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4. 思いがけない申し出(令嬢視点)


脚が痛い。

昼食の席に着いてから、私は痛みを逃がそうと足首を回した。

昨夜久しぶりに踊ったせいだわ、それも三回も。

仕方ない、取り巻きを失ったギロー伯爵令嬢と話をしたくなかったからだ。


宮殿の舞踏会には、黄色い花だけでなくドレスから髪飾り、手袋、靴まで替えを用意して馬車に乗せた。伯爵家の娘と対峙した場合、何をされるかわからなかったからだ。もしかしたらドレスを破られたり、飲み物をかけられたりする可能性だってあるものね。

しかし到着してみると、予想外のことが起きていた。何があったのかわからないが、ギロー家の娘がびしょ濡れになって震えていた。しかもいつも彼女の周りにいる友人たちは同情することなく宮殿の中へ逃げてしまったようだった。

私もそのまま彼女を遠巻きに見ている招待客たちに混じって、さっさと宮殿に入ってしまうこともできたーーそうしなかったなんて、私もやっぱりお人好しなのかしら。

彼女が私を嫌い、悪口を振りまいていることも知っていたが、今日対決しようと思っていた彼女のあのような状態を前にして、毒気が抜かれたのかもしれない。それでも礼節を忘れなかったのは、作法を見せることで彼女自身に身分相応の礼儀が身についていないことを自覚させたかったからだ。

その効果があったのか話していくうちに彼女の高飛車な態度は薄れていったが、王子への挨拶が終わってからも、なぜドレス一式を持っていたのかとしつこく訊いてくるので答えに困った。

ダンスに誘われるのに感謝するなんて、あのときが生まれて初めてだわ……おかげで筋肉痛だけど。




「お嬢様、ギロー伯爵家からお届け物です」


妹二人との昼食を食べ終わる頃、メイドのネリーが大きな箱を食堂まで持ってきた。


「なあにそれ!」


隣に座っていたオデットがわくわくした声で言った。


「昨日お貸ししたドレスだと思うわ。ネリー、部屋まで持っていってくれる?」


私の言葉にネリーが「承知しました」と言って引き上げるのを見送ると、オデットが興味ありげな顔をこちらに向けていた。


「レリアお姉様、ギロー伯爵家の方にドレスをお貸しになったの? もしかしてあのジョゼフィーヌ様に?」


私は妹の言い方に小さく笑った。


「そうよ、"あの"ジョゼフィーヌ様にね」


私が答える前に、向かいに座っていたルイーズが口を挟んだ。目を細め、頬杖をついてこちらを見ている。いかにも不満げね。


「お姉様ったらお人好しにもほどがあるわ。あの人がお姉様の悪口を言っていることくらい知っているでしょう」


ルイーズの言葉に、私は笑みを浮かべて言った。


「ええ、でももうきっと言わないわ。あの方も今回のことでじゅうぶん懲りたはずだもの」


「えぇーなになに!? 何があったの?」


二人の姉の会話にオデットはおもしろそうに身を乗り出したが、私は「なんでもないのよ」と首を振る。


「ただギロー伯爵令嬢のドレスが濡れてしまったから私がお貸ししただけ。ほら、お義母様だって困っている人には親切にといつも言われているでしょう」


「今までの罰が当たったのよ」


ルイーズがぼそりと言った。

私は「ルイーズ」と少したしなめるような視線を向ける。しかしルイーズは不満げに口をとがらせている。十六歳とは言え、子どもっぽいところはまだ抜けないわね。


「困っている人にだけじゃない、お姉様はいつも遠慮するわ。お姉様だって子爵家の人間、貴族なのよ。その自覚は誰よりあるというのに、貴族の心得も知らない連中に馬鹿にされるなんて我慢ならない、見てられないわ」


「まあまあ、ルイーズったら。言わせておけばいいのよ。そういう人だって、いつかは自分の間違いに気づくんだから。ルイーズ、ただ誇り高くあるだけじゃなく、いろんな目線で見ていかなくてはいけないわ。貴族のご令嬢みんなが、私たちみたいに平和なお家に生まれたわけじゃないのよ」


