8. 懸念を消す名案(令嬢視点)
ガタンと馬車が揺れる。窓から見える王宮は暗闇に包まれており、どこか不気味に見えた。
「まるで妖怪の住む城だわ」
私が呟くと、目の前に座っているアンヌが吹き出した。
「そんなことを言うのはきっとお嬢様くらいですわ」
「そうかしら。みんな思っていても言わないだけよ、王太子のうさんくさい笑顔だって……」
「お嬢様! もう、間違っても宮殿ではそのような発言はお控えくださいませ」
「……わかっているわ」
今朝王太子は"何人連れてきてもかまわない"と言ったが、付き添いはアンヌだけにして、同伴したがっていた妹たちは置いてきた。
馬車は門を通り抜けると、城の入り口へ向かった。城周りにはところどころに松明が置かれていたがやはり暗い。兵士たちが巡回しているところだけ明るく見えた。
馬車を降りると、二人の侍従が待っていたように扉の前で迎え入れてくれた。前に突然宮殿に来たときは誰もいなくて、巡回の兵士を追いかけて王太子に取り次ぐよう頼んだけど、今夜はそんな必要はないわね。
城内に入ってから、侍従たちがなぜかおどおどしたように私の顔をちらちらと見てくるので、笑顔で「何か?」と聞いてみた。すると二人は揃って「い、いいえ、何も!」慌てたようにと言うと、「え、謁見の間はこちらでございます」と仕切り直したように咳払いをして案内してくれた。
一体何なのかしら、ずいぶん失礼ね。怒りが顔に出ていたのか、アンヌに「お嬢様」と窘められてしまった。
謁見の間に出た。アンヌは侍従たちと共に出口の方へ戻っていってしまった。ああ、私も王太子なんかの相手をせずに戻りたい。アンヌの背中を名残惜しく見送ってから、ようやく心を引き締めて前を向いた。
部屋の中央の玉座には、待ち構えていたように王太子が一人、長い脚を組んで座っていた。兵士たちも払っているようで、他には誰にもいない。
一体私に何の用があるのだろうか。
わざわざ今日の朝に約束を取り付けに来たのだ、何か重要なことなのかもしれない。しかも人払いをしている……となると、隣国の王女に関することかしら。
「来たな」
王太子がにやっと笑った。何かを企んでいるような顔だ。
私はすぐに踵を返して帰りたくなったが、礼節通り玉座の前で屈み込むようにしてお辞儀をした。
「殿下、モルドレッド子爵家長女レリア、お約束通り参りました」
王太子は腰を上げ椅子から降りると、私の目の前までやってきた。
「礼節は良い、立って顔を上げろ……やはり直接約束を取り付けたのがよかったな。これからお前に何か用事があるときはそうしよう」
冗談じゃないわ。
朝早くにあんな形でまた屋敷に来られてはこちらが困るのだ。私は顔を上げてにこりと笑みを向けた。
「とんでもございません。殿下にご足労いただくまでもありませんわ、文で十分でございます」
「文では今まで何度も断られてきたのだ、お前の言葉は信用ならぬ……まあ今日来てもらったのはそんなことをぐちぐち言うためではない、お前に会わせたい者がいるのだ」
会わせたい? 誰かしら。
王太子が「おい、下りてくるが良い」と誰かに呼びかけるように言うと、音を立てることなく黒い影が上から降ってきた。
目の前に立つ人物に、私は自分の息をのむ声を聞いた。
猫のような身のこなし、上から下まで黒い服、暗い色の髪、口元は布で覆われ、灰色の瞳がこちらを見ている。
「ジャン……ッ!」
声が震えた。二日前に別れを告げた人物が目の前に立ち、こちらを見下ろしている。
なぜ……なぜ彼がここに。
