番外3. 夜襲(間諜視点)
パタンと閉まる王太子の執務室の扉を見つめながら、俺は自分が情けなくてため息を吐いた。
結婚してからもう二ヶ月経つのに、いまだに彼女の前だと緊張してしまう。
キスを拒んだ俺に、彼女は怒ることなく手を握ってくれたが、全く自分に呆れる。
いやいや待て、これはきっと慣れなんだ。彼女と一緒に住むようになればこんな風に手汗をかくこともないはずだ。そしてその日が来るのは遠くはない。
彼女と一緒に暮らすなんてどんな生活だろう、きっと毎日が幸せな空間になるに違いない、微笑みを向けてくれる彼女と食卓を囲んで……と、俺はうっかり想像しようとして、いかんいかんと頭を振った。
今はまだ仕事だ。
俺は天井裏に戻ると、王太子のいるだろう浴室へ向かった。
レリアの話によれば、あの密偵の女が王太子が飲むようにと渡した"解毒剤"は、おそらく媚薬か睡眠薬などの類いだろう。疲れが取れるなどと言って飲ませようと仕向けたのは、王太子への夜這いを簡単にするためだ。
あの用心深い王太子だ、さすがにそんな怪しい薬を飲んではいないだろうが、一応知らせておくに越したことはない。もしかしたらもう何の薬か調べているかもしれない。
王太子は湯浴みを終えたようで、ローブに身を包み、椅子に腰かけて髪の毛を侍女に拭いてもらっているようだった。その後ろにも侍女たちがズラリと並んでいる。
俺は首からかけている紐の先の笛を小さく鳴らした。これは王太子に渡されたもので、これで吹いた音は彼の耳にしか聞こえないらしい。代々王家に受け継がれており、自分の専属の隠密が使うためにあるものだそうで、俺にも渡された。一人になることが少ない王太子が間諜と内密に話すために必要なのだそうだ。
笛の音に気づいた王太子は侍女たちに「下がってくれ」と言って人払いをしてくれた。
浴室が王太子だけになったことを確認すると、俺は主人の前に下り、膝をついて頭を下げた。
「どうした、ジャン」
「確かめたいことがあります。例の薬草売りに扮した女が解毒剤を持ってきたと聞きました、受け取られましたか」
王太子はまだ湿っている艶々した髪の毛を自分で拭きながら「ああ、あれか」とジャンを見ると真面目な顔をして言った。
「あれは飲んだぞ。疲れもとれると聞いたからな」
は? 俺は思わず顔を上げて身を乗り出した。
「えっ、の、飲んだ?! 調べもせずに!? 何を考えて……え、殿下、俺の話を聞いていなかったん……」
「嘘だ。ほんとうに信じるやつがあるか、この私が飲むわけがなかろう」
王太子はきれいに並んだ歯を見せて笑った。
俺はほうっと息を吐いた。全く、びっくりさせないでほしい。
「……こんなときに嘘などおやめください。全く笑えません」
「ははは、お前も存外単純だな……解毒剤は侍従を通して受け取ったが、すぐに医務官のもとに持っていってもらった。強力な睡眠薬だそうだ」
さすが王太子、仕事が早い。心配して損したな。
しかし睡眠薬か。
「ランベルト侯爵の娘は、殿下を眠らせてから事に及ぼうとしている……ということでしょうか」
「あるいは侍女が来るタイミングを見計らって服を脱ぎ、ベッドにもぐりこむだけのつもりだったか……いずれにせよ疲れがとれるなどと嘘を言って飲ませようとするのは悪質だ」
確かに悪質……だが、もし王太子が単純な人間であったのなら確実に事はうまく進んだだろう。そして同業であるなら、あの解毒剤一つで安心するはずがない。