ルイーズはむうっとした表情を浮かべていたが、やがて言った。


「わかっているわ……でも私は、お姉様にはもっと自分の好きなように生きてほしいの」


私は自然と笑みが浮かんだ。優しい子。


「ありがとう、ルイーズ。それなら、今回の件はお父様とお義母様には内緒にしてね」


二人の神経がすり減ってしまっては困るもの。

ルイーズは不満そうに「いつもそう、いつもそうなんだわ、お姉様は!」とぶうぶう言いながら席を立ち、食堂を出ていってしまった。オデットはなぜ彼女が出て行ってしまったのか理解できずにきょとんとした顔をしている。


「ルイーズっていつも怒ってるね」


オデットが呟いた。


「とっても優しいからよ」


私がそう答えると、食堂の外の廊下の方から「ああーっ! もう!」と本人が怒りの声を上げているのが聞こえてくる。私は込み上げてくる笑いを飲み込むと、もう一人の妹の方を向いた。


「さあ、オデット。今日はお父様とお義母様がお帰りになる日よ。準備はできた?」


オデットはそう言われてはっとした表情を浮かべた。


「あっ忘れてた! いろいろ見せる物があるの、詩も作ったのよ」


「それなら、読む練習もしなきゃね」


オデットは「ええ、あとでドレスを選ぶのも手伝ってね!」と微笑んで椅子から飛び下りるとパタパタと食堂を出ていった。


そう、今日は父と義母が北の領地から戻ってくる日だ。

本来ならば、両親ともに昨夜の舞踏会に参加するはずだった。しかし数日前、領地から領主と村人の間でいざこざが起きたとの知らせが入った。予算の改ざんや無断の税収などであれば向かうのは父一人だけでよかったが、知らせの内容はどうも男女のもつれで女性同士がもめているらしかったので、義母も同行したのである。

一昨日義母から届いた手紙では、問題は解決したが帰りが宮殿の舞踏会に間に合わないこと、代わりに王子への挨拶を頼むということが書いてあった。

お父様とお義母様は、めんどうそうな問題をどう解決したのかしら。気になるけど幼いオデットのいる手前、食事のときには話題にできないわよね。




夕刻、両親が帰ってきた。

遠目には二人ともずいぶん疲れた表情をしているようだったが、私たちの姿が目に入るとすぐに笑顔を浮かべた。


「おかえりなさい、お父様、お母様!」


オデットが嬉しそうに駆け寄って二人に抱き着く。両親は荷物をネリーたちに預けると、出迎えた私たちに順番にキスをしてくれた。


「ただいま、オデット……ルイーズ、レリア。ああ、あなたたちの顔を見ると心からほっとするわ」


「変わりはなかったかい?」


私も笑顔で答える。


「ええ、こちらは問題ありませんでした……お疲れでしょう。もうお食事の準備ができています」


ルイーズが父の手を引っ張った。


「今日の夕食は私とレリアお姉様がアンヌたちと一緒に作ったのよ、特にスープがおいしいんだから。はやく!」


「それにねそれにね、私は詩を作ったの! あとで読むから聞いてね」


二人の娘に引っ張られて、父親は転びそうになりながら「わ、わかったわかった」と、屋敷の中へ入っていく。


その様子がおかしくて、義母と顔を見合わせてくすりと笑った。


「領地の問題は大丈夫でしたか」


歩きながら義母に問うと、彼女は少し眉尻を下げた。


「もう泣くわ叫ぶわの大騒ぎ。領主に娘がいたのを覚えている?」


「ええ、確か……ドロテーア様でしたか」


私が言うと、義母は「そう」と力強く頷いた。


「彼女が農民たちの結婚を邪魔していたのよ、百姓の息子に横恋慕して。もちろん彼は花嫁と愛し合っているから、なんとか彼女を説得して、農民たちの結婚も済ませて帰ってきたの」


「それは……」


苦心しただろう。どおりで二人とも疲れた顔をしているわけだ。義母は続けた。


「説得するのにも骨が折れたわ。"私の愛の方が花嫁の想いよりも強いんだから"の一点張り。結局、不本意だけど、身分の違いを理由に諦めさせたの……とても心苦しかった」


義母は悲しそうに言った。


義母――モルドレッド子爵夫人――ジゼルは、元は侯爵家の出だったが、相手を病で亡くしすぐに未亡人になった。そしてまだ母と死別したばかりの父と恋に落ちたのだと聞いている。