私はこちらを見つめてくる灰色の瞳に耐えきれず、潤みそうになる前に目を逸らして床を見た。
いけない、また泣いてしまう。昨日も一昨日も散々泣いたというのに、まだ枯れていなかったのだろうか。
「レリア」
急に彼に名前を呼ばれ、どきりとすると同時に鼻がつんと熱くなった。
ずるいわ、今までずっと私のことは"あんた"としか言わなかったのに、今になってそんな風に名前を呼ぶなんて。
私は床を見つめたまま懸命に息を吸った。
「宮殿に……来ていたのね」
やっとのことで出した声はやはり震えてしまう。しかしここは宮殿、しかも王太子の御前だ。しっかりするのよ、レリア。私はぐっと拳を握った。
「ここで採用されたのね……よかった。どうか無茶しないでお勤めしてください……私はこれで。殿下、失礼いたします」
玉座に向かって小さくお辞儀をすると、私は身を翻した。
「え、お、おい……」
王太子の声がしたが、私は足を止めなかった。ここにはいられない、いられないわ。またあの灰色の瞳を見たら今度こそ泣いてしまうもの。
しかし謁見の間の出口まで来たところで、すっと片方の手首を掴まれた。
「待ってくれ、レリア」
すぐ後ろでジャンの声がして肩が強張るのを感じた。
「話をさせてほしい……頼む。少しでもいい、時間をくれないか」
私は言葉を発することができなかった。胸と喉の痛みが再び蘇ってくる。
「頼む、レリア」
どうしてそんな言い方をするの。断れなくなるじゃない。
私は振り返らずに目を閉じて息を吸った。
「殿下」
声を張っているので、玉座にいる彼の方まで聞こえるはずだ。
「しばらく外していただけますか」
低い声を出してみると震えなかった。私の要求に、王太子は承諾してくれた。
「いいだろう。私は執務室にいる……だが、後で私もお前に話があるからな、まだ帰るでないぞ」
そう言うと、彼はカツカツという靴音を響かせて隣の部屋へ移動していった。
それからしばらく静寂が降りたが、いつまでも彼に背を向けたままでいるわけにもいかないので、私はやっとの思いですぐ後ろにいるジャンの方に向き直った。手首はまだ掴まれたままだが、目はどうしても合わせられなかった。
「話とはなに?」
彼を見ずに私が言うと、彼はその場で膝をついた。
灰色の瞳が突然視界に入る。驚いて後ずさろうとしたが、彼が手首を握っているのでそれはかなわなかった。
ジャンはもう片方の手で口元の覆いを取り、顔を見せた。そして私の目を見つめて言った。
「レリア、俺はあんたが好きだ。屋敷で手当てをしてもらったあのときから、俺はずっとあんたに惚れてる」
思いがけない告白に、一瞬息が止まった。ジャンの言葉がまるで暗号のように聞こえた。
「嘘」
思わず私が呟いたのに、彼は首を振った。
「嘘じゃない。一昨日あんたをあんな風に泣かせておいてどの口が言うんだと思うかもしれないけど、ほんとうなんだ」
「だ、だって」
私は唇が震えた。
「あのときは……だ、めって」
「言った、その通りだ……あんたの結婚の申し出を断ったのには理由がある」
理由? それはなに? どうしてそんなことを今更言い出すの。好きだと言うなら、どうして断ったりしたの。
私は声にすることができずに、嗚咽だけ漏らした。それを見たジャンは罪人が悔いるように悲痛そうな声を出した。
「レリア、泣かないでくれ。俺が原因だってわかってるけど……頼むから、そんな風に泣かないで」
私は鼻をすすった。我慢していたはずなのにいつのまにか溢れ出していた涙が止まらない。ふと視線の先にジャンが手に持っている黒い布きれが映った。あの布!
