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番外2. 臨戦態勢(令嬢視点)


「レリア、王太子様が及びよ。至急執務室に来てくれって」


侍女長の言葉に、私は眉を寄せそうになるのをぐっと堪えた。


侍女の仕事は朝から晩まで大忙しだ。

王太子の専属であるから当然彼の生活に合わせてしょっちゅう呼び出される。身の回りの世話だけでな来客ごとに指定された茶器や茶葉、茶菓子を選ぶことを覚えるのも仕事だ。寝室のシーツや着ている衣服は毎日洗濯室へ運ばなければならないし、寝室はもちろん、お城全体の掃除も当番制でまわってくるのだ。この二ヶ月でようやく仕事が定着してきたが、それでも慣れないことも多かった。

もとより覚悟していたけど、お茶を持っていったときに主人であるあの男ににやりと笑みを浮かべられると、腹の底から怒りが湧き上がってくるのよね。


そういうときはジャンの顔を思い浮かべて気持ちを落ち着かせる。

王太子の話では、ジャンは貴族の令嬢全員の所業を把握するべく、ほとんど宮殿の自室に帰らずに調査ばかりしているらしい。彼は今、王太子のために全力で動いているのだ。

そんなに忙しいというのに、私の部屋の枕元にはほとんど毎日彼からの手紙が置いてあった。たわいもない話から、時おり私が知っていいのか微妙なラインの情報までも報告してくれている。

彼が頑張っているのなら、私も怠けてはいられないわ。



王太子の執務室に入ると、驚いたことに他の使用人たちの代表も何人か呼ばれているようだった。あら、私だけじゃなかったのね。

あの男と二人で顔を合わせるわけではないとわかると少しだけほっとした。


「レリア、こっちよ」


呼んでくれたのは、同じ王太子専属の侍女フランシーヌだ。彼女は侍女長に続いて私に仕事を教えてくれている先輩侍女である。


「何事ですか」


少し周りに視線をやってからフランシーヌに尋ねると、彼女は肩をすくめた。


「わからないわ、でも侍女長様の話だと専属侍女はみんな呼ばれているらしいのよ」


彼女の言う通り、その後もわらわらと見知った侍女がやってきた。門番や兵士の姿もある。

一体何なのかしら。


そのうちカツカツと靴音を響かせて集めた張本人の王太子が姿を現した。後ろには親衛隊長もいる。がやがやしていた喧騒が自然と静かになった。

王太子が言った。


「あー皆、よく集まってくれた。ここにいる者たちは私がよく見知った者たちであり、信用できると判断したうえで呼び出している」


そう言われて誇らしげな顔をする兵士や侍女長がいる一方で、ほうっとため息をつくフランシーヌのような若い娘もちらほらいた。


「まず今夜だが、私の寝室に忍び込もうと画策している令嬢が二人いるとの情報が入った」


王太子の言葉に、皆が少しざわついた。「まただよ」「懲りないな」「今度は誰」と言ったささやきが聞こえる。

仕方ないわ、王太子妃になるためなら今ではもう既成事実しかないもの。


王太子は手を挙げて再び注目を集めた。


「あー静粛に頼む。あまり時間がないのでな……ありがとう。明日は午後からイザークから使者や兵士、使用人たちがやってくる。それまでにはどうにかしておきたい。ゆえに私はこれを機に二人を捕らえるつもりだ。それには皆の協力が必要となる。手を貸してくれ」






