第三四話
できました。
「しぃえぁっ!!」
閉じた空間の中若干反響する。
あたりには有機溶剤独特のツンとする匂いが満ちている。
わずかな光に照らされて細かいディテールが見ることができない。
空になったプールでの戦いはウーラヌスが優勢だ。
「なかなかうまくいかないですねぇ」
三個目のポリタンクを投げつけながらヒュプノスがしゃべる。
それのポリタンクを足刀で粉砕してウーラヌスがしゃべる。
「ワンパターン!!」
わずかに光るマッチの火をまた一動作で消したようだ。
その口調には自信が満ち溢れている。
「多分燃やして殺すつもりなんだね」
こちらの策を読んでいるそんな侮蔑に満ちた口調で話し続ける。
ポリタンクの中の液体がばら撒かれ足場が悪いはずなのに軽やかに飛び跳ねているように見える。
対するヒュプノスはゆっくりと下がるような動きで何とかしのいでいる。
「これが燃料じゃないのは勢いよく燃やしすぎないためだね、大方こうやって薄暗い中でやってるのも視覚をごまかして火をつけるつもりなんだろうけど、火をつける音くらいは聞き分けられるよ」
「さぁ、どうでしょうね」
いつものようにフワフワとした口調で答える。
が、俺は内心冷や汗をかいている。
火をつけたら死ぬだろうという見通しがあったからだ。
「まぁ、正しいねっ!!」
離れていてもよく聞こえる鋭い風切り音がする。
外では一瞬輝きが見える。
どうやら外の大物は陽川に倒されたらしい。
ここに気付いてもらうのは望み薄だろう。
「ああ、死んじゃったか、でも僕が昔のことを思い出せたら関係ないね」
「けっこう狂った事言ってますよ?」
ヒュプノスがそう呟き下がった。
その瞬間に二発の破裂音が響いた。
離れたヒュプノスの左手は力なくぶら下がっている。
「本当の僕を取り戻したいってことがそんなに変な事かな?」
抑揚なく話すその目は仇を見るような目だ。
その視線を受けているヒュプノスはいつもの調子で返す。
「覚えていないことをどうして素晴らしいものだと思っているんですか?」
「たとえそうだったとしても、忘れてなかったことになり続けるよりはましだ!!」
三度破裂音が響き、こちら側によろめく。
そしてそれが連続した。
「が……ふぅ、効きますねぇ」
どこかとぼけたような口調だが、その両手はブラブラと揺れており、顔も半分腫れている。
プールの脇につくられている排水溝に後頭部を乗せ立っていることすら辛そうだ。
とどめを刺すためにウーラヌスが飛び掛かってくる。
「くっ!!」
慌てて脇に残っていたポリタンクの蓋を緩めて投げる。
あたりに有機溶剤の独特の臭気が満ちて気分が悪くなる。
「は!!」
それらをすべて迎撃し。
余裕の表情で語る。
「なんならそこの人間から殺すよ?」
少しだけ離れてボクシングのような構えを取りながら俺を示して話す。
そこまで行くとさすがにヒュプノスも降参したのか口を開く。
「ふぅ、やるだけやったけど無駄だったみたいですねぇ」
「わかればいいんだよ、あ、そこ人間逃げるなよ」
「わかった」
頷いてその場に残る。
この距離なら俺が背を向けた瞬間に一撃いれることができるだろう。
「さーて、ヒュプノス、全部話してもらうよ」
体重を縁に預けたままヒュプノスはため息をつく。
顔は天井を向けたままで手を仰ぎ見て諦めているように見える。
「そう……ですねぇ、ウーラヌス、あなたが思っているようにあなたのかつての名前は違います」
「!! やっぱり」
その声は弾んでおりどこか楽しそうだ。
が、それでも俺の方に注意を向けているのはわかる。
まだ動かない方が良いだろう。
「……そういえば――」
ふと疑問に思ったことを口にする。
ウーラヌスは一つ舌打ちをするが、鷹揚に促した。
