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2. 置き手紙(令嬢視点)


カサリという音に、私は足元を見下ろした。何か踏んだかしら。


階下でいつものように家族と夕食を食べ、湯あみを終えて、寝る支度をしに部屋に入ったところだ。

落ちていたのは紙切れだった。拾い上げて燭台の灯りのあるテーブルに近づけてみると、中には見慣れない文字が書いてあった。


"来週に開かれるギロー伯爵令嬢の茶会には行くな。毒を盛られる危険がある。何か理由をつけて断れ"


何よこれ……!

内容に驚いて思わず身がすくみ、辺りを見回した。もちろん部屋には誰もおらず、しんとしている。バルコニーに通じる扉も窓も、最後に部屋を出たときと同じようにきっちり閉められている。

筆跡は初めて見るものだから、この家の者ではない。知らない誰かがここに置いていったのだ。

その紙の裏面や端など細かく見たが、差出人の名前はなかった。

もう一度文面を見てみる。


"ギロー伯爵令嬢の茶会には行くな"


これは警告だわ。茶会には行くなと、私に危険を知らせてくれているのだわ。


確かに彼女からの茶会の招待状が、今日人目を避けるようにして届けられた。

送り主、ジョゼフィーヌ・ド・ギロー伯爵令嬢。気位が高く、絵に描いたようなわがまま娘だ。彼女からはなぜか初対面から嫌われていた。

彼女のように容姿を見てくすくす笑うようなタイプは私も苦手だったので、関わらないように極力避けてきた。

だから今日、彼女からの招待状が届いて、どういう風の吹き回しかと不思議に思っていたが……毒とは。結局そういうことだったのね。


招待状には王太子が来るとまで書いてあった。公務に忙しいのだから、おそらく彼が来るのは不可能だろう。

それとも王太子が来ると言えば私が行くと思ったのかしら。


そういえばこの前の誕生日会で、妹の友人からこっそり訊かれたことがあった。


『レリア様が王太子妃候補に上げられるというのはほんとうですの?』


最初に聞いたときは耳を疑った。いくら噂だからといって、そんな突拍子もないことが人々の口に囁かれているなんて。

そのときは「万に一つもありませんわ」という返事をして済ませた。ギロー伯爵令嬢の反感を買ったのはおそらくこの噂が原因だろう。


それにしても噂も大概だけど、そんな噂を本気にしているなんてギロー伯爵令嬢も相当考えなしだわ。王太子とは二言三言話したことはあるけど、子爵の娘の私が妃になれるわけないじゃない。そもそもそんな教育は受けていないのだから。

我が国レスダンにおいて、王太子妃、ゆくゆくは王妃になる人物は、生まれたときから他とは育てられ方が違う。貴族女性が学ぶ教養に加えて政治に経済、語学、修辞学などあらゆる知識を身につけた、王族になるべくしてなる方なのだ。

第一に今の王太子は国内の貴族ではなく、諸外国の王女との婚姻を結ぶことになるだろう。

最近彼は視察にかこつけて隣国イザークに出向いていると聞いているけど、あれは絶対に第一王女を口説きにいっているのに違いないわ。前に宮殿に彼女がいらしたとき、王太子はつきっきりだったもの。

とはいえ、隣国の王女は心根の立派な方だから、我が国レスダンの王妃になってくださったらと個人的には思う。前に一度だけ、宮殿のお茶会に参加したとき、たまたま隣国から来ていた王女と会話したことがある。あのときは身分にこだわる我が国の高位貴族と違って分け隔てなく接する王女に小さな感動を覚えたものだ……。



さて。私は手の中の紙をもう一度見下ろした。


お茶会はもともと断るつもりだった。妹たちも一緒であれば彼女たちのために私も行くべきだと思うが、私だけ行ったところで意味がない。ましてや嫌われているとわかっている伯爵令嬢のところへなど行く気にはなれない。

私だってそんなにできた人間じゃないもの。


それはそうと、この警告の手紙をくれた人物は、一体誰かしら。こんなに深刻なーー下手をすればおおごとになっていたかもしれない案件を、どうして教えてくれたの? 