午後六時きっかりに、花と薬草を売る女が使用人用出入口を訪問してきた。

私は洗濯されたシーツや主人の衣服を回収しようとしていたのだが、洗濯室の手前でそのシーツを持った侍女長と鉢合わせたところだった。

廊下の方から「侍女長様、薬草売りの方が」とメイドが呼んだ。

侍女長は「今行きます」と返事をしてから目の前にいる私にシーツを託した。


「これをお願い。殿下の服はまだ洗濯室よ、これが終わったら取りにいってもらえるかしら」


周りのメイドたちは皆少し緊張しているような顔をしていたが、さすがは侍女長、いつも通り落ち着いている。

私がこくりと頷いてそれを受け取ると、彼女は使用人玄関の方へ向かっていった。

私はシーツを両手で抱え直すと少しゆっくり歩いて、使用人用の玄関前を通る王太子の寝室へ向かう。



扉のすぐ前には、つぎのある茶色のワンピースの女が立っていた。

ふうん、彼女が王太子の話していた人ね。

頭は布で覆われていたが、赤い髪の毛がちらりと覗いていた。花や薬草の乗った板を肩から下げているようだったが、彼女は小さな瓶を侍女長に差し出しているのが見えた。

私は歩きながら二人の会話にそっと耳をすませる。


「……では、あなたは殿下のもとに届いたお菓子に毒があると、そう言いたいのですか?」


侍女長が訝しげに尋ねる声が聞こえる。


「ええ、ですからこの薬草を調合した解毒剤をどうか王太子殿下に……」


薬草売りの女がか細い声でそう言った。


「そのお菓子の匂いを嗅いだだけで毒が身体に回るという話。それにこの解毒剤には疲れも取れるという秘薬が入っております。どうかほんの少しでも王太子殿下がお飲みくださいますよう、心よりお願い申し上げます、どうかどうか」


まるで絞り出すような懇願する声。

私は侍女長はきっとそれを受け取るだろうと思いながらその場を去った。


王太子の寝室は下の階の喧騒も届かず、静かだった。

私はベッドに洗濯したてのシーツをかける。

もうこの仕事も慣れたものだわ。しわをのばして緩みなくぴっちりと整えると、私はいつものようにベッドの下も確認した。

それから窓を開けて空気を入れ替える。もう日はすっかり沈み、空には宵の明星が出ていた。今夜は晴れているから星がよく見えそうね。

窓から下を見下ろすと、兵士たちが松明に火を灯し始めているようだった。ちょうど例の薬草売りの女が用事を終えて宮殿を出ていく姿も見える。

あら、彼女とすれ違いに三人の女たちが門を通ってこちらへ向かってくるわ。先頭を歩いているのはデュボワ公爵令嬢のマルティーヌ様だと、私は確信した。





夕刻にみんなが執務室に集まったとき、王太子は次のように言った。

ランベルト侯爵の手の者が花や薬草を売る女に変装して宮殿を訪ねてくること、またデュボワ公爵の娘が屋敷のメイドと一緒に隣国のメイドとして偽ってやってくること。

これらの対応について、王太子は言った。


「彼女たちを追い返す必要はない。皆は普段通りの対応をしてほしい……いや、むしろ受け入れて、騙されたふりをしてくれたまえ。そして彼女たちの行動は逐一私に報告するように」


今回の王太子はどうやら本気のようだ。おそらく彼女たちに関する情報はジャンが掴んだものなのだろう。

これを機に二人を捕らえたいと言っていたけど、ここまで大がかりなら、ほんとうにうまくいくかもしれないわね。





私は寝室の窓を閉めると、王太子の着替えを取りに再び洗濯室の方へと向かった。


玄関前では、薬草売りの女を見送った侍女長が、何か書き物をしていた。すれ違い様に彼女に「デュボワの三人がまもなく到着です」と伝える。

侍女長は私の言葉に頷くと、書きつけたメモと先ほど受け取った例の解毒剤を、近くに控えていた侍従に「これを今すぐ殿下に」と言って渡した。


洗濯室に入る直前に、後ろから使用人用出入口の扉の呼び鈴の鳴る音が聞こえた気がした。




「殿下の服ですね? こちらです」


洗濯室に入ると、洗濯メイドが籠ごと服を渡してくれる。今日も相変わらず山盛りだった。

全く、王太子は一日に何回着替えれば気が済むのかしら。

私は礼を言って山積みになった籠を受け取ると、洗濯室を出た。


籠を抱えながら、再び使用人用の玄関の前を通る。

今度は侍女長は来客である三人の女たちと話をしていた。


「……それではあなた方はイザーク国のメイドだと、そういうことですね?」


「そうよ。これが証拠のブローチ。ディートリンデ殿下にいただいたの」


侍女長が見ている横から、私もちらりとそのブローチを見た。

確かにイザーク王家の紋章が見事に刺繍されている。あんなのどうやって手に入れたのかしら。


私は立ち止まることなく籠を抱えて王太子の衣装室に入った。

部屋には先輩のフランシーヌがいた。主人の夜着の準備をしていたようだ。彼女は支度を終えると、私が持ってきた王太子の服の山積みを見て「手伝うわ」と言ってくれ、一緒に衣装棚に戻し始めた。