「僕は今機嫌がいい、良いよ」
「……ヒュプノスならなんで知っていると思ったんだ?」
そこでウーラヌスは言葉に詰まるが取り繕うようにしてまくしたてる。
都合の悪いことを聞かれた子供、あるいは老人のようだ。
「ハナアルキの標本を持っていた!! これを持っているなら関係ないはずがないだろう」
その言葉に違和感を感じる。
そもそも本当にハナアルキがウーラヌスの過去に関係があるのかという事だ。
が、それを飲み込む。
いま激昂させるようなことを口走ったらおしまいだ。
その空気を読んだのか、ヒュプノスは俺に抗議の視線を向ける。
それに対して目線だけで謝る。
「そう思うのはそこまでおかしくはないですね」
「そうだろう!!」
肯定に近いその言葉にやや食い気味で乗っかった。
もう少し時間があったら口先だけで丸め込まれていたかもしれない。
などとぼんやり思いながらヒュプノスの言葉を待つ。
「わたしがあの標本を持っていた理由は離すと長くなるんですが聞きますか?」
「いらない、手短に」
なかなかわがままなその返答に困ったような口調で話し始める。
「とある島、として置きましょう、そこの島はとても変わった生物が生きていて元々好奇心の強い存在だったのでそこから来た人からも生きている状態でもらったんです」
そこでいったん言葉を切る。
そして深呼吸をして話を続ける。
「つまり私はあの標本が生きていた時代を知っています、核実験で滅んだって言われている島ですが、本当はそれよりずっとずっと前に滅んでいました」
「な……に?」
ウーラヌスが完全に動きが止まり――
「そんなわけあるか!!」
激昂し跳び――掛かれない。
「なに!?」
それは流石に予想外なのかかなり戸惑っている。
それを見てようやく俺は動く。
プールの照明をつけるためだ。
「っ!?」
室内の明かりをつける。
色彩が落ちた世界だが、ある物がはっきりと見える。
ウーラヌスとヒュプノスその二人の体にはべったりと白濁した樹脂のような物が付いている。
特にウーラヌスの体は足首と手首から先が顕著だ。
「接着剤ですよ」
接着剤で頭ごと壁面に張り付けられたヒュプノスが話す。
それを見ながら端から残ったポリタンクの蓋を開いて粘性を持った液体である接着剤をながす。
プールの底は傾斜が付いているので流れてゆき、床に立っている障害物――ウーラヌスの足で一旦たまる。
「は? そんな感覚全くなかった――まさか!!」
「触覚を上書きさせてもらっていたんですよぉ、べたつきや粘着する感覚なかったでしょ? そんなのいじるなんて思ってなかったから」
ここまでの量の接着剤を集めるのは大変だった。
ホームセンターを何軒も周り、事務用の小さい物すらかき集めて何とか用意した。
「だがこれで僕は殺せないよ!!」
「ふふ、さて質問です……ここはどこですか?」
「は?」
呆けた声がする。
が、それを無視してさっきながし込んだ接着剤が固まり始めているのを確認する。
「じゃあ、水入れてくる」
「まて!! クソ!! とどかない!!」
足が固定されているだけでなく、様々な部分が張り付いているせいで思うように動けない様子だ。
それに対してヒュプノスは余裕をもって話している。
「無駄ですよ、リムーバーでも使わないと」
「くそぉ!!」
ウーラヌスは叫ぶ。
が無駄なようだ。
「さて、大谷君は水がたまり始めたのを確認したら帰った方が良いですね、じわじわ溺死する光景なんて楽しい物ではないですから」
「わかった」
頷いてポンプ室に向かう。
あらかじめ聞いた通りの操作をする。
しばらくすると――
「たまり始めましたよぉ」
そののんきな言葉と悲痛なウーラヌスの叫びを背後に置いて保健室に木下を迎えに向かった。
明日も頑張ります。