイドのようにきっちり束ねているようだ。


「やあやあ、薬草売りのお嬢さん。わざわざ来てもらってすまないな」


ランベルト侯爵が口を開いた。懐かしいな、この声。優しいように聞こえるが、平気で人を追い落とす人物だということを俺は知っている。

しかしランベルト侯爵の柔らかい言葉に、ソフィーは少しほっとした表情を浮かべた。


「そ、そのう、お貴族のお方が私なんかに何のご用で……?」


「実は君に頼みがあって来てもらったんだ……単刀直入に言うが、君のその花売りとしての服と商売道具をすべてもらえないだろうか?」


服と商売道具をすべてだって?

俺と同じようにソフィーはぽかんとした表情を浮かべた後、ぞっとした顔になった。きっと裸にされると思ったのだろう。

それは侯爵も察したようで「いやいや、言葉足らずで済まない」と続けた。


「ここにいるご婦人が、君の売り子としての服装をいたく気に入ってね」


侯爵の後に続いて入ってきた女が小さく頭を下げた。彼女はにこりとも笑わなかった。公爵は続けた。


「もちろんお返しに君にはこの屋敷で好きなドレスを贈ろう。一着だけじゃない、好きなだけ持っていくといい。それと引き換えだ。どうだね? 悪い話じゃないだろう」


そう言われて、ソフィーは少しだけ考えていたがやがてわかったと頷いた。

どうやら承諾したらしい。そのうちメイドが入ってきて、ソフィーを居間から連れ出していった。彼女が持ってきた花と薬草の並んだ板は居間に置かれたままだ。あんなものを手に入れて、ランベルト侯爵は一体何をするつもりだろう。

俺は目を細めて花や薬草の種類に目を凝らした。毒になりそうなケシの花やトリカブトはない。捻挫に当てるコンフリーの葉や痛み止めのリコリスが見えるが害はないだろう。


ソフィーが出ていった後は居間にはランベルト侯爵と女が残っていたが、女の方は板の上からある植物を手に取って注意深く見た。

彼女の持っている白い花の束はなんだ、ごっそりあるぞ。


「どうだ、できそうか」


侯爵が尋ねた。先ほどの優しげな口調から一変し、いつも通りの声になっている。相変わらず彼は役者だ。

女は小さく頷いた。


「そうですね、これだけあれば……」


そのうちに、メイドがソフィーの着ていたぼろのワンピースを持ってきた。ソフィーはおそらく別室でドレスを選んでいるのだろう。

例の女がソフィーの服を受け取る。

メイドが去ると、女はワンピースを広げて自分に当てがった。サイズを見ている……ということはやはりこの女が着るつもりなのだろうか。

女はワンピースの丈の長さや袖の具合を確認すると、再びメイドが持ってきたようにたたんだ。


「良いでしょう。芝居はともかく、薬は絶品にお作りいたしますのでご安心を」


女がそう言った。

薬を作るだと? この女、薬師なのか。待てよ、あの白い花……もしやヴァレリアンか?

侯爵はにやりと笑みを浮かべた。


「頼んだぞ。いいか、チャンスは今夜だけだ、明後日になれば輿入れに備えて警戒が強くなる。隣国の兵士たちが来る可能性もあるからな。問題は私の娘……」


「ちょっとお父様っ!」


うわ、誰かがわめきながら居間に乱入してきたぞ。俺は目を眇めて闖入者を見た。

ランベルト侯爵の娘、エロイーズだ。すごい形相で父親を睨みつけている。


「花売りが私のドレスを漁っているの! メイドたちは止めもしないのよ、もう信じられな……」


「私が許可した」


「なんですって、お父様が!?」


エロイーズが驚いた声を上げる。

居間には沈黙が降りた。令嬢は父親の真剣な目を見て、何か考えあってのことだったのだと理解したようだ。


ランベルト侯爵は低い声のまま娘に言った。


「エロイーズ、私はお前を本気で王太子妃にすると言ったな」


「ええ、言ったわ。私もそのためなら努力も惜しまないと……それと関係があるのね?」


エロイーズがわくわくしたように言った。


「そうだ。いいか、お前は今夜、王太子の寝室に……」


「お待ちを」


突然例の女が侯爵の言葉を遮った。


「どこかから我々以外の者の息づかいを感じます」


げっ。あの女、同業者か!