「例の三人が来ました」


私が手を動かしながらぼそりと言うと、フランシーヌは「そのようね」と声を潜めて頷いた。


「殿下の言った通り、イザークの紋章も持っていた?」


「はい、見事な刺繍でした」


「全くどうやってそんなの手に入れるんだか……とにかく、いよいよね。寝室の準備は?」


「済ませました」


「ここまでは完璧ね。あくまで狙い目は夜だけど、何をするかわからないから、十分気をつけましょ」


そのとき、部屋の外から「レリア、いますか」と侍女長の呼ぶ声がした。

フランシーヌは「残りの片付けは私が」と言ってくれたので、彼女に任せて私は衣装室を出た。


先ほどの使用人用の玄関前まで行くと、侍女長が来たばかりの三人の女たちを私に紹介した。

こうしてよくよく見ると、彼女たちのお仕着せは、やはりこの城の物とは違うわね。


「こちらはイザークのメイドの方々です。長旅でお疲れのようなので、使用人用寝室に案内して差し上げなさい。これは部屋の鍵よ」


差し出された三つの鍵を受け取ってから、私はちらりと視線を向けて三人の顔を見た。

後ろにいる二人はおどおどしたように下を向いているが、一人、真ん中に立つ彼女は背筋を伸ばしてつんと上を向いている。

普段と化粧を変えて誤魔化しているようだが、もって生まれた横柄な態度は隠し切れていない。こんなのに騙されるふりをするなんて、とんだ茶番だわ。


「承知しました。どうぞこちらへ」


私は頷くと三人を引き連れて二階へ上がった。




宮殿で働くメイドたちには小さな部屋がそれぞれ与えられている。ベッドと机と椅子があるだけの部屋だが、相部屋でないところが良いとメイドたちに評判だった。

ズラリと並んだその廊下へ行くと、私はそれぞれの部屋の鍵を一つずつ開けて、三人を案内した。


「お食事はどうなさいますか?」


「結構です。疲れておりますので早くに休みますから」


高飛車な言い方に、私は心の中で小さく驚いた。この人、これでもメイドに化けているつもりかしら。貴族令嬢は皆役者のようだといつか王太子が言っていたけど、あれは大嘘ね。


「かしこまりました。ではまた明日」


そう言うと、私は身を翻して再び一階へ戻ろうと歩き出した。

後ろの方から私を見つめる視線を感じる。きっと私が去った後に三人で会議でもするのね。

おあいにくさま、私がここからいなくなっても天井裏にはあなたたちの会話を聞いている人がいるのよ。

私は小さく笑みを浮かべながら階段を下りた。



彼女――デュボワ公爵令嬢マルティーヌはきっと夜まで部屋から出てこないだろう。遅くに寝静まっているところを見計らって部屋を抜け出してくるに違いない。


気になるのは先ほどのランベルト侯爵の手先、薬草売りの話だ。

王太子のもとへ毒入りお菓子が届いたですって? 侍女長も知らないようだったから、きっと秘密裏に届いたのね。そんなものを送りつけるなんて大した度胸の人がいたものだわ。


しかし先ほど執務室にいた王太子は憎らしいくらいにぴんぴんしていた。ということは王太子は毒の正体にとっくに気づいていたのか、あるいは手をつけなかったかということになる。

