6. 悲しい夕焼け(令嬢視点)
「わ、私……私、あなたの花嫁になりたいの」
とうとう言ってしまった。
自分の顔が熱い。向かいに座るジャンが目を丸くしてこちらを見ている。
私は手前に置いてある空のカップを見つめながら言葉を紡いだ。
「あなたと一緒に過ごす時間がほんとうに愛おしくて……もう会えなくなると聞いたとき、とてもショックだったの。どうしたらいいのかずっと考えて……これしかないと思ったの」
ちらと顔を上げると、ジャンはまだ驚いた表情でこちらを見ていた。
私は膝の上の拳をぎゅっと握り、小さく頭を下げた。
「お願い、私をあなたの妻にしてください」
手は震えているが、声は大丈夫だったので意志は伝わっただろう。
父や義母にも話した。今日はそれもあって付き添いをつけずにしてもらっている。王太子にも信用を得るために、彼の妻になりたいと思っていることを話した。なにも問題なく彼の妻になるために、外堀を埋めるような形になってしまったが、これしか方法はなかった。あとは彼次第である。
ジャンは考えをめぐらせていたのか、しばらく沈黙したままだった。
恥ずかしげに目を逸らすことも、嬉しそうに笑うこともない。それどころか困ったような、つらそうな表情で、彼は「ごめん」と言った。
「あんたを妻に迎えることはできない……できないんだ」
胸を鷲掴みにされたような衝撃が走った。急に首を締めつけられているかのように息苦しくなる。
彼は続けた。
「一緒にいられるのは今日一日だけだ。明日からは、もう会わない」
「で、でも、あなたも……少しでも一緒にいられたらって……」
自然と唇が震えてきた。だめ、思うように口が開かない。
ジャンは言った。
「もちろんそう願ってはいた、でもだめだ。悪いがあんたと結婚するなんてことはできない。それに……約束は今日一日だけだったはずだ」
はっきりとそう言われ、目に涙が浮かんでくるのを感じた。そうだ、そういう約束だった。
「そう、よね。一日……一日だけだわ」
私は何を期待していたのかしら。急に自分が恥ずかしくなってくる。喉が痛い。ああいけない、鼻水まで出てきた。私は慌てて鞄からハンカチを取り出して顔に当てる。こんなところで泣くなんてだめ。我慢するのよ、レリア。
できるだけ大きく息を吸うと、気合いで涙を止めた。ハンカチをぎゅっと握り顔を上げる。
「ごめんなさい、余計なことを言ったわね。どうか気にしないで……ほんとうにごめんなさい」
意識して明るい声を出した。
「俺こそ……すまない」
ジャンは相変わらずつらそうな表情でこちらを見ている。空はきれいに晴れているが、まるで突然曇に覆われてしまったような雰囲気だ。私が余計なことを言わなければこんなことにはならなかったのに。
私は勢いよく立ち上がった。
「さあ、もう行きましょう! 貴重な一日を満喫しなきゃ。いろんなお店に行ってみたいわ」
大丈夫、いつも通り。そうよ、もうこれきり会えないというのなら、忘れられない一日にする。
ジャンは私が急にそう言って立ち上がっても、不満を言うことなく「そうしよう」と柔らかく微笑んだ。
優しい笑顔ね……目に焼きつけておかなきゃ。そう思うと、自然と自分の顔にも笑みが浮かんでいた。
それから、ジャンと私は街中を歩いた。花売りから花を買い、古道具屋を覗き、本屋を見て、庶民向けの宝飾店に入った。