この屋敷の人間でないとして、考えられるのは泥棒だが、物色した様子はないのでおそらくそういった類いではないだろう。なにより証拠となる警告の紙を残している。

泥棒でなくて、ここへ侵入できる人物……密偵か何かかしら。父は用心深い人だが、間諜を雇っているとは聞いていないし、娘である私にそういうことを隠すことはしないはずだ。となると、ギロー伯爵令嬢の側の人間だろうか。彼女が騒ぎを起こす前に火種を消しておきたかった? もしそうだとしたら、平和主義者の間諜だわね。

答えはわからないが、自分に味方してくれる人物がいると考えた方が嬉しい。

私は紙切れを丁寧に折りたたむと、そっと引き出しにしまった。そしてきれいな便箋を出し、ギロー伯爵令嬢宛に断りの手紙を書いた。




それから不思議なことに、警告の手紙がたびたび届くようになった。


"ロードレッド邸で開かれる夜会では、決して飲み物を飲むな。睡眠薬が入っている"


"来週の舞踏会ではミクウェル卿とは決して踊るな。彼の手の平には媚薬が付いている"


"明日のミサでは黒いヴェールを余分に持っていった方がいい。盗まれる可能性があるから気をつけろ"


"来週末の宮殿の茶会では、空色のドレスは避けろ。ギロー伯爵令嬢が恥をかかせるつもりだ"


なぜそんなことを知っているの? 驚くような内容ばかりの警告に、思わず感心してしまう。

そしてその警告もでたらめなものではなかった。ミサでは同行した妹のオデットのヴェールが無くなってしまったし、ロードレッド邸ではギロー伯爵令嬢がしきりに私に飲み物を飲むよう勧めてきた。ミクウェル卿とは関わらないように避けていたが、そのうち彼はスキャンダルを起こして社交界から消えた。そして、先週開かれた宮殿のお茶会では、王妃陛下が空色のドレスを着ていたのである。



会ってみたい。ここまで優秀で、そして私を助けようとしてくれているこの人物に、直接会って、礼を言いたい。

しかしその人間はいつも私が気がつかないうちに手紙を置いている。

そういえば、手紙があるのは不定期だけど、置かれる時間帯は夕食から湯あみの時間と決まっているんじゃないかしら。

それに場所はいつも部屋の扉の前。扉の鍵を閉めていたときも手紙がその場所に置いてあった。ということは、部屋に入るのには扉を開けるのではなく、外の小さなバルコニーからということが考えられるわね。バルコニーに通じる扉の窓には鍵がないからそこから入ることは可能だ。

そしてその人物はおそらく私に姿を見られないようにしている。堂々と部屋の真ん中で待っていても、きっとその人物は警戒して現れないだろう。こっそりやってきて、わずかな間に手紙を置いていく。相手はプロなのだ。なんとか不意をつかなければ。



そのうちに第六王子の誕生日が近づいてきた。王太子の末の弟は今年で十歳になる。盛大に祝われることだろう。そう思っているうちに、宮殿からの舞踏会の招待状が来た。

しめた! きっとこの舞踏会で、またギロー伯爵令嬢が悪巧みするはずだわ。そうなればきっと例の人が警告の手紙を置きにくる。


それから数日間、私は夕刻になると夕食と湯あみの時間をずらし、部屋のカーテンの影に身を隠して例の人物が来るのを待った。扉の前には、少しでも時間を稼げるように、"お願い、あなたと話をさせて"と小さくメッセージを書いた紙を置いた。