互いに寡どうしとはいえ、侯爵家と子爵家だ。大きな身分の差にいざこざがあったことはいうまでもない。しかしそれでも二人は乗り越えてきたのである。


「今回は特別だけど、身分違いだから諦めなさいなんて、もう二度と言いたくないわ。時代錯誤な言い回しだもの。大昔みたいに貴族がたくさんいるわけじゃないのに」


憤慨したように言う義母に、私はくすりと笑った。

お義母様のこういうところが大好きだわ。

初めて会ったとき、さすがは侯爵家出身だと思えるほど美しい所作と言葉、そして貴族としての意識に幼心ながら圧倒されたが、彼女の心は広大な領地のように広く豊かであった。素晴らしい人が義母になってくれたと今でも思う。それに、彼女は私の意志をなにより尊重してくれている。


私は自分が子爵家を継ぎたくない、ゆくゆくは平民として生きていきたいとまじめに考えていることを父や義母に話していた。義母は、私が社交界で苦しんでいることをきちんとわかっていた。

亡くなったほんとうの母が平民であることは、血統を重んじる多くの貴族からは嘲笑の的だった。ましてや妹たちの母親が侯爵家の出であるとすれば尚更だ。父も義母も、それに妹たちまでもがそんな社交界から私を守ってくれていたが、やはり貴族として生きる未来は私にはないと感じていた。

社交界の様子に詳しい義母は身分に苦しむ私の気持ちをよく理解してくれているのである。


「……やっかいな問題があっても、お義母様のお心が変わらないまま健全で、私は安心です」


「まあレリアったら。嬉しいことを言ってくれるわね」


義母と微笑み合うと、私たちは食堂へ向かった。


その夜は久しぶりに夕食を家族で楽しんだ。ルイーズからスープの説明を受け、父と母から旅先での話を聞き(もちろん仕事内容はなしで)、私が舞踏会での王子の様子を話し、オデットが自作の詩を読んだ。

ルイーズは私がギロー伯爵令嬢との事を話さないことに不満げだったが、その後私がいろんな男性に声をかけられてダンスをしたことを嬉々として話していた。その後母に「あなたはどうだったの、ルイーズ」と聞かれて、それきり押し黙ってしまったが。

ルイーズは頭が良い。貴族女性が学ぶ以外の学問にも関心を持ち、貪欲に学んでいる。それは社交界でも有名で、実は昨日の舞踏会でもその噂に興味を示した若輩たちがからかおうと近づいてきたが、彼女は古代語で彼らをやり込めてしまった。しかしそんな話をすると、母はおもしろがって聞くが、父の方は心底心配するとわかっているから、ルイーズは何も言わないのである。


夕食後、私はもう寝るわと言って自室へ上がった。オデットはもう部屋へ戻ったが、ルイーズはまだ両親と話をしている。余計なことを言わないといいけど。

部屋に戻り、燭台に火を灯すと、テーブルの上に置いた上質なカードを手に取った。昼間ギロー伯爵家から届いた荷物には、ドレスの一式と一緒にこのカードが入っていたのだ。


”先日はドレスを貸してくださってありがとう。それからこれまでのことはごめんなさい  ジョゼフィーヌ”


内容はいたって単純なものだったが、彼女の精一杯の謝罪なのだろう。薄情な友人に逃げられて、これからの社交界で彼女がどのような人間と関係を築いていくのかわからないが、きっと今までよりは友人の心に敏感になるだろう。そうなったらあの人にわがまま娘なんて言われなくなるかもしれないわね。

そんな風に思った矢先、上から小さな咳払いが聞こえた。はっとして上を見上げる。


「ジャン?」


天井は暗くてよく見えない。


「いるの?」


私は暗闇に呼びかけ、じっと天井の方を見つめていたが、しばらくすると「いる」と小さな声で返事が返ってきた。

ジャンの声だわ!