「相手は殿下が解毒剤を飲まなかった場合のことも考えているかと思います。お食事は問題なかったようですが、これからまだ何か口に入れるものはありますか」
「寝る前に侍女が用意する水を一杯飲む。ああ、最近はいつもレリアだぞ。私が命じているからな」
主人がにやにやと笑みを向けてきたのに俺はいらっとしながらも冷静な口調で言った。
「でしたら、その水にはお気をつけください。いつ何時その水に薬が入れられているかわかりませんから。飲むふりをするなり吐き出すなりしてください」
「……だそうだ、リューク。気をつけたまえ」
王太子が浴室の開いた扉に向かってそう言った。すると王太子よりも一回りほど年嵩に見える男が一人、似たようなバスローブを着て入ってきた。
へえ、彼が身代わりなのか。俺はリュークと呼ばれた男をちらりと見た。
彼も王太子に仕える間諜の一人だ。しかし護衛でもあり剣の腕が立つ彼は、王太子と比べるとちょっと肩ががっしりしすぎな気もする。うわ、バスローブから筋肉質な胸が見えた。
リュークは片膝を床につけて礼節通りの体勢を取った。
「殿下のためでしたらこの命、いつでも投げ出す覚悟でございます」
大した忠誠心だ。
俺は小さく感心しながら、彼がこれから寝込みをを襲いにくる令嬢達をひねり殺しはしないかと若干心配になった。
王太子は真摯な態度の彼に目を細めた。
「私は奥のカーテンから部屋の様子を眺めることにする……くれぐれも令嬢たちに怪我を負わせてくれるなよ」
「は」
それから王太子はリュークを浴室から出すと侍女たちと一緒に図書室へ向かわせた。王太子の日課として、湯浴みの後はいつも読書なのだ。
身代わりの彼を見送りながら王太子は言った。
「あの男は彼の曽祖父の代から忍びとして我が王家に仕えてくれていてな、こういう役はいつも彼が自ら引き受けてくれるのだ」
ああなるほど、身代わりとして選んだにしては体格が違うと思っていたが、彼自身が志願していたのか。
「お前ほど猫のようには動けないが、剣の腕は親衛隊長と同格だ。決して短気ではないが、私のためならなんでもする男だ……例の間諜の女が、何か仕掛けてこなければ良いのだが」
俺は王太子の顔を見た。眉を寄せて心配そうな表情を浮かべている。俺と同じく、彼が令嬢たちに何かしないかと危惧しているようだ。
今回の件で彼は二人を捕らえるつもりだ。だが宮殿の者が誤って令嬢たちに怪我を負わせてしまったら雲行きは怪しくなる。不問に付される可能性が出てくるのだ。それに、代々守ってくれている大事な護衛の手を汚したくはないだろうしな。
俺は覆いの下で笑みを浮かべた。
「仕掛けてきたとしてもあの女にできることは少ないでしょう。俺ができるだけ阻止します。彼女は俺に任せてください」
王太子は一瞬だけ宝石のような目を大きくさせてから「そうか」と柔らかな笑みを浮かべた。
「頼りにしているぞ、ジャン」
王太子の前ではあんなことを言ったが、実際のところ、あの間諜の女の行動は読めなかった。
ランベルト邸で俺の息遣いに気づいたことを考えると、彼女は勘も耳も良い。慎重に動かなければならない。
おそらく彼女はランベルト侯爵令嬢を連れて、王太子の寝室にやってくる。そして王太子に悟られないように睡眠薬を盛るはずだ。だが一体どうやって?
