5. 隣を歩く(間諜視点)
緊張で心臓が口から飛び出しそうなんて言葉はたとえにすぎないと思っていたが、今俺はまさにそんな状態だった。
今日は約束の火曜日。錆びついた懐中時計を取り出して、今が朝の九時すぎであることを確認する。
約束の時間までもうあと一時間ほどだ。
あれから約一週間、あまりちゃんと眠れていなかった。だから当日寝坊してしまうのではと心配で心配で仕方なかったので、モルドレッド邸の門の前にある木の上で野宿した。朝は少し冷えるが、真冬でもないので風邪を引くことはない。結果、昨晩が一番ぐっすり眠れたので、先週からそうしておけばよかったと今更気づいた。
太陽はすっかり高くのぼっている。レリアは支度をしているのだろうか。彼女に限ってまさかごてごてしたドレスで来ることはないだろう。俺は町娘風の彼女を想像しようとして、だめだと頭を振った。彼女は外見を他人からとやかく言われることが嫌いなのだ。それを忘れてはならない。
もちろん、今日のために俺も自分の服装を考えた。仕事柄全身黒の服しか持っていなかったので、ジャケットだけ灰色の物を買った。それだけじゃない、俺は今朝目覚めたときから口元の布はジャケットのポケットに仕舞っている。落ち着かないが、妥協はできない。
俺は今日だけは普通の男になるんだ。
そのとき屋敷の塀の方でガサガサと誰かが動く音がして、俺は息を潜めた。木の上から葉に隠れて様子を伺う。
あれは……なんだ、庭師か。
庭師のローラン。確かもうじき六十五を迎えるが、腕は衰えることなく、今でもその技術は現役だ。この前の誕生日会の庭園の手入れも見事だったな。
俺は彼が庭いじりをしているのをぼんやり眺めた。
「おや、これはレリアお嬢様」
突然老人が口をきいたのに、俺は驚いて枝から落ちそうになった。
も、もう来たのか!?
見ると、ほんとうに彼女が邸から出てきたようだった。空色のシンプルなワンピースに身を包み、小さな鞄を持っている。服装はあの舞踏会のときよりずっと地味だが、それでもやはり彼女の美しさはあのときと比べてなんら劣っていない……そこまで考えて俺はだめだだめだと頭を振った。
「おはようローラン」
レリアの透き通るような声が聞こえる。
「実は今日孤児院に花を持っていってあげたいの。突然だけど何本かいただけるかしら」
庭師は「えーえ、いいですとも。少しお待ちなさい」と言うと、その辺の花壇から選び出しあっという間に豪華な花束を作ってしまった。
レリアは嬉しそうに「まあ、素敵。ありがとう!」と受け取る。そしてとうとう門の前に出てきた。
俺は懐中時計を懐から出して時刻を見た。さっきからまだ十五分も経っていない。
この後も彼女は花の他に何か用意するつもりなのだろうか。しかしそんな様子は見られず、彼女はただじっと門のそばに立っているばかりだ。
待っているんだ……俺を。
その事実に顔がかっと熱くなるのを感じた。
俺はそれから数分木の上から彼女を見ていたが、やがて「よし」と気合を入れると、ひゅんと飛び下りた。
突然目の前に俺が現れたので、レリアはびっくりしたように後ろに数歩後ずさった。
「……驚いた! あなた、どこでも上から登場するのね!」
俺はそうだったかなと頭をかく。
レリアはふふと笑った後、「おはようジャン」と笑顔で言った。
「お、おはよう」
彼女と朝の挨拶が交わせるなんて。俺は心の中で感動しながらも疑問に思ったことを言った。
「その、早いんだな。まだ十時になってないけど」
そう言うと、レリアは少し顔を赤くした。
「早起きして準備したら、時間が余っちゃったの。屋敷の中で時間を待つより、ここであなたを待っていた方がいいと思って出てきちゃった……ジャンも早いのね」
「俺は……」
昨日の晩から、という言葉は飲み込んだ。
レリアは俺が口籠ったのを気にせず「さあ、行きましょう!」と歩き出す。
俺も慌てて彼女の後を追った。
レリアと二人で並んで町を歩くという俺の願いは約束の時間よりも早く叶った。誰かに見られていないか、とか隠れたほうがいいんじゃないかっていう不安は一ミリも感じない。それどころか、緊張でほとんど彼女以外見えない。
「晴れてよかった。雨の日だと行くのが大変ですもの」
彼女が嬉しそうに空を見上げて言った。上を見上げると、たしかに今日は青空だ。天気なんか全然気にしていなかった。
「雨の日でも、孤児院に行くことがあるのか」