慌てて呼吸音を小さくする。寝不足だから呼吸が荒くなってしまったのかもしれない。くそ、失態だ。



静かになった居間には、ガチャガチャと食器を重ねる音や、メイドたちの話す声、また少し離れたところからは先ほどのここに来たソフィーがドレスを着てはしゃいでいる声が響いて聞こえてきた。

ありがたいことにここの居間の天井は高く、天井裏の気配を察するよりは隣の部屋の人の気配の方が強く感じられるようになっていた。ただ間諜である彼女はそれも把握しているに違いない。とにかく今は気配を消さなければ。


居間にいる三人はしばらく沈黙していたが、やがて侯爵が言った。


「今は来客中だ。あの花売りのせいかもしれん。場所を変えよう」


侯爵の言葉に、女は納得のいかないような表情で「しかし」と言ったが、「……まあ良いでしょう」と諦めてくれた。


「ですが、筆談にしましょう。暖炉を炊いて読んだらすぐに燃やすのです」


さすがに用心深いな。


その後三人は居間を出ると、侯爵の執務室に入っていった。執務室には天井裏がない。できれば確信的な情報と詳しい時間が知りたいが、あの女がいればこちらの気配も悟られてしまう。

俺は先ほど見たものを思い返した。

あの植物はおそらくヴァレリアン――睡眠導入の薬草だ。そして薬草売りの服を手に入れた間者の女。

それがわかれば、ランベルト侯爵の思惑は大体読める。

俺はランベルト邸を出た。




次に行くのはデュボワ公爵邸と決めていた。

ここの警備はいつも手薄だ。娘と違って現デュボワ公爵はのほほんとして政治的野心があまりない。ただ、爵位が高く、古くからの由緒正しい家柄であるため、門番から召使いやらメイドなど、やたら大勢いるのだ。

前にギロー伯爵令嬢の命令で忍び込んだときは、そこかしこに誰かがいるので、とにかく侵入が大変だったことを覚えている。


こういう場合は召使いに変装するのが一番いいんだが、俺は変装は専門外だ。前にギロー伯爵令嬢の命令でリュート弾きになったけど、あのとき芝居は俺には向いていないと身をもって悟ったからな。


しかし屋敷内に召使いが多いということは、それだけ噂も広がりやすいということだ。おしゃべりな使用人たちはよくこの屋敷の家族のことを話している。

ジョゼフィーヌの命令でこの家の令嬢の趣味を調べるときも、本人の部屋まで辿り着くことは叶わなかったが、使用人たちの噂だけで情報を手に入れることができた。


まずは公爵邸の庭園に忍び込む。庭師は先ほど裏庭に回っていったから見つかる心配はない。

そこから壁の柱をつたって屋根に飛び移った。空いている窓を見つける。よしよしここまでは順調だぞ。


窓に近づくと、早速メイドたちが噂話をしている声が聞こえてきた。


「……とうとう、マルティーヌ様もご決断なさったってわけね」


「心配だわ、おとがめを受けるのはサラやシヴィルでしょう? お嬢様はどうお考えなのかしら」


「成功すればこっちのものじゃない。それにお嬢様が王太子妃になられたら、私たちも召し上げられるかもしれないのよ」



ギロー伯爵令嬢、ランベルト侯爵令嬢に続いて三人目の過激派はマルティーヌ・ド・デュボワ。彼女はギロー伯爵の娘ジョゼフィーヌと並んで、好き勝手に生きている公爵令嬢だ。彼女は自分の地位に誇りを持っており、自分こそが王太子妃になるにふさわしいと本気で思っている。