私は空いている手でその布を奪い取ると、それで涙を拭いた。
ジャンが「そっそれは」と言うのが聞こえたが、かまわずに布を顔に当てて涙を拭う。顔に当てた布は固くもなく柔らかくもなく涙を吸い取ってくれた。しばらくそうしていると、荒れていた気持ちが落ち着いてくるのを感じた。
泣いたりしちゃだめ。彼が話そうとしてくれているのだから、ちゃんと聞かなきゃ。
私は顔から布を離し、膝をついたままのジャンを見下ろした。
「……取り乱してごめんなさい。めそめそするのは私が一番嫌いなの、もう大丈夫……でもこの布はいただくわ」
ジャンはぽかんとこちらを見ていたが、はっと我に返ってから戸惑ったように頷いた。
大丈夫。もういつも通りだわ、ちゃんと目を見て話せる。私はそう自分に言い聞かせて「ジャン、立ってちょうだい……楽にして、話を聞かせて」と言った。
しかしジャンは私の手首は解放したが、「いや」と言って膝をついたまま立ち上がろうとはしなかった。
「このままがいいんだ、レリア。まず聞いてほしいのは……俺の故郷の話だ。俺の生まれはこの国じゃない。ここよりもっと北の、ワラーニャという寒くて冷たい国が俺の生まれたところだ」
まあ、そうだったの。知らなかったわ、街中に詳しかったから、てっきりこの国で生まれ育ったのかと思っていた。
ジャンは私を見上げるようにして続けた。
「俺は親を知らない。ものごころついたときから、国の存亡を担う間諜育成の組織に所属していた。俺はそこで完璧な間諜になるべく育てられた」
彼の猫のような身のこなしはそこで教育されていたのね。
「組織には心得があった。国のために生きることが第一で、責任を問われるような失敗をすれば死が待っていた。普通の人間のように自分本位に生きることは許されず、友人も恋人も親子関係すらも持ってはいけなかった。間諜は弱みを握られるような人間になってはいけない。組織にとってそういうものは煩わしいだけで、俺たちは国の駒の一つに過ぎない存在だった。間諜の仕事はそういうものだと俺は思っていた」
ジャンは淡々と語った。語りながら思い出しているその顔は、とても機械的なように感じた。
「……どうして国を出たの」
私がぽつりと訊くと、ジャンはわずかに目を細めた。瞳の中に小さく光が見える。
「仕事に失敗した。俺が握った情報は、俺が知ってはいけないものだった。だから俺は抹殺されることになったんだ」
抹殺! 私が顔を引きつらせたのを見て、ジャンは口元に小さな笑みを浮かべた。
「でも俺の仕事ぶりを気に入ってくれていた上司が、俺を死なせるのを惜しいと言って……誰にもわからないように逃してくれた。俺は自分が死ぬのは仕方ないと思ってたんだけど、その人は俺に他の国で別の人生を歩めと言ってくれたんだ。替えの死体も用意してあったのには驚いた」
か、替えの死体。私は背筋がぞくっとするのを感じた。ジャンはほんとうに死と隣り合わせの日々を送っていたのだ。
「それで、俺は国から離れた。故郷では死んだ身になっているからできるだけ遠くが良かった。結局辿り着いたのがこの国レスダンで……仕事はなるべく国の政に関わらない人物を選んだ。その方が安心だと思ったから」
だから私と会ったときはギロー伯爵家の娘に雇われていたのね。
ジャンはそこまで言ってから「それで……話を戻すけど」と一瞬目線を下げてからまたこちらを見た。
「俺が……レリアとの結婚を拒んだのは、俺にはそんな資格はないと思ったからだ。生まれたときから俺は駒として生きてきたから、友人を作るとか、誰かと家族になるとか……正直なところ最近まで考えたことがなかった。そんな存在を作るつもりもなかった。親しい人間を作れば、俺がもし失敗したときにその人も危ない目にあうかもしれない、それが嫌なんだ……俺は、あんたにはそんなことを気にせずに幸せに生きてほしい。普通の女として、平和で幸せな人生を歩んでもらいたいんだ。それが俺の願いだ」