そういえば、侍女長は薬草売りから受け取った解毒剤とやらを王太子に渡しただろうか。

あれだって十分怪しい。そもそも王太子のもとに毒入りお菓子が贈られたことをどうしてあの薬草売りが知っていたのかしら。

考えれば考えるほどに謎が深まる。


階段を下りていくと、給仕係の青年が「あ、レリア」と声をかけてきた。


「侍女長が、殿下はこれから晩餐だから執務室にあるお茶のカップを下げてくれって言ってたぜ」


自分の操の危機が迫っているというのによく食欲が湧くわね。

私は「わかったわ」と返事をして王太子の執務室へ向かった。


広い宮殿内を歩いていると、すれ違うメイドや従僕たちはやはり緊張したような表情を浮かべている者が多い。しかし誰も失敗などせず、いつものように仕事をこなしている。

さすがだわ、宮殿で働く人たちはみんな優秀ね。ジャンもきっと、そのうちの一人だわ……そんなことを考えながら歩いていると、曲がり角で二人の男性と鉢合わせた。


「失礼しました」


私は頭を下げてすぐに壁際に寄った。二人の足元が視界に入る。

あら、一人は王太子じゃないの。

いつも床をカツカツと鳴らして歩いている鹿のようなすらりとした足の持ち主は、レリアの記憶の中で一人しかいなかった。

もう一人は足だけではわからない。その足の人物がこちらを向いて訝しげな声を出した。


「おや、もしやあなたは……モルドレッド子爵家のレリア様では?」


名前を呼ばれて、私はふっと顔をあげた。


「これは……ギロー伯爵様」


目の前にいるのはあのジョゼフィーヌの父、ギロー伯爵ではないか。

一体なぜ彼がここに。


「やはりそうでしたか」


ギロー伯爵は後ろに立っている王太子に「殿下、少しすみません」と断ってからこちらを向いて小さな笑みを浮かべた。


「いやあ、お会いできてよかった。どなたかに嫁ぎ、社交界から離れて宮殿勤めをなさっているとお聞きしましたが、ほんとうだったのですね。ご結婚おめでとうございます」


ギロー伯爵は穏やかな口調でそう言ったのに、私は心の中で驚きの声を上げた。

彼の娘があのジョゼフィーヌだなんて信じられない。伯爵自身が人格者だということは聞いていたが、ここまで違うとほんとうに親子なのかと疑いたくなる。


「レリア様、あなたにはお礼を言わねばと思っておりました」


ギロー伯爵は続けて言った。


「以前宮殿で開かれた舞踏会の日、噴水に落ちた娘にドレスをお貸しくださったと伺っております。あのときはほんとうにありがとうございました」


ああ、そうだったわね。

私にとっては遠い記憶だったが、伯爵は丁寧に胸に手を当てて敬意を示してくれた。

もう私は貴族のご令嬢ではないのに。


「当然のことをしたまでですわ。お役に立ててよかった……ジョゼフィーヌ様はお元気でいらっしゃいますか」


挨拶程度に尋ねたつもりだったが、私の問いに伯爵は顔を曇らせた。

あら、訊いてはいけないことだったのかしら。


「残念ながら娘は、まだ分別がつかないようだ……困ったものです。今日も殿下にご迷惑をかけてしまった」


伯爵が暗い声で言うと、後ろに立っていた王太子が口を開いた。


「そう気を落とされるな、伯爵。あなたがここに参られたことは、私にとって幸運だった。正直に申し出てくれて感謝しているのだ……さあ、こちらへ。レリア、悪いが執務室の食器の片付けを頼む」


王太子はそう言って伯爵と共に去っていった。

あの様子だと、ジョゼフィーヌがまた何かやったらしいわね……父親という存在は大変だわ。



辿り着いた執務室の扉を開けると、部屋の中はもう真っ暗だった。

私は自分の持っている燭台の灯りを頼りに、執務室の茶器を片付けにかかった。

机の上に何か今夜のことに関する手がかりが置かれているかもと期待したが、茶器以外のものはきれいに片付けられている。

さすがは王太子、油断がないわね。諦めて茶器を盆に乗せて部屋を出ていこうとして、装飾の施された長椅子が目に入った。


昼間、王太子にお茶を出しに執務室へ来たとき、ジャンがここで眠っていた。

よほど疲れているのか、私が近づいても彼はちっとも目を覚まさなかった。初めて見る寝顔に心から愛しさが込み上げてきて、王太子に頼んで紙とペンを借り小さなメッセージを書き残したが、彼は気づいてくれただろうか。


私は身を翻して盆と燭台を持ち、部屋を出ていこうとした――そのときだ。

後ろでかすかな音がした気がした。


振り返ると、暗がりの執務室の真ん中には上から下まで黒い服の人物が立っていた。彼は口元を覆っていた布を取ると、目を細めて「レリア」と言った。


「ジャン……!」


私は嬉しさのあまり燭台も茶器が乗った盆も抱えたまま彼に駆け寄って抱きつこうとした。それに気づいたジャンが慌てて私から燭台と盆を取り上げたので、それらを床に落とすことなく私は彼の胸に飛び込むことができた。