嬉しくなって「よかった」と安堵の声が漏れた。

いつも彼が来るであろう時間――夕食時である――よりだいぶ遅い時刻なので、まさか彼が来てくれるとは思わなかった。


「下りてきてくださらない? ね、お願い」


長い沈黙の後、前のときと同じように音もなく黒い影が目の前に降ってきた。あいかわらず身軽だ。口元を隠し、目だけ光って見えるのが、よけいに猫を思わせる。

私はにこっと笑みを浮かべて彼を歓迎した。


「来てくださってありがとう。会えて嬉しいわ」


ジャンはいつものように目を泳がせていたが、小さく頷いた。


「あの娘から……ドレスは返してもらったのか」


「あら、私が彼女に貸したこと知っていたの?」


「影から見てた……全部。その、気になったから」


全部! さすが優秀な密偵ね。ではずっと見守ってくれていたのだわ。

あのとき自分の心が少しささくれだっていたのを思い出して、少し恥ずかしくなった。


「ドレスは今日、伯爵家から届けられたわ。謝罪の言葉が書かれたカードもあったの。きっともう彼女は私に意地悪はしないと思うわ」


ジャンは私の話を聞くと、「そうか」と言って下を向いた。なんだか元気がないようだ。どうしたのかしら。


「ジャン、なにかあったの?」


彼は「いや……」と小さく言った。そんな様子から私はなんとなく察した。きっと何か大事なことを言いにきたのだわ。こんなに言いづらそうにしているということは、とんでもないことが起きたのかもしれない。

彼はためらっていたが、ぎゅっと拳を握ってこちらを向いた。


「今日俺は、あんたに頼みがあってきた……嫌なら断ってほしい。その前にまず俺の話をきいてくれ」


頼み? 深刻な目をしているのはそれだろうか。

ジャンは大きく息を吸って言った。


「もうあんたはわかっていると思うが、俺はギロー伯爵の娘ジョゼフィーヌに雇われた間諜だ。情報を探り、雇い主に提供するのが俺の仕事だ」


私が頷いたのを見ると、ジャンは続けた。


「だけど今日、俺はクビになった」


なんですって?


「解雇されたの!?」


そんな……ジャンと会っていることを彼女に知られたというのかしら?


「まさか私が着替えなんて用意したから……」


「いや、それは関係ない。理由はたぶん、取り巻きの女たちに裏切られたのがよほどショックだったんだ。今回の件で他人の情報を探ることは良くないって気づいたんだろ。探ったところで良い関係を築けるかはわからないし……いずれにせよ、俺は近いうちに雇い主を替えようとは思っていたから、クビの件は別にいいんだ。金も十分もらったし」


あの舞踏会の騒ぎは、令嬢にとって大きな転換点だったらしい。しかしまさか解雇するなんて。

ジャンは続けた。


「まあ働き口はいつでも見つかる。自分を売り込むことだってできる。ただ……あの伯爵令嬢の命令があんたの情報を探ることだったから、ここに来ることができた。他の人間に雇われたら、もうあんたとはこうして会えなくなる。会う理由が……ない」


会えなくなる?

突然ジャンの言葉が鋭くとがった刃物のように感じた。知らずのうちに胸がきりきり痛みだした。思わず下を向くーーいや顔を上げてはいられなかった。


そうだわ、あの暇な伯爵令嬢に雇われていたから彼はここに来ることができた。私が彼女に嫌われたままだったら、彼とはずっとこうして会うことができたかもしれないのに……いいえ、だめだわ、それでは彼が危ない橋を渡っているだけ。

今だって、私の家族に知られてしまうかもしれないという危険をおかして会いに来てくれているのだから。でも、それならどうしたらいいの。

彼を間諜としてこの家で雇うのはどうか。

お父様に頼んだらどうにかして雇ってくれるかも……いや、誠実な父はそうした裏工作をすることは望まないだろう。陰謀が渦巻く王族や、権力のある公職を狙う高位の貴族ならともかく、末端貴族の我が家が間諜など雇ってももてあますだけだ。

私が俯きながら考えをめぐらせているところで、ジャンが「その、それで」と咳ばらいをした。


「だから……というか、その、さっき言った頼みっていうのは……」


ジャンは一度両手で顔を覆い、息を吐いてからまた拳を握って言った。


「さ、最後に、あ、あ、あんたの一日を……お、俺にくれないか」


ジャンは私に目を合わせようとこちらをちらちら見ながら続けた。


「一日、たった一日でいい……その、間諜じゃなくてただの一人の男として、普通の男みたいに、あんたと町を歩けたらって思って……その、別にあんたが美人だから見せびらかしたいとかそういうんじゃなくて……いやそれもないとは言えないけど……いや、違うんだ! 俺はただ純粋にあんたが好きで、少しでも一緒にいられたらって思ってる。も、もちろんあんたは子爵家の娘だし、俺がこの前の舞踏会にいたような連中にはなれないって、もちろんわかってるけど、その、だから、一日だけでもって、その……」


