幕骨 母娘
最初に異変を感じたのは、いつだっただろうか。
街の様子はゆっくりと、しかし確実に変わっていった。
数日前までは、本当に活気のある街だった。
笑顔が溢れ、街行く人達がいつも元気に挨拶する。
それが今は地獄のように変貌していた。
「絶対に手を離さないでねっ」
娘の手を握り、そう叫んだ。
左手で人形を抱きしめながら、娘は右手でぎゅっ、と力強く私の手を握ってくれた。
後はもう無我夢中だった。
目に見える景色はすべて絶望に染まっている。
昨日まで、一緒に笑っていた街の人達は、みんな別のなにかに変わってしまった。
「きょうの…さかな…は…しんせん…だよ」
魚屋のおじさんが屋台で自分の腕をさばいている。
「おくさん…おにく…おにくがいいよ…うま…うまい」
向かいの肉屋のおじさんは、自らの腕を美味そうに食べていた。
「ひぃ! いやうぁあっ!」
人でなくなった者が、まだ人である者を襲っている。
そして噛み付かれた者が、人でなくなっていく。
この世の終わりが、突然やってきた。
「走るよっ! 離さないでっ!」
もう一度、娘に呼びかける。
後ろを向いている余裕はなかった。
力いっぱい手を引きながら、人でなくなった者達の間を駆け抜ける。
少しでも噛まれたら終わりだ。
なぜ、こんなことになったのか。
骸の王。
そうだ。誰かがそんな名前を口にしていた。
御伽話に出てくる不死身の怪物の名前だ。
まさか、そんなものが現れ、街を滅ぼしたとでもいうのか?
考える余裕はなかった。
ただ必死に地獄のような街を駆け抜ける。
祖父が残した街外れの潰れた風車小屋まで行けば、助かるはずだ。
あの周辺には、今はもう誰も住んでいない。
「どけっ」
昨日まで笑顔で話していた人達を押しのける。
その中には、まだ正常な人もいたかもしれない。
「どけぇぇええっ!!」
それでも、私は全部突き飛ばして走っていく。
「たす…けて」
ぐちゃぐちゃと人だったものが、食われている音と、悲鳴がそこらじゅうから聞こえてくる。
私には救えない。
私が救えるのは、手を握る娘だけだ。
そのためなら、他なんてどうなっても構わない。
私は娘の手を引きながら、すべての音を遮断した。
風車小屋に辿り着いた時、私はようやく後ろを振り向いた。
もう、人でないものは辺りにいない。
助かったよ。
娘にそう言って笑いかけようと思った。
だけど、私は笑顔のまま、固まってしまった。
約束どおり、娘は私の手をしっかり握ってくれている。
だけど、そこには、娘の右腕しか残っていなかった。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁぁっ!!」
私の慟哭が響き渡る。
どこで、どこで、娘を失った?
いつから、その体重を感じなかった?
私は何をしていたのか?
どうして、振り返って確かめなかった?
いや、もうとっくに気がついていたんじゃないか?
……手を握った時から娘が人間でなかったことに。
ひたひた、と足音が近づいてきた。
右腕を失った娘がゆっくりと私の元に歩いてくる。
「お…かあ…さん」
変わり果てた姿でも娘の声は、変わらなかった。
左手には、いつものように人形が握られている。
一年前の誕生日に作った、不出来で不細工なお姫様の人形だ。
「やくそく…まもった…よ」
私は娘を強く抱きしめる。
「えらいね、ずっと一緒だよ」
もう二度と離れないで。
娘が私の首筋に噛みついても、私はずっと娘を抱きしめていた。