「……ちょ、あ、あぶな……っ!」


すぐ上からジャンの焦った声が聞こえてきて、私は彼の胸の中でふふふと笑った。


「ごめんなさい、だって嬉しくて」


顔を上げると、燭台に照らされた彼の赤い顔がよく見えた。眉をぎゅっと寄せて困ったようにこちらを見下ろしている。ああ、ほんとうにジャンだわ。

私はもう一度ぎゅっと彼を抱きしめてから、すっと腕を離した。


「今は持ち場を離れて大丈夫なの?」


ジャンは少し目を泳がせながら頷いた。


「警戒態勢の時間までまだ間がある……その、昼間はありがとう、寝てる俺に毛布をかけてくれたってきいた……手紙も読んだ」


よかった、気づいてくれたのね。

彼を見ると、どうしてもにこにこするのをやめられない。


「こうして会いに来てくれるなんて思わなかったわ。寝る間もないほどに忙しかったんでしょう?」


ジャンは首の後ろに手をやった。


「ちゃんと仮眠はとってるよ。こういう生活は慣れてるし、無理はしてない」


「じゃあ心配はさせてちょうだい。もうあなたの妻になったんですもの、口うるさく言わせてもらうわ。形ばかりの妻ですけどね」


私の言葉に、ジャンはまた顔を赤くして床を見つめたまま黙ってしまったが、手に持っていた燭台とお盆はすぐ近くの棚の上に置いた。

どうやらまだ話を続けるつもりらしい。


彼は小さく咳払いをしてから言った。


「そ、その……王太子から今夜の話は聞いた?」


「ええ、ランベルト侯爵令嬢とデュボワ公爵令嬢を捕らえたいという内容はだいたい聞いたわ。薬草売りは王太子が毒を口に入れたときのためにって解毒剤を侍女長様に渡しただけで帰っていったし、イザーク出身を名乗る三人の侍女も受け入れて、今は使用人用の寝室にいるはずよ」


私の話を聞くと、先ほどの照れた様子だったジャンは急に真面目な顔になって「解毒剤……」と呟いて考え込むような表情になった。これが仕事の顔なんだわ。

私は「あ、そうそう」と思い出した。


「さっきここに来るまでに王太子とすれ違ったのだけど、あのジョゼフィーヌの父親のギロー伯爵も一緒にいたの。一体どうしたのかしら」


「ああ、それは……」


ジャンは苦い笑みを浮かべた。


「王太子に毒入りのお菓子を送りつけたのはあの伯爵令嬢なんだ、しかも差出人をディートリンデ王女に仕立て上げていた」


「なんですって?」


犯人はジョゼフィーヌだったのね!

しかし、よく考えてみたらあの人はやりそうだわ。私だって一服盛られそうになったことがあるのだから。

ジャンは続けた。


「調べによると、菓子に含まれていた毒はほんの少量で少しめまいがする程度のものだった。もちろんあの娘も王太子を殺すつもりはなかった、ただ差出人を王女にすることで、明後日の婚礼を阻止できると思ったらしい」