私は胸がいっぱいになった。ジャンは私を嫌いで結婚の申し出を断ったんじゃない、私の身を案じてくれていたからだったのね。
「これを聞いてどう思う? 俺の妻になるより、町のパン屋か花屋の妻になった方がよっぽど平和だと思わないか」
目の前に膝をついてこちらを見上げているジャンは、やっぱり優しい目をしていた。
言わなきゃ、私の気持ちをちゃんと伝えなければ、このまま話が流れてしまう。
「私は」
息を吸って、震えないように意識しながら声を出した。
「私はこの平和なレスダンで育ったから、あなたの言う危険がどれほどのものかはわからない。きっと想像もつかないのかもしれないわ。秘密を知っただけで抹殺だなんて、聞いただけで恐ろしいと思う……でもね」
私はジャンの片手を取った。彼の手が強張ったのがわかったが、私はそれを両手で握り締めた。
「あなたはその世界を脱してきたのでしょう。あなたは新しい人生を歩むためにこの国に来たのでしょう? それならあなたのそばにいさせてほしいの。私を心配してくれているのならなおのことよ。仕事で弱みを握られるような人間になってはいけないというのなら、私は……あなたの強みになってみせる。どうしたら良いのかまだわからないけど、でも本気よ。前に言ったわよね、普通の男として私と町を歩きたいって。あなたが国の駒なんかじゃなくただの普通の男として幸せになる、その横に私は居たい。他の人じゃだめなの、だってもう……こんなにあなたを愛しているんだもの」
ジャンは私の言葉を聞くと、くしゃりと顔を歪めた。
「どうすればいいかよく考えるわ。良い案が浮かんだときでいい、あなたの心配がなくなったとき、私をあなたの妻にしてほしい……それが私の心からの願い」
私は自分でも驚くほどはっきりそう言えた。今まで築いてきた大事なものを全て投げ出してもいい、自分を好いてくれている彼とどうしても離れたくなかった。
ジャンは私の顔を見ていられなかったようで、下を向いてしまった。
「……ありがとう、レリア」
俯いたままだが、彼の小さな声が聞こえた。それはどこか吹っ切れたような、憂いの消えたような声だった。この前のように"ごめん"と謝るのではなかったことに、私は少なからずほっとした。
しかしそのとき、突然「やはり子爵令嬢の決意は固いものであったな、ジャン」と声がした。そして隣の部屋から靴音を響かせて王太子が再び姿を現した。まあ、なんなのこの男。私たちの話を盗み聞きしていたのかしら。
王太子はカツカツと私とジャンの目の前まで来ると仁王立ちになった。その様子にジャンはようやく立ち上がり、王太子の方へ向き直る。
私が不満げな顔にならないように抑えているのに気づいたらしく、王太子は笑い声を上げた。
「邪魔されたからってそう怒るな。お前にはまだ私から話があると言ったであろう」
……そうだった。それに、ジャンとこうして面と向かって会うことができたのは王太子のおかげだった。それには感謝しなくてはならないのだろう。
王太子が言った。
「レリア嬢。実はな、私はジャンの懸念を消す、ある手段を考えついたのだ。話をしたところ、ジャンもそれならと頷いた。あとはお前の返事次第だ」
なんですって? 私は目を見開いてジャンを見た。
ジャンは少し申し訳なさそうに頭に手をやった。
「レリアがもし良ければ、だ。あんたが決めてほしい。もちろん嫌なら嫌だと言ってくれ」
ジャンの優しい言葉に私は小さく笑みを浮かべたが、目の前の王太子の顔はにやにやとしており、なんだか嫌な予感がした。一体何を考えているのだろう。しかしジャンの心配がなくなるなら、悪いことではないのかもしれない。彼がいるのだから、誰かと無理に婚姻を結ばされるなどという突飛な話でもなさそうだ。
「よければお聞かせください、殿下」
覚悟を決めると、王太子は歯を見せて笑った。
「お前を宮殿の侍女に召し抱える。もちろん私付きだ」
「……っ」
ぐっと声に詰まったが、悲鳴を上げなかった自分を褒め称えたい。
この男はなんと言ったの? 私を侍女にするですって?