三日目の黄昏時、とうとう例の人物がやってきた。

それもバルコニーから来るものだと思っていたのが、突然天井からすっと音もなく降ってきたのだ。

いつのまにか天井裏の板が外れてる! 私はカーテンの影で声を上げるのを抑え、息を潜めて薄暗い中にその人物を見た。

細身の男性、それも若いわ。暗い色の髪の毛は短いが、口元を布で覆っているので顔は目元しか見えない。


彼は扉の前に紙を置こうとして、私が用意した紙に気づき、それを拾い上げた。

紙を広げ、彼が読んでいる様子を伺ってから、私はカーテンの影から飛び出した。


「突然ごめんなさい、ちょっと話を……」


私が言い終わらないうちに、男は驚いたように目を見開くと、飛び上がって天井の穴に姿を消してしまった。まるで猫のような身のこなしだ。


「待って、お願い! 少しだけでいいの、直接お話できないかしら」


天井の穴に向かって言ってみたが返事はなく、しんと静まり返っているだけだ。もうどこかへ逃げてしまったのだろうか。

見下ろすと、私が用意した紙は消えている。それに彼が置こうとしていた新たな警告の紙も見当たらない。まだ彼が持っているのだ。


「お願い、あなたの目を見てお礼が言いたいだけなの。捕まえたりしないわ、今ここにいるのは私だけだもの」


しばらく沈黙が続いた。やっぱりもう行ってしまったのかしら。

がっかりしてため息を吐こうとしたその時、再び例の人物が音もなく上から降ってきた。

戻ってきてくれた! 自然と笑みが溢れて、彼の目の前に駆け寄ると、目元だけ見える彼の顔を見て言った。


「ありがとう」


男は戸惑った様子で目を泳がせていたが、少し頷いたのがわかった。


「どうして私を何度も助けてくれるの? あなたは誰? 一体どこから……」


そこまで言って、私は口に手を当てた。


「ごめんなさい。こんなに質問してもあなたが困るだけよね……いつもほんとうにありがとう。あなたが危険を教えてくれて、心から感謝しているわ」


男は小さく頷いて首の後ろをかいた。


「最初はね、私の行動を制限することが、誰かの利益になっているのかしらって思っていたの。でも途中から私を助けるためだってわかったわ。ご存知の通り、私はギロー伯爵のご令嬢にとても嫌われているから」


男は黙ったまま話を聞いてくれている。いけない、愚痴を聞かせるためにとどまってもらったんじゃないわ。私は少し明るい声を出した。


「私、自分自身が何かされるのはどうでもいいと思っていたの。妹たちさえ守れれば私が恥をかくのはかまわないって。でも、あなたからお手紙をいただいて、ああ、私を守ろうとしてくれている人がいるんだなあって思うと、すごく嬉しかったの……ふふ、あなたがそういう目的じゃなかったら、私今とっても恥ずかしいことを言っているわね」


「そんなことない」


突然男が口をきいた。びっくりした、話せるのね。

男は言った。


「あの伯爵家の娘が暴走すると、あんたの命が危なくなる。あんたは何も悪くないのに……避けられるものは避けた方がいいに決まってるだろ」


布越しにくぐもっている声だったが、ちゃんとそう言っているのが聞こえた。

気遣うような優しいテノールの返事が返ってきたことに、自然と笑みが浮かぶ。


「ありがとう。あなたの仕事が少しでも減るように、あの方と仲良くなれたらいいんだけど、そんなに心の広い人間になれなくて。ごめんなさいね」


「そんな必要はない」


男は即否定した。


「気に入らない相手に平気で毒を盛るような女だ。仲良くなる前にやられることはわかってる。近づくなんて絶対にだめだぞ」


彼の言い切るような口調に、私は思わずくすりと笑った。


「絶対にだめ、だなんて。まるで父に叱られてるみたいだわ、ふふふ」


男は笑う私の顔をじっと見ていたが、目が合うとすぐに逸らした。よかった、ちゃんと会話ができている。

私は笑いを収めるとこくりと頷いた。


「わかったわ、あなたの忠告は聞きます。あの伯爵令嬢とはこれまでのように関わらないように……でもせめて、私の何が気に入らないのかわかったらいいのだけど。やっぱり私の母の身分が低いことかしら」


亡くなった母は貴族ではなかった。

しかし、父や今の子爵夫人である義母、それに腹ちがいの妹たちからも愛され、私は子爵家の長女として認められている。この家の後継ぎは妹のどちらかに任せるつもりだが、私が子爵家の令嬢として社交界に出入りしていることが、名門の伯爵令嬢には許せないのかもしれない。

しかし男は首を振った。


「いや、そうじゃない」


男は下を向いたまま言った。


「あんたが、その…………お、驚くほど美人だからだ。理由はそれだけだ」


私は目を瞬かせた。美人? 顔のことだろうか。


「私の顔が……気に入らない? それが理由なの?」


男の目は真剣で、冗談を言っているようには見えない。

呆れた。確かに他人の容姿を見て笑ったり態度を変えたりする人だとは思っていたけど、ほんとうにそれでも名門伯爵家のご令嬢かしら。大体顔なんて歳を取れば変わるものなのに。

男は続けた。


「あんたがその顔で男をたぶらかして、身分のある家に嫁ごうとしてるってあの令嬢は思ってるんだ。自分よりきれいな顔の女は、みんな敵視してるけど、あんたには一番目をつけてる。顔が美人なのに身分が低いからって理由で」