「ディートリンデ様から毒の入っている物が届けられたとなれば、事は一大事ですものね。国家間の亀裂にもなり得るわ。なんて大それたことを……」


「もちろん、材料の出所を調べればすぐにほんとうの差出人がわかる。ギロー伯爵はちゃんとそれをわかっていたから、宮殿まで謝罪に来たんだ」


それであんなに浮かない顔をしていたのだわ。私は伯爵に同情の念を抱いた。


「王太子はお菓子を召し上がったの?」


「いいや、彼はそれが普通の贈り物ではなく誰かの罠だと勘づいていた。箱を開けてもいない」


さすがは王太子、用心深いわね。

それじゃあ、夕刻に来たあの花売りの解毒剤は必要なかったんだわ。開けていないというのなら、匂いすら嗅いでいないんだから。


「でも、薬草売りの人はどうして王太子に毒入りお菓子が届いていると知っていたのかしら。ランベルト侯爵の手の者とは聞いているけど……」


私の問いに、ジャンは目を細めた。


「あの薬草売りは……俺の同業者だ、おそらくあらかじめ調べておいたんだろ」


ジャンの同業者! ちっとも気づかなかったわ。王太子に薬を飲むように言うときなんか、演技とは思えないほどだったもの。

それからジャンは考え込むようにして言った。


「でもわからないな……その女はどうしてわざわざ、飲むかもわからない解毒剤を届けに来たんだ。事前に調べているんなら、菓子の方は少量の毒だとわかってるはずなのに」


確かにその通りだ。解毒剤なんて、毒を飲まない限り必要ではないものね。

だがあの薬草売りの人は、どうしても飲んでほしそうにしていた、まるで懇願するような……侍女長様に何と言って渡していただろうか。

私ははっとした。


「……あの人、しきりに解毒剤を飲んでほしいと言っていたわ。毒入り菓子は匂いを嗅いだだけで毒が回るから飲んだ方がいいなんて言っていたし、疲れが取れる秘薬が含まれているからどうかと言っていた。つまりあれは……」


「解毒剤じゃないのか」


ジャンが私の言葉を引き継いで言った。

そう、あれは解毒剤ではない、別の薬なのだわ、例えばランベルト侯爵にとって有利となるような薬。

私は背中がひやりとするのを感じた。


「……侍女長様も王太子ご自身も用心深い方だから、飲んではいないはずだけど、一応知らせておいた方がいいわね」


私は棚の上の豪勢な装飾の時計を見た。侍女長が浴室準備に回っている頃だ。茶器を片付けたらすぐに報告にいかなきゃ。

私は、ジャンが置いた棚の上の燭台とお盆を手に取った。


「それじゃもう行くわね、くれぐれも気をつけるのよ」


しかし、ジャンは「あっ、ちょ、ちょっとまって」と慌てたように私を引き止めた。


「その……王女の輿入れの日のことだけど」


急に話題が変わった。しかし、彼がこうして引き止めるということは、彼にとってこちらが本題だったのかもしれない。

話しているジャンは先ほどの殺伐とした雰囲気から一転し、また床を見つめているが。


輿入れの日。それは私とジャンが休みを取っている日だ。王太子からも許可を取っている。


ジャンは床を見つめながら続けた。


「王太子から訪ねてほしいと言われている家がある」


ああ、そういえばあの男、私にもそんなことを言っていたわね。理由を尋ねても行けばわかるの一点張りだったけど。全く、人の休みをなんだと思っているのかしら。


「ええ、私も聞いたわ」


「その、王太子の用事を済ませたら……その……その、お、お、俺たちの家を、さ、探したいなって思ってて。い、今、離れて暮らしてるから……」


俺たちの家!

私はその響きに聞き惚れた。自然にふんわりと微笑みが浮かぶ。


「そうね。二人で暮らすなんて夢みたいに嬉しいわ……ぜひそうしましょ」


ジャンは私がそう言うのを聞いて、ほっとしたような表情になった後、小さく口の端を上げた。


「よ、よかった。それじゃ……また」


「あっ、ねえまって」


私はまた棚の上に燭台とお盆を置いた。そしていそいそと前のように彼の頬に口づけようと、背のびをして彼に顔を近づけた。


「だ、だ、だ、だめだ!」


急に彼の手のひらが私の顔を押さえて遠ざける。

な、なに?


ジャンは焦ったように言った。


「レリアからその、キキキ、キスをされると、その後しばらく何もできなくなる。今、されると困る……その、ごめん」


彼はそう言いながら私の顔から手を離して背中を向けた。なんだかしょんぼりと小さく見える。私を拒絶したことに自分で落ち込んでいるらしい。

急に抱きしめたくなったが、きっとそれも彼は拒むだろう。

私は小さく笑い、だらんと下げた彼の片手を両手でぎゅっと握ると、彼は振り払わずにこちらを向いてくれた。よかった、これは大丈夫なのね。


「わかったわ、キスは輿入れの日まで取っておくことにする。またね、ジャン」


そう言って手を離すと、私は燭台とお盆を持って、今度こそ執務室を後にした。




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