もし俺だったら、相手に気づかれないように寝ている間に忍び寄り、薬を含ませた布を鼻と口に押し当てる。その手の薬を手に入れるのは大変だが、それが一番手っ取り早い。しかしあの女も同じ手を使うとは限らない。これはある程度身長のある者が行うやり方だ。
考えながら、俺は使用人たちの部屋の天井裏に行った。
イザークのメイドに化けた三人はそれぞれの部屋でそわそわしていた。まだ夜も更けずに使用人が動き回っているこの時間帯では、あのデュボワ公爵令嬢も動かないだろう。それに彼女たちの動きはたかが知れている。
こっちは親衛隊に任せて大丈夫そうだな。
やはり俺が警戒すべきはランベルト侯爵の方ーーあの間諜の女だろう。
俺はそう考えて、いよいよ王太子の寝室の方へ向かった。
そもそも宮殿の天井裏のあちこちには、王家暗殺防止のために仕掛けが張り巡らされている。警戒せずにぼんやりと歩いていれば、突然毒の塗られた矢が飛んできたり、ねずみ捕りのような罠にかかったり、上から粘着性のある網が降ってきたりするのだ。
俺もこの宮殿に勤めるようになったときから、王太子の雇っている同業者たちに仕掛けを隅々まで教えてもらった。ときどき何十年も昔に忍び込んだらしい刺客の骨になった死体が罠と一緒に放置されている場所もあるので、慣れるまでは背筋が寒かった。見せしめとはいえ、死体を骨になっても置いておくこの宮殿の方針もどうかと思うけど。
こんな危険な場所を外部の人間がたやすくくぐれるわけもないから、天井裏から来ることは考えられない。
となると、やはり彼女たちは十中八九窓から忍び込んでくると考えられる。見回っている兵士たちはいつも通りの巡回をしているので、そのタイミングを見計らってくるに違いない。
王太子の寝室の天井裏にたどり着くと、あちこちから気配を感じた。
洋服ダンスの中に一人、ベッドの下に一人、彼らはおそらく親衛隊の者か。床下にいる一人と暖炉の中にいる一人は間諜仲間の誰かだな。それにしても――誰だ、この息遣いさえ控えようとしない気配が駄々洩れの奴は。
奥のカーテンの裏からだ、とそこまで考えて俺はああと察した。王太子か。全く、隣の部屋で親衛隊長たちと控えていればいいのに。あの女なら彼がここにいるとすぐわかってしまうんじゃないか。
俺は寝室の窓のすぐわきの天井裏で、外の様子を伺いつつ侵入者を待ち構えることにした。
月が沈んだ。
そろそろ真夜中だろうという頃、ガチャリと寝室の扉が開いた。
入ってきたのは例のローブを着た王太子の身代わり、リュークだった。図書室での読書を終えてきたらしい。
彼がベッドに腰掛けたとき、部屋に侍女が入ってきた。あっ、レリアだ。盆にコップを乗せている。
「お水をお持ちしました」
笑顔で言ったレリアの優しい言葉に、リュークは「ああ、ありがとう」と言って微笑むとコップを手に取った。
俺はその様子になんだか胸がむかむかしてきた。なんだ、この良い雰囲気は。レリアもあんな風に微笑まなくていいのに。筋肉質のリュークがちょっと力を入れて腕を引っ張りでもしたら、レリアはあっと言う間にベッドに連れ込まれてしまうじゃないか。
むっとした自分に少し驚きつつも、リュークが一口飲んだように見えたコップの水の量が、レリアが持ってきたときと変わっていないことに気づいた。彼は俺の忠告通り飲まなかったようだ。
レリアが部屋を去っていったのを見ると、俺はほっと胸を撫で下ろした。
同時にリュークが燭台の灯を消してベッドの中に入ったのが見える。いよいよ就寝か――女たちが動き出すのはこれからだろう。
リュークは寝息を立てているが、おそらく彼は眠っていない。静かにゆっくりと時間が過ぎていった。
しばらくして、俺は窓の外から気配を感じた。一人……いや二人か、こちらに向かっている。
俺は物音を立てずに外を見た。暗闇の中で足音に気をつけながら歩いているのは、思った通りランベルト侯爵令嬢エロイーズと例の間諜の女だ。二人とも軽装で目元以外を布で覆っている。そして女の方は……何か鞄のようなものを肩から下げている。なんだあれは。
普通俺たちみたいな間諜は仕事のとき荷物は持たない。持つとしても両手が空く状態になる、懐に入れられるものであることが基本だ。
一体何を持ってきた?
二人は建物の下まで来ると、女はエロイーズを下で待たせて壁をよじ登り始めた。ひゃあ、とかげみたいな奴だな。
彼女は王太子の寝室の窓までたどり着くと、何か細いものを懐から取り出して窓の隙間に入れた。鍵をこじ開けるつもりらしい。
小さくキイキイという音だけがする。しかしそれもわずかな音で、外で風がさやさやと木々を揺らしている音にかき消されるほどだった。やはり彼女はプロだ。
少しして窓が音もなく開いた。
俺は警戒しながら暗闇の中、部屋に入り込んできた彼女を目で追った。どうやら気配が漏れていた王太子もうまく息を潜めているようだ。寝室にはベッドにいる身代わりの寝息だけがすうすうと響いている。動くなよ、リューク。
女はふいに鞄の中から何かを取り出した。なんだ……あれは。目を凝らすと、何か陶器の器のように見える。しかも一つだけじゃない、いくつも持っているようだ。
女はそれを部屋のあちこちに置いてその器に何かを入れているようだった。
さっぱりわからない。一体なんのためだ。
女は支度が済むと、かばんの中からロープを取り出した……いや、ただのロープじゃない、縄梯子だ。すごいな、確かに侯爵令嬢がロープ一本で壁を登るのは時間がかかるだろう。
しかし驚いたことに、女はその縄梯子を窓に固定すると、なんと自分がそれを使って下り始めた。え、帰るのか?