「ふふ、そう。そうなのね」


自然と乾いた笑みが浮かんだ。困った令嬢だわ……判断基準が顔だなんて、なんだか興醒めだわね。一体今まで何を学んできたのかしら。

がっかりと肩を落としていたが、男が気まずそうにこちらにちらちらと視線を向けてくることに気づいた。


「あ、ごめんなさい。もう時間がないのかしら、あなたをずっと引き留めてしまったわね」


「いや、その、それは別にかまわないけど……その、美人だって言われても、あんたは嬉しくないのか」


あら、思いがけないことを訊いてくるのね。私は小さく笑って肩をすくめた。


「美しいと言われた後の台詞が決まっているもの。"美しいのに、身分が低くて残念だ"、いつもこうなの。そう言ってくる人の心のほうが残念だわ」


私は横を向いて鏡台を見た。

灯りをつけていない暗さなので、鏡の中はぼんやりとした人影しか見えない。私はその暗さが心地よかった。暗闇はいい、誰の顔も見せない。


「美しいという言葉は好きだけど、自分が褒められている気がしないの……だって何の努力もしていないから。こんな言葉、伯爵令嬢が聞いたらかんかんになって怒るんでしょうけど。でも美しいから結婚してもらえて幸せだなんて思っているのなら、全くのお門違いだわ。私は絵でも彫刻でもない。それにいつまでもこの顔のままなわけがないでしょう」


男はずっと黙って私の話を聞いていた。

暗いのでどんな表情をしているのかわからなかったが、突っ立ったまま私の話を聞いてくれていた。

私はふっと笑みを浮かべた。


「でもこれは、私の考え。いろんな人がいろんな考えを持っていると思うわ。聞き流してちょうだいね」


私がそう言ったのに男はやはり黙ったままだったが、やがて小さな声で「ごめん」と呟くように言った。どうして謝るのかと思ったが、もしかしたら彼は、私が“美人”だから警告してやろうと思ったのかもしれない。何も言わないからわからないけど。


「あなたが謝ることではないわ。なんにせよ、私はあなたに感謝しているんだもの……もうすっかり暗いわね。燭台に火を灯してもいいかしら」


私がそう言って火打石を探そうと下を向くと、もうすでに男が燭台に火を灯していた。


「まあ……早いのね」


「慣れている」


男は燭台を部屋の真ん中のテーブルに置いた。部屋全体が明るくなり、男の姿もずいぶんはっきりと見えるようになった。


「それで……今日来てくれたのは、今度の宮殿の舞踏会に関することかしら」


男は「あっ」と思い出したように声を上げたが、何と言っていいのかわからなくなったようで、懐に手をやると紙を取り出して、こちらへ手渡してくれた。「ありがとう」と言ってそれを受け取る。広げると、いつもの彼の筆跡だった。

内容は次の通りに書かれていた。


”王子の誕生日を祝う舞踏会でつける黄色の花は余分に用意して持っていけ。盗まれるか取り上げられるかもしれない”


私は思わず笑い声を上げた。


「一体どうやってこんな情報を知るの? 黄色い花のことは、私だってさっき妹に聞いて知ったのよ」


男はまた首の後ろに手をやって答えた。


「ギロー伯爵令嬢が、あんたの花をどうやって奪うか一生懸命考えてたから……。まだ手段は決まってないらしい。わかったらまた知らせる」


彼はやはりギロー伯爵令嬢のことに関して詳しいようだ。彼女の天井裏にいつも忍び込んでいるのかしら。


「わかったわ。全く、ほんとうにあなたは一体何者なのかしらね。恩がありすぎて、どうお礼をしたらいいのかわからないわ」


「そんなのは別に……ただ俺はあんたがひどい目に合わないようにしてるだけで……」


男が小さな声でぶつぶつ言っているところを、私は笑みを浮かべて「ありがとう、あなたはほんとうに良い人ね」と言いながら、彼の手を取った。しっかり握手をして感謝の気持ちを伝えようとしたのだ――だが触れた手の感触に、おやと思った。

燭台の灯りに照らした彼の手の平をまじまじと見る。

指に傷跡がたくさんある。あらかた治りかけているが、これは……!