宝飾店には屋敷の化粧台や宝石箱に入れているような豪勢な物はなかったが、石やガラス玉、お守りのような見たことのない物が並んでいた。
ジャンに何かを贈りたかったが、きっと彼はそんな物は望まないだろう。
ふとモスグレーの小さな石が目に入った。ムーンストーンだ。彼の灰色の瞳と同じような色で、心からほしいと思った。でもこんなのを買ってしまったらきっと見るたびに泣いてしまうかもしれない。
私は振り切って他の商品に目を移し、妹二人へのみやげとなるような物を買った。
宝飾店を出て広場に行くと、人形劇がやっていた。
見物人は子供たちだけでなく大人も大勢いるようで、役者がおもしろおかしい声を上げると、皆声を上げて一斉に笑った。
「こんなの初めて見たわ!」
私の言葉に、ジャンも「俺もだ」と笑いながら言った。
「こんなにおかしいとは思わなかった。初めてこんなに笑ったかもしれない」
私もよ。あなたの笑った顔も見ることができて嬉しいわ。浮かんだ言葉を私は飲み込んだ。
人形劇が閉幕する頃には、日が傾き始めていた。別れが近づいている。
ジャンが言った。
「ゆ、夕焼けがきれいに見えるところがある。そこにいかないか」
私はそう言われただけで胸がいっぱいになり、「ええ」とだけ言って頷いた。
町の高台になっているところに、小さな丘があった。丘には野の花が咲き乱れ、それらが夕日で橙色に染まっていた。
高台から見える夕日は町の屋根や周辺の山々を照らし、空は澄んだ青から同じ橙色になっていく彩りがあまりにも美しかった。
私はただ立ちすくんで、その景色を見つめた。
「……きれいね」
隣に立つジャンも頷いた。
「気がむしゃくしゃしたときとか、仕事がうまくいかなかったときはここに来る」
ジャンが夕日を見ながらそう言った。私は彼の横顔を見てから再び夕日に目を移した。
ほんとうに泣きたくなるくらいきれい。ここでこうして彼と夕日を見れただけでも幸せだわ……そうよ、一生忘れないわ。
夕日が沈んだ後はとうとう帰路に着いた。街の大通りは相変わらず賑やかで、ジャンは私に壁側を歩かせてくれた。ただ朝のように周りの様子は全く目に入らず、ただ隣を歩いている人物の存在を噛み締めていた。
屋敷の門の前に来ると、私は彼の方に向き直った。
「今日はありがとう。とても楽しかったわ」
泣いてはだめ。私はしっかりと背筋を伸ばし、まっすぐに彼を見て笑みを浮かべた。
ジャンは優しい目で私を見下ろしていた。
「俺も楽しかった……その、レリアのおかげで普通の男みたいに過ごせた。今日のことは一生忘れない……ありがとう」
そんな言い方やめて。もう会えないなんて言わないで。お願い、一度でいいから抱きしめて。次々と頭に浮かぶ言葉を飲み込むと、私は言った。
「危険な仕事ばかり引き受けてはだめよ。元気でね」
「……レリアも元気で。幸せになってくれ」
彼の突き放すような祝福の言葉に私は笑みを浮かべると、踵を返して屋敷の玄関に向かって歩き出した。
しばらく歩いてから一度振り返ってみる。
もう門のところに人影はなかった。
私は突然溢れ出てくる涙を抑えながら、駆け出した。屋敷の玄関には入らず、誰もいない庭園の方へ回ると、すみの影にあるベンチに身を投げるようにして泣き崩れた。
彼が私の幸せを願ってくれていることが、ただひたすらに悲しかった。
