第三五話
できました。
プールの建物から外に出ると唐突に色彩が戻ってきた。
どうやら陽川に気付かれないように極めて狭い範囲に絞って展開しているようだ。
時計を見るとどういうことか巻き戻っており七時手前位になっている。
窓からさし込む光も低めで深夜には程遠いように見える。
「スマホの時計もそうなってるな」
ウーラヌスが死ぬという事実が決定したために巻き戻ったのかもしれない。
そんなことを思いながら歩を進める。
何にせよ木下を送るのに遅すぎない時間というのは助かる。
そんなことを考えながら保健室に向かう。
「木下? 起きてるか?」
戸を開けながら呼びかける。
返事がないので進みベッドを囲っているカーテンを開く。
窓から入ってくるかすかな光は木下の顔を照らしている。
その顔立ちに思わず見入る。
メガネが外され、目元は前髪に隠されているが、見えているラインだけでもその造形が優れていることがわかる。
軽く結ばれている唇はよく見るとドキリとするほど肉感的だ。
布団が掛けられているその体の起伏は猫背から解放されたからかはっきり見て取れる。
「……」
フラフラと近寄り前髪を払う。
その下から出て来たのは化粧の気が全くないが絵画のように整った容貌だった。
「……?」
そこで疑問に思うのがなぜ普段はあれほどおどおどしているのか?
という事だ。
陽川や月宮を見慣れた俺でもハッとするほど整った容貌をしている。
わざわざ目立たないように気を付けているとしか思えない。
「気になりますかぁ?」
背後から聞きなれ始めた気の抜けた声が響く。
そちらを見るとボコボコにされたヒュプノスがいる。
「時間おかしくないか?」
「途中でウーラヌスが舌噛んで死んじゃったんですよ」
「ああ、なるほど自決したのか」
その言葉にうなずきながらこちらに近づいて背を向けた。
すると気付くのは後ろ髪ばっさり切られてさらに服の背部から血がにじんでいることだ。
「おい!!大丈夫なのか!?」
異様な光景に慌てて声をかける。
するとヒュプノスはいつものように呑気な声で話す。
「固まった接着剤はなかったことになったんですが、ついでに固まっていた場所を持っていかれました」
「呑気に言ってる場合じゃないだろう、応急処置だけでもしないと――」
だから俺に背を向けたんだと気づいく。
慌てて服に手をかけようとして固まる。
その流れは予想していたようにヒュプノスはどこか楽し気に聞いてくる。
「どうしたんですかぁ? 脱がさないんですか?」
「やるよ!!」
半ばやけになって手をかけたとき――
「お や なに るの?」
とそんなか細い声が聞こえる。
そちらを見ると目を大きく見開いている木下と目が合う。
前髪を払われたことにまだ気づいていないようだ。
そこで俺は客観的に俺の今の状況を思い返す。
養護教諭の衣服に手をかけ脱がせようとしている犯罪者だ。
「ちが!! 木下 これは!?」
そこでクスクスと笑う声が聞こえる。
声の主はヒュプノスだ。
こんな状況だからこそ人を落ち着かせる声が威力を発揮するようでつい耳を傾けてしまう。
「ちょっとした事故で大谷君に治療をお願いしたところなんですよぉ」
そこでヒュプノスは木下に提案した。
「木下ちゃんが起きたのなら、同性の木下ちゃんにお願いしようかしら?」
「ぁ はい」
その声にのまれるようにして木下はうなずいた。
俺は心底ホッとして離れる、
その瞬間、ヒュプノスが悪戯っぽい笑みを浮かべて話しかけてくる。
「残念でしたかぁ?」
「勘弁してくれ」
本心からそう答えて離れて保健室から出た。
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外に出て一息つく。
なんだかんだでセクハラまがいの事をされかかり緊張していたようだ。
唐突に降って湧いた危機をしのげた。
一番体を張ったのは間違いなくヒュプノスでそこは感謝しないといけないが――
「どうにもつかみどころがないんだよなぁ」
常に一歩も二歩も下がって、無責任に傍観しているような不気味さがある。
そもそもこっちに来た理由もよくわかっていない。
極端な話、陽川を力押しで倒せないから日常で事故死させに来たり、精神的にどうにかするために来た可能性もある。
一切信用できない相手だ。
ゲームのペナルティのせいで色々制限があるため思い切った行動ができないが隙を見て何かを行いたいと思っている。
「ああ、クソ、なんだってこんなことに……」
頭を掻いて悔やむ。
が、ずっと悔やんでいても仕方がないので一旦脇に置いておく。
すると思うのがついさっき分かった事実だ。
「木下、眼鏡なくても見えたんだな」
起きてすぐ気づいたという事は裸眼でも見える証拠だ。
木下が目立たないようなやぼったい恰好をしているのはコミュニケーション能力を隠すためという意味もあるだろう。
だが、同時にただ見せるだけで目を引いてしまうあの容貌もあるのかもしれない。
特に根拠はないがなぜかそう思った。
「……もしかして木下の過去に関係があるのか?」
ポツリとそんなことを漏らす。
たくさんの男が死んでいた過去。
そこまで考えて首を振って否定する。
「ありえないな」
別に一人を奪い合って殺し合ったわけではないだろう。
それにその時は年齢的には中学生だ。
大の大人がそこで入れ込むなんてありえない。
そう自分の中のある考えを打ち消すように繰り返す。
きっとそれを認識してしまったらそれを意識しないといけないからだ。
「木下は変わったやつだけどいい人間だよ」
セリフを口に出す。
それによって自分の意識を決定するようにつぶやく。
新しくできた友人だと思うためにだ。
「そう、友人だよ」
脳裏に浮かぶのは薄明りに照らされて寝ていた姿だ。
無防備ともいえる寝顔が思わず浮かんでくる。
そこで俺は頭を振って振り払う。
「ああ、クソ、調子が狂う」
ぽつりとつぶやく。
すると視界にきらりと光るモノが見える。
気になって近づくと――
「これって、ハナアルキの標本か……」
一度手元から離れた物がこうしても拾うことにどこか背筋に寒気を感じる。
手に取った以上また捨てるのも忍びないので持ち帰ることにする。
そこで気づくのは――
「あ、そういえば通学用のかばんが手元にないな」
思い返せば木下の鞄も保健室に置かれていなかったということだ。
とりあえずただ待つのも手持無沙汰なので、俺と木下のかばんを探すために夜になってゆく校舎内を探すことにした。
明日も頑張ります。