第三一話
できました。
できるだけ時間稼ぎをしようとはしても大した距離もない校内だ。
そこまでかからず保健室についてしまった。
気が重くなりながら戸を叩いて返事を待つ。
するとすぐに返事は来ずに数呼吸待ってからようやく扉が開く。
「お帰り~」
色彩の落ちた保健室の中。
落ちかけた陽の中でヒュプノスはひらひらと手を振り迎え入れる。
木下はこっちを見ている。
視線を隠していた前髪はヘアピンで軽く上げられている。
「あ――」
返事をしようとしたその瞬間、背後の奴が声を上げる。
声には殺意に近い怒りがこめられている。
「ヒュプノスぅっ!!」
そのまま襲い掛かるのかと思ったら、唐突に止まる。
そして忌々しそうにつぶやいた。
「くっ!!」
一瞬疑問に思うが、あることに思い至る。
木下だ。
木下はこっちを見ており、声の感じからすると俺の体にすっぽりと隠れている。
つまりこの状態なら俺からも木下からも見えていないのだ。
「あらあらどうしたんですか?」
「それ以上はやめろ!! 僕の名を言うな!!」
懇願するような言葉の為か流石にヒュプノスもそれ以上言葉を続けるのをやめる。
何か起きているのか全く分かっていない木下は疑問でいっぱいの顔をしている。
「ぇ に ?」
「は? そこの君何言ってるのかわかんないんだけど」
後ろの奴が木下に鋭い声で言葉を浴びせる。
その言葉を受けて木下は明確に挙動不審になる。
呼吸が早くなり明らかに危険だ。
「おま――」
「君もあんまりなめてるとひどい目を見るよ」
と言って何かを突きつけられる。
見えていないが理解できる、凶器だ。
それこそ一動作で俺が死にかねないレベルの物だ。
「はいはい、そこまでにしておきましょうねぇ」
と言ってヒュプノスは木下を背後から抱きしめる。
上背があるためすっぽりと腕の中に納めた。
抱きしめられることで木下は段々と落ち着きを取りもどしていく。
それを見ていた俺に対してヒュプノスはどこか悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「ふふん、どう? 大谷君うらやましい?」
「そんなわけないだろう」
「あら残念」
コロコロと楽しそうに笑う。
その笑い声に洗い流されるように一触即発の空気が霧散する。
相変わらず後ろの奴は俺に何かをつきつけているが無言だ。
「っち!!」
忌々しそうに舌打ちをして引き下がった。
とりあえずこの場は収まったらしい。
そのことに胸をなでおろす。
すると後ろの奴がヒュプノスに向かい話しかける。
「ヒュプノスだったんだね? これを持ってたの。」
どこかとげのある口調でヒュプノスに話しかける。
盗人を責めている様子を思い浮かべてしまう。
その言葉が向けられているヒュプノスは木下を抱きしめたまま、ほほえみすら浮かべている。
その様子が見えているのが後ろの奴はいらだった様子でもう一度声をぶつける。
「どうなのさ!! ヒュプノス!!」
「そうは言われても答えるギリはないですよぉ」
「なっ!?」
明らかに怒りのボルテージが跳ね上がった。
それをしっかり感じ取っているはずなのにヒュプノスは飄々と受け答えをしている。
だから殺気を込めて俺にまた何かを突きつける。
「この人間が死んでもいいの? 何かを渡す程度には親しいんでしょ?」
「それは困りますが――」
そこでどこかほほえましい物を見るような表情を浮かべて話を続ける。
「そっち名前すら名乗ってないでしょ?」
「なっ!?」
後の奴は明らかにうろたえる。
痛いところを突かれたようだ。
俺からしたら不思議で仕方ない。
ヒュプノスは明らかに後ろにいる奴を知っていて名前を言いそうになった。
だが、知らないと言っている。
明らかにおかしい。
「さあ、名乗ってもらいましょうか? あなたの名前は何ですか?」
「――っ!!」
ヒュプノスの言葉への答えを持ち合わせていないように明らかに詰まる。
そして思い出すのが夢の中でのヒュプノスとの対決だ。
結局負けたがそこで重要だったことは――
「契約と名前……」
「そうですよぉ、それが大切です」
俺の言葉にヒュプノスは軽く手すら叩いている。
それと対照的に後ろにいる奴は明確にうろたえている。
「……僕の名前が何であれ!!」
何かを振り払うようにして声を荒げる。
暴力という意味では後の奴とヒュプノスではどちらが強いのかは分からない。
しかし精神的な戦い、舌戦とでもいうべきものはヒュプノスの方が上だ。
いや、どちらかというと後ろの奴はそれ以前の問題な気がする。
自分自身が何者であるのかすら知らないのだと思う。
そしてそんな存在は言葉の続きを話す。
「これがなにかは知ってるはずっ!!」
言いながらヒュプノスに向かって標本の入った瓶を投げる。
きれいな放物線を描いて飛んで行った瓶を片手で受け取った。
その中身を見てヒュプノスは苦笑する。
「教えることはできますけど、なぜ知りたいんですかぁ?」
「なんででも知りたいんだっ!!」
その必死な様子にヒュプノスは苦笑しながら答える。
「おおかた懐かしさを感じたからでしょう?」
「そうだよ!!」
半ば以上叫ぶような答えだ。
それほどまでに切実な願いなのだろう。
その叫びをぶつけられたヒュプノスは楽しげに笑いながら返事をする。
「自らの過去の手掛かりになるかもしれない、そう思ったからでしょうが――」
そこでヒュプノスはいつものような笑みを浮かべて続きを言い切る。
「その感情すら刷り込まれた可能性は考えないんですか?」
「な……え……?」
今更気づいたことのように後ろの奴は完全に声に詰まっている。
ヒュプノスは相変わらず木下を大切に抱きしめている。
が、その目は今までのような悪戯っぽいようにも、眠そうにも見えるその目ではない。
深い夜空のように澄んで暗い目だ。
飲み込み、落ちてゆくような目だ。
見ているだけの俺がそうなのだから、視線を向けられている後ろの奴はどのように感じているだろうか?
直接顔を出していないが、体をこわばらせる様子がわかる。
「嘘だ!!」
叫んで否定する。
それをすれば自分の中の疑問を振り払えるよう用にも思える。
が、その様子をあの目で見ているヒュプノスは首を振り否定する。
その口調は対照的に子供を諭すように静かだ。
「自分が誰であるかもわからない存在なら、どうして確固たる過去があると思うんですかぁ?」
「ぅ……」
ヒュプノスのその言葉に明らかにうろたえている。
しばらく不穏ともいえる沈黙が流れる。
そしてそのあと不意に底冷えする声で後ろからこんな声が聞こえた。
「もういい」
明日も頑張ります。