後から令嬢だけ行かせるつもりなのだろうか。あの間諜は寝室に入ったのに王太子以外は誰もいないから安心だと、そう思ったのだろうか。確かに王太子もうまく気配を消していたが、彼女はプロだ。気づかないはずがない。一体何を企んでいる?
女は梯子を下りると令嬢に二言三言囁いただけで、二人はその場に待機しているようだった。今すぐは行動しないらしい。
なんだ、一体何を待っている?
俺は寝室の中を覗き込んだ。先ほどから変化は見られない……いや、部屋のあちこちにはあの女が用意した陶器の入れ物が置かれてある。あれは一体なんだ。
下りるつもりはなかったが、やはりどうしても気になるので、窓から離れた部屋の奥――ちょうど王太子が隠れているであろうカーテンの近く――に、俺は音もなく下り立った。
その瞬間、ある匂いをすんと感じた。
どこかで嗅いだことのある匂い……俺は記憶を辿り、はっとした。昼間ランベルト侯爵邸で見た白い花のついた薬草が脳裏に蘇った。
これはもしや。慌てて確かめるように陶器の中を確かめる。思った通り、陶器の入れ物の中にはお香が入っていた。うわあまずい、あの女はこれが狙いだったのかっ!
俺は匂いを放っているその器をかき集めると、窓辺に寄せて匂いを放っている香をできる限りつぶした。これで香りはいったん収まるだろう。しかし部屋にはもうすでに匂いが充満しているようだ。
まずは確かめるべき人物のいる奥のカーテンをすっと開いた。
「ジャ、ジャン! いきなり開けるとは一体……」
よかった、まだ香を嗅いでいなかったようだ。俺は少し安堵してから、すぐに王太子の口をふさいで「お静かに、彼女たちは今すぐ下にいます」と囁くような声を出した。
「部屋に即効性のある睡眠薬の香をたかれました。おそらく香が終わる頃を見計らって彼女たちは寝室に上がってくるのかと」
王太子は「香だと?」と驚いたように目を丸くした。きょろきょろ辺りを見回している。灯りもないこの暗さだ、彼には陶器の入れ物が見えないのだろう。
「はい、あちこちに置かれたので窓辺に寄せておきました。まずは直接香りを嗅がないように鼻と口を覆ってください。匂いは部屋に広がっているのでお気をつけて」
俺がそう言うと、王太子は真面目な顔で小さく頷き、首元の白いクラバットを顔に巻きつけてから低く小さな声で言った。
「お前はやたら夜目が利くのだな……皆が無事か確かめてくれるか」
俺は足音に気をつけて暖炉の中やベッドの下など、隠れている者たち皆に香のことを話し「鼻と口を覆うように」と告げた。唯一眠っているのはリュークだけのようだ。彼は間近で香をたかれたのでまともに匂いを嗅いだのだろう。
王太子はクラバットで鼻を覆いながら考えるように言った。
「ふむ、香の匂いを使って部屋の中の見張りや護衛を全員眠らせるつもりだったということか。実に頭がいい。眠らせてしまえば張っている網も機能しなくなる。相手はなかなかに策士だな」
感心している場合じゃないだろ。俺は出そうになった言葉を飲み込んでから次のように言った。
「香は止めましたが、どういたしましょうか」
「そうだな……ジャン、悪いがもう一度香をたけるか」
「え……もう一度?」
「香が止められたことに相手が気づいてしまえば逃げてしまうかもしれないし、相手はまた別の手を下すことも考えられる。それは危険だろう? 香をたいたら、器は置かれていた場所に戻すのだ。そして皆に眠ったふりをするよう伝えてくれたまえ。打ち合わせ通り、私が命令を出すまでは姿を現すことは許さんとな。良いか、頼んだぞジャン」
王太子はそう言うと、奥のカーテンの中に身を隠してしまった。
やれやれ、せっかく苦労して消したっていうのに。
しかし王太子の言い分にも一理ある。あの女なら香を消されたことに気づくに違いない。あの女には事がうまくいっているように思わせなければならないのだ。
うう、さっき匂いをまともに吸ってしまったからな、香をたくのにうっかり眠ってしまわないように気をつけなければならないぞ。