王太子は得意げに語り出した。
「良い案であろう、私が考えたのだ。私付きの侍女であれば、絶対に被害が及ぶことはないと言い切れる。なぜなら私の周りには武勇に優れた護衛たちが常にいるのだからな。城の中もジャンほど優れた隠密でない限り侵入できまい……なんだそのひどい顔は」
私ははっとして歪んだ顔に手をやった。
「し、失礼しました……ですがあまりにも恐ろし、いえ、おぞましいお話でしたので」
「……言い換えた意味があるのかどうかはこの際聞かないとして、実際のところ悪い話でもなかろう? 子爵家の娘が宮廷に仕えるのもおかしいことではない」
確かに王太子の言う通り、下級貴族の娘たちが侍女として宮殿で働くことはよくあることだった。
「ですが、それは行儀見習いのため。彼女たちは上級貴族に嫁ぐことを目的としております。私にそんなつもりは毛頭ありません。子爵家はいずれ出ようと思っておりますし……」
「わかっておる。だから侍女として宮殿に来るのと同時に、ジャンと婚姻を結ぶが良い」
突然結婚の話になって、私は口をつぐんだ。王太子は続ける。
「お前の望みはジャンとの結婚だろう。ジャンの望みはお前の身の安全だ……考えてもみろ、町の片隅の小さな家で、暮らしに慣れないお前一人が夜遅くまで夫の帰りを待っているという状況を、この男が望んでいると思うか? ここはそういった面で安全であるし、ジャンも私に報告に来るたびにお前の姿を見ることができる」
王太子の言うことは最もだった。ジャンがこの宮殿に仕えているのだから、私も宮殿に入れば頻繁に彼と会える……それは考えただけで胸が躍りそうな提案だった。
ただし、この目の前にいる爽やかな笑顔が憎たらしい腹黒王太子専属の侍女として仕えることになるのだ。
私が顔を引きつらせて考えていると、隣にいたジャンが「レリア」と呼びかけた。彼は私の方を向いて気遣うような目で言った。
「これは殿下の提案であって、命令じゃない。働くことになるレリア自身が決めることだ。それに……言うなと口止めされていたが、一昨日の夜あんたの義母上に言われたことがある。宮殿の兵士や殿下じゃなく、俺自身があんたを守れなきゃ間諜をやる資格なんかないって。ほんとうにその通りだって思った」
私は今朝の義母のわけを知ったような口調を思い出した。
お義母様は私が塞ぎ込んでいるのを見て、単身で宮殿に来たんだわ。そして私の代わりに王太子やジャンと話をしてくれたのね。
ジャンは少し遠慮がちな声になって続けた。
「ただ……殿下の言っているように俺は仕事の間はずっと家を空けることになるから、その、仕事先の宮殿にあんたがいてくれたら、俺は……」
「ねえジャン」
私は彼の灰色の瞳を見つめた。
「私が宮殿の侍女になると決めたら、ジャンは私を妻にしてくれる? 半年で耐えられなくなって侍女を辞めるかもしれないってわかっていても、それでも結婚してくれるかしら」
無責任でわがままな問いかけに聞こえるが、私にとっては重要な問題だ。
ジャンは口元に優しい笑みを浮かべると、なんと私の頬にそっと手を触れてくれた。そして言った。
「結婚しよう。レリアが宮殿の侍女を辞めることになったら、そうだな、俺もここの間諜を辞める」
ジャンの言葉を聞くと、一斉に辺りに花が咲き乱れたような、春を迎えたような感覚になった。頬が紅潮するのを感じる。
頬に当てられた彼の手に自分の手を重ねて笑った。
「ふふっ、嬉しい!」
彼の固く優しい温かい手に、心の中が幸せで満たされていく。
しかし、王太子の咳払いで現実に戻された。ジャンも我に返ったように私から身を離し、慌てたように片膝を床について頭を下げる。
王太子はいらいらとした口調で言った。
「なにが、ふふ、嬉しいだ。宮廷に仕える仕事は大変名誉なことで、普通なら泣いてありがたがる職なのだぞ。それをお前たちときたらなんだ、簡単に辞めるなどと、全く……!」