「ええ、毎月行くことになっているの。モルドレッド家が資金を出している孤児院だから、定期的に見回るのよ。たとえば院長が資金を横領していないかとか、子どもたちがいじめられていないかとか。今の院長に限って、そんなことは考えられないけど」
ふうん、貴族ってそういうこともしていたのか。俺は感心しながら彼女の話を聞いていたが、ふと彼女が例の花束を持っていることに気づいた。
あれって重いのかな。
「その……花束は、お、俺が持とうか」
するとレリアは驚いたような表情を浮かべてからにっこりと微笑んだ。うわ。
「ありがとう。でも大丈夫よ、私が持ちたいから」
俺は「そ、そうか」と言ってただ前を向いて歩いた。
だめだ、あの笑顔を直視すると緊張が増す。手汗が滴ってきたらどうしよう。ただでさえ、一緒に歩いているということで頭がいっぱいなのに。
「今日のジャンは」
レリアがこちらを向いたまま言った。
「口元を隠していないのね」
俺は一瞬だけ彼女を見たが、すぐに前を向いた。
「その、今日くらいは普通の男になりたかったから……」
しかしレリアに指摘されて布で覆っていないことがなんだか恥ずかしくなって、上着のポケットからいつもの布を取り出す。
「もし変だったらいつでも隠す」
「や、やめて! ごめんなさい、余計なことを言ったわね。隠していないことが嬉しかったのよ」
レリアが慌てて止めるので、布はまたポケットにしまった。顔を明かしているのは落ち着かないが、彼女が嬉しいならいいか。
夜であればいつも庭のように街中を闊歩しているが、太陽が高い時間帯に変装もせずに出歩くなんて初めてだった。しばらく歩いているうちに緊張が少しずつほぐれてきて、周りの景色も目に入るようになってくる。
大通りは朝から賑やかだった。牛乳売りが家々を回って瓶の回収をしていたり、新聞売りの少年が街角で声を張り上げたりしているのを、レリアは興味深そうに目で追っていた。前の方からガラガラと音を立てて馬車がやって来る。
ええと、こういうときは確か壁側に女性を寄せた方がいいんだっけ……。俺はするりと道側へ移動して馬車が通り過ぎるのを歩きながら見た。そのときはっとした。
馬車! もしかして、いやもしかしなくても絶対そうだ!
「きょ、今日は、その、馬車に乗らなくてよかったのか!? いつもは乗ってるんだろ」
俺が突然声を上げたのに、彼女はきょとんとした。
「ええ、いつも馬車移動よ」
ああ、やっちまった。なんで早く気づかなかったんだろう、貴族は自分の足で歩かないなんて常識じゃないか。
だがレリアは俺のしおれた顔を見て続けた。
「でも今日はジャンと一緒に町を歩くって約束でしょう。ジャンが普通の男なら、私だって普通の女よ。もともと乗るつもりはなかったわ」
そ、そうか。言われてみれば、確かに町を一緒に歩くという約束だ。
「それに歩いていると町のいろんな様子が知れて楽しいわ。馬車なんかに乗っていたらいつまでも知らないままだったもの」
レリアは楽しそうに辺りを見回した。
ああ、いかん。彼女の周りがどうにもきらきらして見えてきた。いくら地味な恰好をしているとはいえ彼女の所作から溢れ出ている気品は消えない。
「だが……あんたが町を歩くのは危険だ」
俺がそう言うと、レリアはふふっと笑った。
「あなたがいるじゃない」
それはそうだけど。
そういえば馬車もそうだが、貴族の令嬢であればいつもなら屋敷の外に出るときは侍女や付き人がいるのではなかっただろうか。ギロー伯爵令嬢はいつも振り回している侍女が四人もいた。レリアは誰も連れていないのか。俺がいるからと断ってくれたのだろうか。
そんなことを考えているうちに、とうとう孤児院に着いた。
孤児院ではちょうど子どもたちが洗濯したシーツを干しているところだった。
「あっレリア様だ!」
「レリア様!」
「うわあい」
「きれいな花束!」
わらわら駆け寄ってきた子供たちに、彼女はたちまち囲まれた。
孤児院というから皆ぼろをまとっているのかと思いきや、子どもたちが着ている衣服はどこも破れていないように見える。モルドレッド家がきちんと援助金を出している証拠だろう。
レリアが「みんな、元気だった?」「ごめんね、今日は遊べないの」「あら、リリア、素敵な髪型ね」などと笑顔で声をかけているのを、俺は少し離れたところから見守る。やはり彼らからは好かれているのだな。