俺は頭をかくと、窓辺に寄せた陶器の器に火を入れて香をたいた。それから香りを吸わないようにそれらを元の位置に戻す。そして隠れている皆に王太子の先ほどの命を告げてから天井裏に戻った。
あーまずいな、眠くなってきた。頭がぐらぐらする。寝不足が今になって恨めしい。
俺はいざというときのために用意しておいた気付け薬を染み込ませた布を懐から取り出して、鼻に押し当てた。
薬のつんとくるきつい匂いに、ぼんやりしていた頭がはっきりするのを感じる。
ふう、危なかった。まだここで眠るわけにはいかないんだ。
しばらくすると、下に待機していた例の女が縄梯子を登って上がってきた。
彼女は音を立てずに部屋に入り込むと、驚いたことに口元の覆いを取り去った。
へえ、大胆だな。彼女は薬に耐性がついているのか? 匂いで確認しているのであれば、王太子の命令が功を奏したのか。
彼女は鼻をすんすんとやってから、周りの気配を確かめようと耳を澄ませているようだった。
部屋に控えている皆は、王太子の命じた通りちゃんと規則正しい寝息を立てて寝たふりをしてくれている。
女は部屋のあちこちを歩き回りながら警戒したように聞き耳を立てているようだった。女は上を見上げてきた。俺の存在にも気づいているんだろうか。それならば俺も寝たふりをするべきだったか。
そのときだ。
「ねえ、もういいでしょ」と窓の外から声がした。
見ると、ランベルト侯爵令嬢がもう縄梯子を登ってきてしまっている。
「お、お嬢様っ」
女は驚いたような表情を浮かべ、窓辺へ駆け寄った。
「まだいらっしゃってはいけません」
「もう待てないわよ。それにほら、もう大丈夫そうじゃない」
令嬢エロイーズは、間諜の女が言うことに耳を傾けることなく、部屋にすとんと入り込んだ。
「ふふっ! 眠り薬入りの香が効いているみたい。思った通りあちこちから寝息が聞こえるわ」
「ですがお嬢様、まだ危険がないとは……」
「大丈夫、大丈夫よ。ね、燭台に灯りを入れてくれない?」
「なりません、灯りは我慢なさってください」
エロイーズは「ふん、まあいいわ」と言うと、手探りでベッドに近づいた。
「さ、脱ぐのを手伝って」
間諜は少し迷っていたようだが、侯爵令嬢の「早くなさい!」と言う言葉に急かされて、彼女のドレスの後ろの紐を解いて脱がし始めた。
彼女は顔の覆いも取って下着だけの状態になるとするっとベッドに潜り込んだ。
「お嬢様、まだ王太子の確認が……!」
「大丈夫よ。ここで眠っていれば明日の朝には事実上の王太子妃なのよ。さあ、もういいからあなたはお父様に報告に行けば?」
「まさか。旦那様は明け方にはお越しになるはず……私はあなたの護衛をさせていただきます」
なるほどな。朝までに王太子の寝室にランベルト侯爵自身も出向き、王太子とともに横になっている娘を見つけ出して糾弾、どう責任をとるのかと王太子に詰め寄る……そういう寸法か。
しかしそれではもうすぐ来るだろうデュボワの令嬢たちと鉢合わせすることになる。そうなった場合、この間諜の女はどう出るだろう。さすがに流血沙汰になることはないと願いたいが、どうなるかはわからない。
しばらく沈黙が続いていたが、やがてベッドからはエロイーズの寝息も聞こえ始めた。
間諜の方は窓の外を確認したり、寝室の外の音に聞き耳を立てたりして、相変わらず警戒を解かないようだ。
彼女がいては王太子も親衛隊も動けない。
うーん、デュボワ公爵令嬢が来るまでにはなんとかしなきゃいけないか。
仕方ない。彼女は俺が引き受けるって、王太子に言っちまったもんな。
俺は息を吐いて覚悟を決めると、服に縫い付けられた丸い玉のようなボタンを一つを引きちぎって、天井裏の穴から落とした。
コトン、とうまく音が響く。
女はさっと音がした方を向き、何が落ちてきたかを確認するとがばっと上を向いた。
よし、来るぞ。
俺は腰を上げて体勢を整えた。
それから数秒もしないうちに、先ほどまで俺が手を置いていた天井床にブスリと大型ナイフが突き出した。
うわっ、この女、やっぱり気配を感知するのが動物並みだ!