まるで懇願するかのような感情的な声だった。こんなにまとまりのない口説き文句は初めてだ。

ジャンはずっと言葉を紡いでいたが、ふと私の驚いた視線に気づいて口を閉ざした。目が合ったまましばしの沈黙が流れたが、その後灰色の瞳を揺らすと、「ごめん」と下を向いた。そして来たときと同じような力のない声で言った。


「……魔が差した。あんたとは良い関係のまま別れたかったのに、気分を害して悪かった。その……何も言わずに忘れてくれ」


忘れてくれですって?


「嫌よ、忘れないわ! あんな風に言われてなかったことになんてできるわけないでしょう」


私が思わず言ったのに、ジャンはすまなそうな、つらそうな表情を浮かべて下を向いたまま顔を上げようしなかった。

私は彼と目を合わせようと、普段よりも一歩近づいた。


「聞いて。来週の火曜日の昼前にちょうど北町の孤児院を訪問する予定なの。そこへ一緒に行ってくれないかしら。その後はあなたの行きたいところへ行きましょう」


ジャンは私の目をまっすぐに見つめて話を聞いていたが、「えっ……?」と理解できていないような声を上げた。


「来週の火曜日。あなた何かご予定はあって?」


「い、いや」


「それじゃ、朝の十時にお屋敷の門の前に来ることはできる?」


「で、できる」


「よかった、決まりね」


約束し終えると、私はほっとして立ち上がった。ジャンはぽかんとしたままだ。穴があくほどに見つめられるというのはこれね。

しばらくして理解したのかジャンが口をパクパクさせながらやっと声を出した。


「え、その……つまり、今度の火曜日……出かけてくれるってこと? 一緒に?」


「ええ、そうよ。忘れないでね」


ジャンはこくこくと頷くと後ろに後ずさり、「そ、それじゃ、また」と言って飛び上がり、天井の闇に消えた。

その後は、いつもならばわずかな音さえしないのに、こちらが心配するほどにバタンバタンと何度も何かが倒れるような音がした。大丈夫かしら。しばらくするとその音もなくなって、再び部屋はしんと静まり返った。

結局、私が無理矢理約束してしまったような形になってしまったわね。彼が明日になって忘れてしまった、なんてことになっていないといいけど。


先ほどジャンが必死になって会う約束を取りつけようとしていた様子を思い出して、今更ながら頬が熱くなるのを感じた。

バルコニーの扉を開け、入ってきた風を仰ぐ。少し冷えた夜風がすっと髪の毛の間を通っていった。

「まるで花のような方だ」「息をのむほど美しい」「女神のようだ」「美しいあなたのおそばにいることがなによりの幸せ」。数々の貴公子から誉め文句をもらったが、それらがまるで空虚な穴だらけの箱のように感じる。

ジャンの言葉ほど不器用で、それでいて情熱的で心に響くものはなかった。こんな気持ちは初めてだわ。

来週のことを思うと自然と笑みが浮かぶ。嬉しい。まさか彼と二人で町を歩くことができるなんて。どうか晴れますように。

幸せな気持ちになった後、冷たい風に寒さを感じ、ふと我に返った。一日を一緒に過ごして……その後は? 彼はもう会えないと言ったわ、会う理由がないと。

私は彼の今の現状に思いを馳せた。


今日解雇されたと言っていた。わがままいっぱいに育った伯爵令嬢の突然の決断だ。ジャンは働き口はすぐに見つかると言っていたが、大丈夫なのだろうか。

貴族令嬢としてある程度のことは学んできたつもりだったが、間諜の仕事はさっぱりだった。

何か……何かできることはないかしら。

それに、彼とまた会えるようにするにはどうしたらいいのか……それも彼が危険をおかさずにだ。


私は夜風にあたりながら考えに考えて、今までずっと避けてきたある人物の姿が思い浮かび、そして決断した。




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