爽やかな笑顔で売っているあの王太子が仏頂面を浮かべているようだ。これはめずらしい、よく眺めておこう。
「なにをにやにやと見ているのだ!」
とうとう王太子がわめき出してしまった。いけない、御前だったわね。
私はドレスの裾を持ってかしこまって頭を下げた。それでも口の端が上がるのは抑えられない。
「殿下、光栄なお話をありがとうございます。謹んでお受けしたく存じます」
「ふん、今更礼節など寒気がするわ……それよりもお前たち、私の元で仕えるからにはそれ相応の仕事をしてもらうからな、覚悟しておけ」
王太子は意地悪い声で言うと身を翻して執務室の方へ歩き始めたが、途中で足を止め「それから」と続けた。
「式の日取りが決まったら教えろ。私も目立たぬよう変装して参加させてもらう」
王太子の声に、私とジャンは思わず顔を見合わせた。
「ええ、もちろんでございます殿下」
「ありがとうございます」
それから私はジャンに伴われて城の出口へと向かった。
出口付近にいた侍従は、謁見の間から出てきた私の姿が目に入ると馬車を呼びに行った。
アンヌが「お嬢様!」と心配そうに駆け寄ってくる。
「長かったですね。大丈夫でしたか? お身体に障りがあったら……」
「大丈夫よ、アンヌ。心配してくれてありがとう」
私が微笑むと、アンヌは驚いたように私の顔をまじまじと見た。
「なんだかお嬢様、表情が晴れましたね。一体何が……はっ」
アンヌは私の後ろにジャンがいたことに今気づいたようだった。全身黒づくめなのだから、燭台だけの薄暗いところでは確かに気づきにくいだろう。
ジャンは小さくアンヌに向かって頭を下げてから、私に言った。
「俺は今日は町に帰るけど、殿下が俺に部屋を用意してくれたみたいだから、明日からはここに住むことにする……そのうちあんたの屋敷に行くよ、その、天井からじゃなくて、玄関からちゃんと」
私は笑い声を上げた。
「そうね、楽しみにしてる。私も準備に取りかからなきゃ……ありがとう、ジャン」
そこへガラガラと馬車が現れた。侍従が扉を開ける。
「俺の方こそ……それじゃまた」
ジャンが私を馬車へ導こうとしたが、私は「あ、待って」と声を上げた。
そしてめいいっぱい背伸びをすると、彼の頬に唇を押し当てた。
もう結婚の約束をしたのだから、これくらいは許してほしいわ。
「さっきお借りしたあの布、思い出にいただいてしまおうと思っていたけど、ちゃんと洗って返すわね。やっぱりあなたに持っていてほしいから。それじゃ」
私はそう言うと、こちらを見て口をあんぐり開けているアンヌに「さあ、帰りましょう」と声をかけて馬車に乗り込んだ。
馬車が出発した。私は窓からちらりと外を見る。そこには侍従二人が城の中へ入っていく後ろ姿と、こちらにぼんやりと視線を向けているジャンが目に入った。私は嬉しくて笑みを浮かべると、窓から少し身を乗り出して手を振った。
「おやすみなさい、ジャン!」
馬車が城壁に近づくにつれて、彼の姿は暗闇に紛れて見えなくなっていったが、私の心にはもう前のような悲しみはなかった。
馬車の席に座りなおすと、向かいに座るアンヌが驚いたような顔でこちらを見ているようだった。
そうね、ここまで付き添ってくれたアンヌにはわけを話さなければならないだろう。彼女だけじゃなく家族のみんなにも話さなきゃ……お義母様にも笑顔でお話できる。宮殿に勤めることになったと言ったら、ルイーズもオデットも別の意味でそれぞれ大騒ぎになるでしょうね。あの王太子に誠心誠意仕えるのはしゃくだが、しかし彼には感謝しなければ。あの人のおかげでジャンと再び会うことができたのだから。
私は幸せを噛みしめながら、手にした黒い布をぎゅっと握った。
おしまい
最後までお読みいただきありがとうございました。