5-3
――そして。
およそ十五分の時が流れた。
「なあ、幸島。もう流石に分かってんだろ?」
背でマスターの声を聞きなながら、壁を向いたままの幸島は声を荒げた。
「はぁ!? 何の事っスか!? 全然分かんないっス!」
その様子に、笑いを堪えて声を上ずらせた。
「しっかし……本当に引っかかるとはな」
「何言ってんのか全然分かんないっス! つーかアイスコーヒーまだっスか!? もう十分以上経つんすけど! ちょっと遅くないっスか!? 一体どういう教育してんスか!?」
(チクショウ……チクショウ……!!)
結局、睦美に弄ばれた幸島は……壁に額を打ち付けギリギリと歯を鳴らした。
(ぐぬぬぬぬ……)
少し前の、思わず睦美にときめいてしまった自分の首をへし折ってやりたかった。
(チクショウ……)
チクショウーーー!!
「――お待たせしました。アイスコーヒー? です」
頭突きと歯ぎしりで声はほとんど聞こえていなかったが、気配と微かな物音を頼りに――グラスが置かれると同時に振り返り、引ったくった。
(目一杯口に含んで顔面に吹きかけてくれる!)
何だこれは!! これが売り物か!! 作り直してこい!!
そう喚くつもりだった。
マスターもグルなって自分をハメたんだ。このぐらいはやり返しても良いだろう。
これが……本人曰く、頭に血が上っていた割りに冷静に考えた結論。だそうだ。
そして、もしコーヒーを置いたのが睦美であれば、シャツが濡れて少し透ける……。
頬を染め、透けた胸元を隠す睦美……。
嫌らしい視線を送りながら、ニタニタと笑う自分。睨み付ける睦美……。
しかし――仮に、睦美が幸島に全裸を見られたとして、恥ずかしそうに頬を染める……?
あり得ない。
絶対にない。
そんな事は幸島が一番よく知っている。
冷静に考えたと言っているそれは、途中から何時もの都合の良い妄想とすり替わっていた事に、本人だけが気が付いていなかった。
コーヒーを一気に流し込み――咽せた幸島は思わず口に手を当てた。吐き出したそれは手に遮られ、ことごとく自らの顔に返った。
(な、なんだ……これ……)
口に含んだそれは、少なくともコーヒーではなかった。全身が拒絶する不快な香り……いや、異臭と言って良いだろう。加えて、ドロッとした舌触りはもはや食感と言って差し支えないレベルだ。
喉が拒絶し、飲み込む事も吐き出す事もできず半開きの口からビタビタと流れ出た。
思考は停止し、先程までの威勢も消し飛んだ……。
(チクショウ……チクショウ……)
結局……最後の最後まで……。
幸島の瞳に涙が滲んだ――
「幸島くん大丈夫? どうしよう……作り方間違えたのかな……」
目をしばたき、滲む視界に声の主を捉えた。
「レンゲちゃ――」
ハッ! と、幸島の瞳孔が開いた。
(まさか……レンゲちゃんも……)
「ああー、静馴ちゃんは関係ねぇよ」
幸島の心中を察したマスターが声を挟み、タオルを投げて寄越した。
静馴はマスターの言葉に疑問符を浮かべながらも、ビタビタになったテーブルと幸島を丁寧に拭きはじめた。
「ごめんね……。睦美ちゃんに幸島くんの好物だって教えてもらったんだけど……何か間違えちゃったみたい……ごめんね」
眉をハの字に寄せ、潤んだ瞳を向ける静馴……幸島の中にフツフツと怒りが沸き上がった。
(俺だけならいざ知らず……関係の無い人を巻き込んで……。しかも、よりにもよってこの人を……)
その時、階段から頭を突き出し、舌打ちを漏らす睦美の姿を捉えた――
そこからの事は、よく覚えていない……。
むくりと身を起こした幸島は、周囲を見回した。
「あら、気がついたの?」
そう言って、糸葉は読んでいた本をパタリと閉じた。
「糸葉さん……。なんで俺……ここは……?」
「病院よ」
「病院……?」
「お忘れかしら? ここにも死はあるのよ」
「いえ、そうじゃなくて……」
「覚えてない?」
「先輩に……嶺洲さんに飛びかかったような……」
「ええ。飛びかかって、仲良く階段落ちよ」
驚いた睦美の顔と――シェイクされる視界がチラと脳裏を過った。
「先――嶺洲さんは……怪我とか……大丈夫、なんですか?」
不安そうに尋ねる幸島に、糸葉は何処か呆れたように頷いた。
「一応は入院してもらってるけど、大丈夫よ。怪我はないわ。ま、アザぐらいはできてるかもしれないけど」
「……そうですか」
ホッと息をつき、ベッドから足を下ろした。
「どこ行くの?」
「嶺洲さんの所に……」
「何しに?」
「何って……そりゃ、謝りに……」
「何で?」
「何でって……階段から突き落としたんですよ?」
「私は自業自得だと思うけど?」
どうやら、糸葉は二人の関係と何があったのか知っている様子だった。
「……そう思ってないわけではないですよ。でも、だからといって、何をしても許されるなんて事はないでしょ」
「……」
「それに……俺自身がやり過ぎたと思ってるんです。だったら謝らないと……」
「そっ……」
糸葉はため息に声を乗せ、背のカーテンを掴んだ。