そんな彼女もやはり何か企みがあるようだ。今出た名前、サラ、シヴィルはメイドの名前だろうか。


もっと話をよく聞こうと思ったが、噂をしていた彼女たちは階下に下りていってしまった。

俺も屋根から下りて、耳をすませながら彼女たちの行き先を辿る。

そのうち清潔な良い香りがしてきた。石鹸の匂いだ。どうやら洗濯室の方へ向かったらしいぞ。


「ねえ、ナタリーきいた?」


先ほどの話していた女の声が洗濯室からまた聞こえる。


「なに、どうしたの」


ナタリーと呼ばれた女が返事をする。

ようし、ありがたい。最初から話してくれ。


「マルティーヌお嬢様、今夜メイドになりすまして王太子様の寝室に忍び込むそうよ!」


俺はため息を吐きそうになった。またその方法か。


「シヴィルとサラが付き添うみたい。お嬢様も大それたことを企んだわよねえ」


「でも、メイドになりすまして宮殿に入ろうとしたご令嬢たちはこれまでもいっぱいいたけど、みんな失敗したんでしょ。同じ手は通じないんじゃ……」


「それが、何か手があるらしいのよね、絶対に追い出されずに侵入できる方法が。マルティーヌお嬢様は相当自信ありげだったって話よ」


"絶対に追い出されずに侵入できる方法"だって? なんだそれは。


「へえ、一体何かしら」


ナタリーが興味ありげに言うと、最初のメイドが答えた。


「さあね。でも、今回ばかりはお嬢様もやり遂げるかもしれないわ、イザークの王女様には気の毒だけど」


おいおい、そこまで言い切れるっていうのか?

俺はそうなった場合を想像し、背筋がひやりとした。これは付き添いのメイドかあるいは令嬢自身を探った方がいいな。


しかし、令嬢マルティーヌは自身の身体を徹底的に磨き上げるようで、浴室にこもり切りのようだった。ここの浴室はやたらと響くのでへたに近づけない。

仕方なく他の召使いたちの会話に耳をすませるが、先ほど得た情報以上のものは得られない。


俺はマルティーヌの部屋の天井裏で彼女が浴室から戻ってくるのを待った。だが、いくら待っても彼女は一向に姿を見せなかった。

まずいな、日はもう傾いている。夜になるまで時間がない。

俺は使用人たちの足音が聞こえないことを確認すると、天井からマルティーヌの部屋に下りた。


なにか、なにか情報はないだろうか。

俺はきょろきょろと部屋の中を見回した。書き物机はきちんと整理されており、書きかけのものもない。

ベッドの上にはおそらく今夜着るつもりなのだろうメイドのお仕着せが置いてある。

まったく、こんなものどうやって手に入れるんだ……と、それを手に取ったとき、俺はおやと思った。


これは……宮殿で見られるお仕着せとデザインが違う。

よくレリアの手伝いをしているメイドたちを見かけるが、彼女たちはこんな派手な黒いリボンなどつけていない。袖もこんなに膨らんでいないし、エプロンのレースの素材ももっと粗い。この屋敷のメイドたちの服とも違うな。

明らかに型の異なるメイドのお仕着せなのに、なぜマルティーヌはこれを選んだのだろうか。と、手に取っていたお仕着せの間から何かがぽとっと床に落ちた。おっと。

なにやらブローチのようなもののようだ。拾い上げ、ブローチのデザインを見て――俺は驚いて声を上げそうになった。

これは……イザークの紋章じゃないか!