そのうち建物の中から子どもたちに引っ張られて一人の女性が出てきた。灰色の髪にスカーフを巻いた初老の女性だ。おそらく彼女がこの孤児院の院長だろう。彼女がレリアの方へ歩み寄るのに子どもたちが道を開けた。
「レリア様、本日はよくいらしてくださいました」
「こんにちは、院長様。お風邪の方はもう大丈夫なのですか?」
「おかげさまでこの通りですわ。この子たちがいるのにいつまでも寝てなんかいられませんもの……まあ、素敵なお花」
院長がそう言ったのに、少し年長の少年が「俺、花瓶に生けてきます」とレリアの持ってきた花束を持って院の中へ入っていった。それに「私も」「俺も」とついていく子どももいる。それでもレリアを囲む子どもは大勢いた。
「ほらほら皆さん、レリア様と私は大事なお話がありますからね、通してちょうだい。シーツも全部干してしまわないと乾きませんよ」
院長が子どもたちに呼びかけると、彼らは「はあい」と素直にばらばらと散っていく。
ふと院長が俺に視線を向けた。そしてにっこりと微笑みを浮かべた。俺は辺りをきょろきょろと見回して、微笑みを向けられた人物が俺の他に誰もいないことを確認すると、小さく頭を下げた。
院長がレリアに小声で話しかけた。俺のことだ。それに対してレリアはなにか答えている。「ジャンと言います」という言葉だけ聞こえた。そのうちレリアがこちらに駆け寄ってきた。
「帳簿を受け取りに院の中の事務室へ行くの。院長様がお茶を出すとおっしゃっているわ。あなたも来てくださる?」
え、俺も?
「い、いや、でも俺は……」
ここで待っているつもりだと言う前にレリアに手を引かれて、俺は事務室の真ん中で院長の出した茶をおとなしく飲むことになった。院長は俺を見て「こんにちは、ジャン様」と挨拶してくれたが、俺は声を出すことができず、先ほどと同じように頭を下げただけになってしまった。やっぱり人と面と向かって話すのには慣れない。
隣では、院長が見せた書類にレリアが目を通している。「ここで空いている予算をみんなの衣服に費やせないかしら」「いいえ、この予算は食費になりました。最近ポールの年頃の子たちがたくさん食べるようになって畑を……」など真面目な話だ。
俺はぐるりと事務所内を見回した。殺風景な部屋だが、椅子も机も傷んでおらず、温かみのある空間のように感じた。院長本人の人柄かもしれない。と、窓の外からこそこそと誰かが話す声が聞こえた。
誰だ。
俺は神経を尖らせたが、子どもたちだとわかるとすぐにその緊張を解いた。
耳をすませなくても、「誰だよあいつ」「見たことない」「怖い目つき」「ジャンって呼んでた」「なんで院長先生はお茶出してるの」などと聞こえる。どうやら俺の事らしい。そりゃ俺は部外者だからな。
「くぉら、お前たち! こんなところで何やってる!」
突然窓の外から怒声が聞こえた。年長者の少年の声だ。すぐにきゃあきゃあどたばたと逃げ回る声とともに、彼らが窓辺から去っていったのかわかった。その様子を院長とレリアも見ていたようで顔を見合わせてくすくす笑った。それから院長に「それじゃあ、父に話しておきます。今月はそれで」と言い、レリアは立ち上がった。
終わったようだ。俺もお茶のカップを置いて慌てて立ち上がる。
「お待たせ、ジャン。いきましょう」
孤児院の門のところまで、子どもたちと院長が見送ってくれた。
「レリア様、本日はわざわざお出向きいただいてありがとうございました」
院長が言うと、レリアは彼女の手を取った。
「お元気で……次は妹が来るかもしれません」
妹? ルイーズだろうか。
院長はレリアの言葉に目を細めた。
「そうですか……それもまた楽しみです。レリア様もどうかお元気で」
それから院長は俺の方を見てまたにっこり微笑んだので、また小さく頭を下げた。
子どもたちがわあわあ叫んで見送ってくれている。
「レリア様!」「またねレリア様!」「また来てね」という声が飛び交い、レリアは嬉しそうに手を振った。そんな彼女をぼうっと見つめていたが、後ろから「ジャンもまた来てね!」という声まで聞こえて転びそうになった。
孤児院を後にして、俺とレリアは町に向かって歩き出した。
もう昼を過ぎているようだった。
「お腹がすいたわね」
レリアが言った。
「どこかお昼ご飯を食べられるお店はご存知?」
昼飯! そうか、普通の人間は昼に何か食べるんだった……!