奢っていたのだわ、彼が私を好きだと思うなんて。そんなに何度も会って話したわけでもないのに、妻にしてくれだなんて、何を言い出すのだろうと思われたに違いない。貴族でないのだから、結婚なんて突然言われても困るに決まっているじゃない。いろいろ手回しをした自分が恥ずかしくて、みじめで、消えてしまいたかった。
しかしそれでも彼を好きになってしまった心はなかなか変えられそうもなく、はり裂けそうだった。
ただひたすらに泣くことしかできなかった。
その後はどうやって自分の部屋に戻ったか、よく覚えていない。
翌日私は自分の部屋のベッドで目を覚ました。いつのまにか私は着替えも済ませていたようだ。カーテンの隙間から見える光は眩しく、もうとっくに朝が過ぎているのかとぼんやりと思った。
ガチャリと扉が開いて、メイドのアンヌが桶とタオルを持って入ってきた。
「お目覚めですか」
「アンヌ……おはよう」
どうしよう、たくさん泣いてしまったからきっと目が腫れているわ。
顔を隠そうとベッド深く潜り込もうとしたが、アンヌは桶のお湯にタオルを浸して絞った。
「さあ、目に当てますよ。しばらくすれば腫れも引きますわ」
まあ、彼女には知られてしまっていたのね。
「……ありがとう、アンヌ」
「とんでもございません」
アンヌが目元に置いてくれたタオルはじんわりと温かく、心もほぐれていくように感じた。
「大丈夫ですか、お嬢様」
視界が真っ暗なまま、小さな声でアンヌに尋ねられた。優しい声色だ。
「ええ……大丈夫。でも、できることならあと一年はあなた以外誰とも会いたくないわね」
私の言葉にアンヌはくすりと苦笑いを漏らした。
「それは難しいかと。ルイーズ様とオデット様が朝の食卓で騒いでおられました。奥様に説き伏せられて、やっと今さっきお出かけになられたところです」
それは……困った。彼女たちになんと話そう。町で買ったみやげも渡せていない。
思案していると、アンヌが「ご心配ありません」と続けた。
「奥様がお二人に、レリア様にわけを訊いてはなりませんときつく話しておられました。それにお嬢様にはお好きなだけゆっくりとお休みしていただくよう言いつかっております」
お義母様……察してくださっているのだわ。
孤児院には付き人なしで行きたいと言う話をしたとき、お父様は苦い顔をしたが、お義母様は「まあいいじゃない」と快く送り出してくださった。
『あそこへはもう何度も行ってもらっているし、危険なことには手を出さないと分別もつくでしょう。その代わり、十分気をつけるのよ』
分別。ついていなかったのかもしれない。ジャンはとても良い方なのに、私はその優しさに甘えてしまっていた。
いけない、彼のことを思い出すとまた目が熱くなってしまう。
でも、お義母様にはきちんとお話ししなければ……悲しい話になるけど、きっとゆっくり聞いてくださるはず。
その日は部屋に閉じこもった。アンヌが食欲のない私に食べやすいものを運んできてくれたので、私は他の誰とも会わず穏やかに一日を過ごした。
翌日になるといくらか気分が楽だった。
目の腫れもすっかり引いたので、身支度をして朝食のために階下に下りる。
すると、食堂の前に思いもかけない人物が立っていたーーこの国レスダンの王太子だ。後ろに付き人や護衛の剣士まで連れている。
頭か目がおかしくなったのだろうか。私は回れ右をして階段を上がろうとした。
「待て、レリア殿」
呼びかけられてぎくりとした。
ほ、本物だ。
さっき「おはよう」と挨拶したアンヌったら何も教えてくれなかったじゃないの!