そのとき近くでメイドたちの歩く足音が聞こえた。まずい。慌ててその服の一式をきれいにたたみなおし、ブローチを服の間に挟むと、急いで天井裏に戻った。

真相がわかった以上ぐずぐずしてはいられない。

俺はデュボワ公爵邸を後にした。




ほんとうなら今すぐに宮殿に戻って王太子に報告しなければならない。だが、もうひとつ確認しておくべき人物がいる――前の主人であるギロー伯爵令嬢ジョゼフィーヌだ。


差出人を隣国の王女に仕立て、王太子宛てに菓子の箱を送りつけたのは十中八九あのわがまま娘だろう。王太子はもちろん菓子を口に入れたりなどしないだろうが、あの娘が何を考えているのか探っておかなければならない。


ところがギロー邸に行ってみると、令嬢ジョゼフィーヌの姿は見当たらなかった。おかしい、今日は外出の予定はなかったはずだ。自室にも浴室にも中庭にも昨日まで入り浸っていた調理場にもいない。

もしや何か思い立ってもう行動に移っているのか……? 俺は若干の焦りを感じた。しかし、ふと泣き声が聞こえてくることに気づいた。

これは……間違いない、あのジョゼフィーヌだ。


どこからだろうと耳をすませる。ずいぶん遠くのようだ。

屋敷中に響いているからどこかの部屋には違いない。だが一向に姿は見つけられなかった。

その代わり、神妙な顔をしたメイドたちが固まって屋敷の主人の執務室へ入っていくのを見かけた。


なんだろう。

俺は執務室の天井裏に回り込んだ。


「だ、旦那様」


メイドのうちの一人が口をきいた。


屋敷の主人ギロー伯爵は机に向かって座ったままのようだが、彼が「なんだ」と返事をするのが聞こえた。

俺は天井裏に小さな穴があるのを見つけて下の様子を覗き込んだ。


「そ、その……もうお嬢様をお許しくださいませ」


「地下室にいては寒くて風邪をひいてしまいます」


ああ、なるほど。あの娘、何かをやらかした罰を受けて、地下室のワイン貯蔵室に閉じ込められているんだな。

前に俺が雇われているときも二回ほどあったことだ。


「ならん」


彼女の父ギロー伯爵は怒りを含めた口調で言った。


「今度ばかりは許さん。王太子殿下に毒入りの菓子を送り付けるなど、この家の恥だ。お前たちもなぜ止めなかった?」


ああ、あれか。やっぱりあれには毒が入っていたんだな。あの女も懲りないなあ。


「ですが旦那様、毒は少量、命の危険には及ばな……」


「少量だろうと、毒は毒だ!」


ひえ、すごい剣幕だ。

しかし伯爵の言う通りだった。毒を送り付けたことが明るみになればただことではすまない。良くて左遷、爵位剥奪はまだまし、へたをすれば命も失いかねない。


「差出人をディートリンデ王女にしたことで彼女に罪を被せて婚約を破断にするという寸法だろうが、箱や材料などを検証すれば送り主がすぐにこの家だとわかってしまう。全く、馬鹿なことを思いついたものだ……そもそもあれが王太子妃になどなれるわけがないのに」


項垂れる伯爵に少し同情したが、娘の暴走を管理できていなかったことの責任は父親に行くのが道理である。

伯爵は言った。


「とにかく、あれに灸をすえるためにも私が許可を出すまで地下室から出すな。無断で出せばお前たちは皆紹介状なしに解雇だぞ。私は……これから王宮へ行って謝罪をしてくる。後から判明するよりはましだろう。イリスにも覚悟しておけと伝えてくれ」


「旦那様!」


「奥様にそんなことを言えば、気を失ってしまいますわ!」


「仕方あるまい、私たちの育て方が悪かったのだ。今回のことがどれだけ大ごとだったのか、お前たちも身をもって知るが良い」


そういうと、ギロー伯爵は腰を上げて執務室を出ていった。肩を落としているその後ろ姿は気の毒に見えた。父親というのは大変だなあ。

なんにせよ、ギロー伯爵令嬢はもう警戒を解いて大丈夫だろう。

俺はそう判断し、ギロー邸を出た。


日はもう沈みかけていた。

残るはランベルト侯爵令嬢とデュボワ侯爵令嬢――しかも二人とも今夜王太子の寝室に忍び込むつもりだ。このまま野放してもおもしろいことになりそうだが、その場合給料が減ることは間違いないので、俺はまっすぐに宮殿へ向かった。








評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