「あ、ある」
嘘だ、どこだよ。
必死に脳裏に焼き付いている街中の店々を思い浮かべるが、行きつけの酒場はあれど、こんな真っ昼間から空いている食堂など知らない。
「ほんとう? ではそこにしましょう」
レリアが嬉しそうに言った。まずい、もう引き下がれない。どうするんだ、俺。
とにかく歩くしかない。
それからしばらくの間、ぐるぐる考えながら歩いていたが、レリアが突然「あっ、ねえ待って」と立ち止まった。
彼女の視線の先には、二階建ての建物があった。装飾がかった大きな柱、薄みがかった黄色の壁に、丸いガラスの並ぶしゃれたつくりになっている。二階の広いテラス席には若い男女たちが向かい合って座りお茶を飲んでいるのが見えた。
こんな店あったっけ。疑問に思ったが、そういえば建設中の敷地があったことを思い出した。そうか、気づかなかったがここだったな。しばらく町へ行かない間に開店していたらしい。
「ここに行きたいわ、ジャン! ねえお願い!」
レリアが目をきらきらさせて言った。
店に入ると、若い女の給仕が寄ってきた。レリアがテラス席を希望すると二階へ案内され、先ほど表から見えた席に座った。
日差しが降り注いでいるのを、レリアは嬉しそうに仰ぐ。俺も真似をしようとしたが眩しすぎたのですぐに下を向いた。
店には酒もあるようだったが気分ではないので断り、冷えたレモネードを頼んだ。レリアは紅茶にするつもりだったようだが、「わ、私もそれを」と俺に合わせた。
しばらくすると注文したレモネードと一緒に葉物やピクルス、ハムなどを挟んだサンドが運ばれてきた。
「おいしい! レモネードってこんな味がするのね、初めてだわ」
レリアが嬉しそうに飲んでいるのを見ているだけで、俺は幸せな気持ちになれる。それからむしゃむしゃとサンドを食べ始めた。
まさかまた二人で食事ができるとは夢にも思わなかった。
こうして一緒にいると、初めに会ったときと比べてレリアのことをよく知れたなあとしみじみ思う。
妹の誕生日会の時も、この前の舞踏会でも、先ほどの孤児院でも、彼女は大人びているように見えた。決して感情的にならず、いつも落ち着いていて、誰にでも気配りができ、令嬢らしくそっと微笑む。
だが、向かい合って話してみると少し印象が違った。思ったことをはっきり言うし、感情も顔に出す。逃げようとしたときに手首を掴まれたこともあった。笑い方だって、宮殿のホールで見たときとは違う、肩を震わせて花がいくつも咲いたように笑うのだ。
令嬢らしくいる彼女も素敵だが、本音を言ってくれる彼女はもっと魅力的だ。
俺はこの幸せを噛みしめながら脳裏と胸に焼きつけようと思った。今日一日だけで、これからも頑張ろうと思える……そうだ、たとえ今後彼女に会えなくとも、今日のことを糧にしていく。そのために先週は一世一代の頼みを告白したのだ。
皿が空になり、店員が下げていった。そのときレリアが今度こそ紅茶を注文し「俺も」と言った。
昼飯を食べ終わったレリアは少し真面目な顔になって「ジャン、あのね」と言った。緊張しているのか、少し目が泳いでいる。どうしたのだろう。
「は、話があるの、とても大事なことが三つ」
大事なこと? 孤児院のことだろうか。それともまたギロー伯爵令嬢の件?
「まず一つ目はあなたのお仕事のこと」
レリアは俺に目を合わせて言った。
「私が勝手にやったことだから、嫌だったり、もうすでに決まっていたら断ってちょうだい……実はあなたを間諜としてぜひ雇いたいと言ってくださっている方を見つけたの」
俺を雇いたい? まだ売り込みもしていないのに、誰だ。
思い当たる人物が全くおらず、首を傾げていると、レリアは言った。
「名をアクセル・リンドレット・オジェ・レスダンーーこの国の王太子よ」
俺は一瞬思考が停止した。なんだって?
「お、おお、王太子っ!?」
思わず大声を上げてしまい、はっとして口を塞いだ。
「な、なんで王太子が」
ありえない。だって彼にはすでに何人か専属の隠密がいるはずだ。それも情報担当や暗殺担当など分野に長けた者がそれぞれついていると聞いている。俺なんか入る余地もないはずだ。
「その……私が推薦したの」
混乱していると、レリアがとんでもないことを言った。
「推薦!? 俺を?」
「あなたがギロー伯爵令嬢から解雇されたのは私が原因でもあったから、何かできることはないかと考えたの」
「そんなこと……」
気に病む必要なんかなかったのに。しかしいくらなんでも王太子とは。一体どうやって彼を納得させたんだ。俺の知る限り今の王太子は賢いし用心深い。滅多に人を信用しないことで有名だ。
「そんなことなんかじゃないわ、大事なことよ。それで、私は王宮に行って、その……王太子の弱みにつけ込んだの」
レリアは言いにくそうに下を向いた。
王太子の弱みだって?