しかし呼び止められた以上、このまま無視して部屋に戻るわけにはいかない。
私は深呼吸すると再び彼に向き直り、礼節の姿勢を取った。
「これは殿下。こんなに朝も早いうちから、このような狭い屋敷にようこそいらっしゃいました。お会いできて光栄でございま……」
「気持ちの入っていない挨拶は良い。それに突然の訪問はお互い様であろう」
先日約束もなしに王宮に出向き謁見を申し出たことを言っているのだろう。ぐうの音も出ない。
私が黙っていると、王太子が言った。
「ここに来たのはただ命令を下すためだ。今日の夜、我が宮殿に参るがいい。付き添いはいくらいてもかまわんが代理を立てるのは許さん、お前が直接参上するのだ」
私は眉を寄せたくなるのを抑えた。
「承知いたしました……ですが、そのことを伝えにわざわざ殿下自らいらしたのですか?」
「何を言う。手紙や伝言にすれば、お前のことだからきっと臥せっているふりをして王宮に来ないであろう。お前には前科が多い」
心当たりはありすぎた。今まで王妃や王太子の主催する宮殿の茶会はほとんど欠席している。理由は当然、他の貴族の令嬢たちともめごとを起こしたくなかったからである。身分や顔のことでとやかく言われるのが嫌なんだもの。
「まあだからこそ、先日の訪問には驚いたがな」
王太子のつぶやきに、胸がずきりと痛むのを感じた。
「殿下、そのことなのですが、その、申し訳ないことに……」
「いや、何も言うな」
王太子が遮った。
「何も考えずに王宮へ来い。これは命令だぞ」
彼は白い歯を見せて貴族の令嬢が悲鳴を上げそうな爽やかな笑みを浮かべると、「いいか、必ず来るのだ」と言葉を残して身を翻し、付き人をずらずら引き連れて屋敷を出ていった。馬車の音が小さくなるまで、私は屋敷のロビーにたたずんでいた。
やれやれ、命令一つに大所帯ね。
「レリアお姉様! いったいどういうことなの」
オデットが興奮したように駆け寄ってくる。どうやら食堂から様子を伺っていたらしい。
「あれは本物の王太子殿下よね!? 何しに来たの、王太子様はお姉様と仲が良かったの? ねえどうなの!」
オデットの質問攻めに、私が「そんなつもりは……」と口を開こうとすると、後からやってきたルイーズが「お姉様」と怒ったように言った。
「あんな尊大な態度でお姉様に指図するなんて信じられない! 王宮なんか行くことないわ」
二番目の姉の言葉にオデットが目をむいた。
「何言ってるのよ、ルイーズ! 命令って言っていたじゃない」
「命令ですって? 良いご身分だわ、自分は命令するだけしてお姉様の言葉は遮っていたじゃない。何様かしら」
「王太子様よ、ルイーズ」
彼女にそう言ったのは、食堂から出てきた義母であった。その存在に私は気持ちがふっと穏やかになるのを感じた。
「二人とも、そんなにまくし立ててはレリアが困ってしまうじゃない。とにかく食卓につきなさい」
妹たちは「「はあい」」と声をそろえ、同じように不満げに食堂に戻っていく。
それを見送ると、義母はこちらを向いて「レリア」と気づかわしげな視線をよこした。
「今日はもう大丈夫なの?」
「はい、ご心配をおかけしました。お義母様にはお礼を言いたかったのです。それに、お話ししなければならないことがあります……」
私がそう言ったのに、義母は首を振った。
「いいえ、私はできることをしただけ。それに、話を聞くのにはまだ早いのかもしれないわ。今夜王宮に行くのでしょう?」
「ええ……でもそれは」
義母は私の肩に手を置いて言った。
「ねえレリア。今日はまだあなたからお話を聞くつもりはないの。酷なことを言っているように聞こえるけど、でもあなたの味方であることは真実だからどうか信じて」
「お義母様……?」
いつになくまじめな顔で言う義母に私は目を瞬かせた。
どうしたのかしら、お義母様が改めてこんな風に言うなんて。まだ話を聞くつもりはないだなんて、何かを見透かした言い方だわ。まるですべてをわかっているような……。
義母は私が「わかりました」と頷くのを見ると、いつもの笑顔に戻った。
「それじゃ、食堂に行きましょう。まずは腹ごしらえよ。戦に出る前には何か食べなきゃ」
「……お義母様はこれから戦地にでも行かれるのですか」
「あら、行くのはあなたじゃない。宮殿はいつもどこかで戦争しているような場所よ。それに、今日はきっと約束の時間までルイーズもオデットもあなたを放さないわ」
義母がくすりと笑ったのに、私は苦笑いを浮かべた。