「あなた、あの時のハープの音楽師ねっ?」


男はぎょっとした目になった。口元は隠れたままだが、いかにも「ばれた」とでも言いたげな顔だ。逃げ出そうとしたところを、彼の片方の手首を掴んで引き止める。


「逃げないで! やっぱりあなただったのね。声に聞き覚えがあると思ったわ」


男は背を向けて沈黙していたが、やがて肩を落としたように猫背になって俯いた。そんなに隠したいことだったのかしら。


「ごめんなさい、追求してしまって。妹には言わないわ、ただあなたにまた会えたことが嬉しくて」


男はこちらを向かずに、小さな声で「すまない」と言った。

え?


「なにが?」


「……あんたを騙していた。俺はハープ弾きでも道化師でもない」


そんなこと。こちらにまるめた背を向けたままの男に、私は彼の手首を持ったまま言った。


「実はね、そうじゃないかなあと思っていたのよ」


私が言った言葉に、男は「えっ」とこちらを向いた。


「前に、ハープの演奏者から、長年弾いていれば指を痛めることはないって聞いたの。本物のハープ弾きなら長時間弾くことに慣れているから、あそこまでの怪我はしないって……」


そこまで言って私は話すのをやめた。男が項垂れたように片手で顔を覆っていたからだ。

私は咳払いした。


「で、でも、演奏がとても素晴らしかったからすっかり騙されたわ! 知らないでしょうけど、あなたの音に合わせて裏で踊っているメイドたちもいたのよ」


私が明るい声でそう言うと、彼はちらりとこちらを振り向いた。後ろめたいような目の色だ。

私は真面目な顔で彼を見た。


「騙されていたなんて誰も思わない。だってほんとうに素敵なハープだったもの」


私がにっこり微笑んだのを見ると、彼はようやくこちらに向き直ってくれた。そして言った。


「ありがとう……その、手当てをしてくれるとは思わなかった」


私は掴んでいた彼の手首を持ち上げ、再び彼の指先に触れた。


「治ってきているみたいでよかった……。お給金はあれで十分だったのかしら」


男はこくこくと頷いた。


「あ、あんなにもらえるなんて思ってなかった、びっくりした」


「怪我をさせてしまったせめてものお詫びよ……ねえ、あなたのお名前、教えてもらえないかしら。私はレリアよ」


男は困ったように眉をしかめて下を向いた。言いたくないようだ。当たり前よね、彼は天井裏を歩く隠密ですもの、たぶん。


「いいの、ほんとうの名前でなくても。ただこうしてまた会ったとき、あなたを呼べないのは不便でしょう」


男は迷ったような目をしているが黙ったままだ。葛藤しているらしい。

私は肩をすくめた。


「どうしても言いたくないなら、"道化師さん"と呼んでもいいかしら」


「ジャ、ジャンだ。ジャンと呼んでほしい」


慌てて彼がそう言ったのに、私はくすりと笑った。


「ジャンね、わかったわ。ねえジャン、次から警告してくれるときは手紙を置くのではなくて、こうして直接会って話してほしいわ。その方が情報が正確に伝わるでしょう?」


「で、でも俺……」


男――ジャンは言いにくそうに頭をばりばりかいた。うーんうーんと唸っている。きっとこうして私に情報を流しているのは、職業的にまずいことなのだろう。


「ごめんなさい、あなたに不都合なら今まで通りで……」


「い、いや」


ジャンは真剣な目をこちらに向けた。初めてきちんと彼の瞳が見えた。きれいな灰色だわ。


「次は……部屋であんたを待つことにする。もちろん他言無用だぞ」


私は自然と顔がほころぶのを感じた。


「嬉しい。用がなくても会いに来ていいのよ」


ジャンは目をむいて「そ、そんなわけにはいかない」と言って首を振った。


「あ、あんた……他にも男をこうして部屋に招いているのか」


彼がじろっとこちらの様子を伺うようにして見ているのに、私は「まさか」と苦笑いを浮かべた。確かにさっきの言い方は少しはしたなかったわね。“用がなくても”なんて、嬉しくてつい口をついて出てしまったわ。


「私は仮にも子爵令嬢だもの。変な噂が立っては妹たちの将来にも差し障るわ……あなたは信用できるからそう言っただけ」


私の言葉を信じてくれたのかはわからないが、ジャンは小さく頷いて背を向けた。


「もう行く……新しい情報が入ったらまた来る」


そう言うと彼は来たときと同じようにひゅっと天井裏に飛び上がり、天井の板をもとに戻した。それからは足音がすることもなく、部屋は再びしんと静まり返った。





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