「彼には妃に迎えたい方が決まっているでしょう、それで……彼女の間諜にいかがですかって」
「彼女って……隣国の王女?」
レリアは小さく頷いた。嘘だろ、そんな大胆なことをしたのか、いつも冷静沈着な行動しかしないこの彼女が。
「やっぱり王太子は彼女に本気だったわ。勘違いじゃなかったの。彼女が輿入れに来る前の間は、王太子の元で仕事をするのはどうかという話になったわ。彼もそれには快く承諾してくれた。まずは自分が信用できるかあなたを見極めたいと言っていたから」
「信じられない」
彼が快く承諾? あの王太子だぞ。
「一体何を言って納得させた? 弱みにつけ込んだって言っても、彼は子爵令嬢のあんたをどうにでもできる力を持っているだろう」
レリアは頷いた。
「ええ、そう。王太子も最初は私の提案を聞いて怪しんでいた。"何を企んでいる?"って怖い声で訊かれたわ。下級貴族の私が国家権力を使って何におさまろうとしているのかって。それと私が推薦したあなたのことも」
そりゃそうだ。しかも内々でしか知られていない自分の惚れた相手を人質に取られているようなものだからな。当然何者かと身構えるだろう。
そのとき、給仕の女が紅茶を運んできたので、一旦会話が中断した。
女が去ると、レリアがポットから二つのカップに中身を注いだ。俺は「ありがとう」と言って彼女がいれてくれた茶を飲む。
それからレリアは一口飲んでからカップを置いて続きを話し始めた。
「彼には私の望みを打ち明けたの。私が何を望んでいるのか」
レリアの望み?
彼女はまた少し緊張したような顔になった。
「これが二つ目の話になるわ。実はね、私は……子爵令嬢の位を捨てて、平民になろうと思っているの」
なんだって!? 俺は思わず身を乗り出した。
「平民になる!? なんでだ……自分の生まれを気にしているのか?」
どんな生まれだって、彼女の家は貴族だ。それ相応の教育だって受けてきたはずだ。貴族の位を捨てる必要なんかどこにもない。
レリアは言った。
「それもちょっとあるけど。もちろん今すぐにって話じゃないわ。いつか……時が来たらよ。これはもうずっと前から決めていたことなの。社交界の噂を聞いたことがあるのなら知っているはずよ。モルドレッド子爵家を継ぐのは私じゃない、妹二人のどちらか。それは私の願いでもあるの、いつか貴族でもなんでもない平民の方と結婚するつもりだった……パン屋か花屋なんて考えていたわ」
「パン屋か花屋ってそんな……で、でもあんたは両親に愛されてるじゃないか!」
あの子爵が彼女を追い出したいなんて思うわけがない。今の子爵夫人だって、彼女とほんとうの母娘のようじゃないか。両親だけじゃない、あの舞踏会のときだって大勢の人間に囲まれていた。
レリアは笑みを浮かべた。
「ええ、ありがたいことにね。だからこそわがままを聞いてもらえたの。そのときが来るまでは子爵令嬢としてふるまい、貴族としての役割をそつなくこなすことって言われているけど」
レリアはもう自分の考えを改めるつもりはないようだった。
そんな……舞踏会の花のような存在の彼女が、ただの平民になることを望んでいるなんて。きっと社交界は騒然となるだろう。それにあの姉が大好きな妹たちが悲鳴を上げるに違いない。
母親の身分から肩身が狭いと感じていたのだろうか……そんな視線を退けるほどに、彼女は貴族としての志の高さがあるように感じていたが。
もちろん彼女には彼女なりの考えがあるのだろう。だが先ほどの話だと、パン屋か花屋に当てがあるわけでもなさそうだ。今すぐに平民に下るつもりでもなければ、王太子にその話をする理由がわからない。第一にだ。
「それであの王太子を説得できたわけじゃないだろ。あんたが平民になるからと言って、王太子が俺を雇ってくれる理由にはならない。他に何か言ったのか……それが三つ目の話?」
俺の疑問に、レリアは頷くと同時に何か言いかけて、下を向いた。言いにくい事柄なのだろうか。
しばらく沈黙していた彼女は、テーブルに目をやると飲みかけていたカップを一気に飲み干した。
そしてまっすぐこちらに視線をよこした。
「わ、私……私、あなたの花嫁になりたいの」