大型ナイフは引き抜かれることなく、そのまま上にぐっと持ち上げられ、天井板が外されたところからばっと女が現れた。
俺も腰を低く構えて、彼女と無言で対峙する。俺と同じように夜目が利くらしい。他にわかるのは集中力、反射神経、力、聴覚が優れてるってことくらいか。とにかく殺気だった目つきで睨みつけられている。
彼女はーーこの宮殿の仕掛けや罠にかかってくれるだろうか。うまくいくかわからないが、あれだけあるのだ、試してみる価値はある。
俺は後ずさると、奥の方へと駆け出した。
真っ暗な天井裏の中、わずかに聞こえる足音と息遣いで女が追いかけてきているのを感じる。宮殿の造りに慣れていないためか、スピードは俺の方が速い。よかった、すぐ追いつかれてしまうようでは仕掛けの潜り抜け方がわかってしまっただろう。
俺は仕掛けの多い場所に逃げ込んだ。一つ目の罠を避けて回り込み、女が来るのを待つ。ここは毒のついた矢が飛んでくるからくりになっているのだ。
数秒もしないうちに女が駆け込んでくる。罠の場所を通過したとたんに彼女の方にびゅんと矢が三本飛んだ――ところが、女はその矢の音を聞きつけたようですんでのところでそれを避け、「えっ」と驚きの声を漏らした俺の方を向いた。
ぎろりと睨みつけてくる目はほんとうに動物のようで、俺は思わずその場から駆け出した。
こりゃ休んでる暇はないぞ。
それから俺はとにかく暗闇の中、天井裏の仕掛けの中を逃げ回った。
女は、落とし穴を軽々飛び越え、狭い通りの途中で飛び出してくる数々の刃物もすべて避け、迷路のような道も俺の気配を辿って通り抜けてくる。さすがに疲れてきたな、ほんとうにどうしようと思い始めた頃、ようやく女の「うわっ」という声が背後から聞こえた。
やっとかっ! 俺は息切れしながら両手を膝について息を整えた。
息を落ち着かせながら近づいてみると、どうやら彼女は粘着性のある網にかかったらしい。もがけばもがくほどからまる網に、女は悔しそうな目をして懸命に抜け出そうとしていた。
「無駄だよ」
俺の言葉に、女はぎろりとあの目つきを向けてきたが、もう恐ろしさは感じなかった。むしろ心にあったのは同情だ。
俺にとって他人事ではないんだ。この女もたいがい気の毒だ、あの侯爵家に勤めるなんて。一歩間違っていたら俺がこうなっていたかもしれなかったのだ。
まあ、俺は王族に手向かうような悪事には加担しないけど。
彼女が逃げられないように網の上から彼女を拘束した。念のためさるぐつわも噛ませておく。ふう、これでひとまず大丈夫だろう。
彼女を引き連れたままあの仕掛けを通れるわけでもないので、下の部屋に下りた。
下りた部屋は宴会が行われるときに使われる大広間になっていた。
ああそうか、宴の会場で大量の賊が現れたときにあの網があれば文字通り一網打尽にできるもんな。
大広間から出ると、廊下の窓がいくつか開いており、外の景色がよく見えた。
もう明け方も近いようで、空は白ばみ始めている。
俺は粘着性のある網を仕掛けた歴代の王族に感心しながらそのまま彼女を引きずって、王太子の寝室へ向かった。
寝室に近づいていくと、なにやら女のわめき声が聞こえる。どうやら始まっているらしいな。
俺は大きく息を吸って気合を入れた。