鼈甲飴 —誰かが渡しに来る美しい飴の話—
窓の外は快晴だった。
私はギブスをはめられた足に手近な鉛筆を差し込み、蒸れて痒くなる皮膚を探し当てては掻いていた。
入院中の部屋は共同で、人目など大して気にしない性分ではあったが他の人たちに気を使う意味でカーテンは閉めっぱなしにしていた。
私のベッドは窓際のため風通しが良く、日中は外から入り込む太陽光が白い壁と薄い水色のカーテンに反射し電灯を付けているのが勿体ないくらい位に明るかった。
外に見える小さな公園で遊ぶ子供達や犬の散歩にいそしむ老人、遠くを行きかう車などに目をやっていると、トントンと肩を叩かれた。
何かと顔を向けると、カーテンの間から女性の物らしき白い手が突き出され、人差し指と親指で摘まんだ何かをこちらへ差し出している。それはカーテンの中で膨張した光を多方から浴び、黄色くキラキラと輝いていた。
私は反射的に両手で受け皿を作り、それを受け取っていた。
手の中にころりと、透明な包に包まれたべっこう飴が転がる。
「ありがとうございます」
突然のことに呆然としながら、飴を左の掌に乗せて差し入れをした誰かへ視線を向ける。
だがもう手は引っ込められてしまっており、私の言葉はゆらゆらと小さく揺れるカーテンの波の中へ目的も果たせずどこかへ流されてしまったようだった。
手の中のべっこう飴に目をやる。
そういえばここ10年近くべっこう飴を口にしていない。
黄色の透明な反射光を私の手の中に落とすその姿に、懐かしさがこみあげる。
クリスタルのようなカットを施されたそれは、よく父方の祖母が家に常備している物だった。
テーブルを挟んで祖母と向き合い、夏の暑さにだらけていた光景が脳裏に浮かぶ。テーブルの上には木製の浅いボウルが置いてあり、その中にたくさんのべっこう飴が詰め込まれていて宝石のように輝いていた。
べっこう飴の向こうでは、祖母が畑の話をするのだ。毎回変わり映えしないその話を適当に聞き流す孫を気にした風もなく、たまに喉の渇きでも潤すかのように祖母はテーブルの中央へ手を伸ばし飴を頬張るのだ。
飴はきっと祖母の潤滑油だったのだ。あの頃の私は、車にガソリンを入れて走らすような印象で、祖母はべっこう飴を補給することで口を動かしているような想像をしていた。
懐かしさに笑みがこぼれる。
そしてもう一つ、祖母とは別の懐かしい記憶。
川の音。夏の日差し。白い手。気持ちのいい風と、カジカカエルの鳴き声。口の中に広がる甘さ。
そうだ。行かなければ。
胸に、満たされるような暖かな感覚と、わずかな焦りが生まれる。
私は手の中の飴を、その透明な塊の中にあるあの思い出を、じっと見つめる。
行かなきゃ。
行かなければ。
「川口さーん、こんにちはー」
明るい呼びかけとともにカーテンが無遠慮に大きく開かれた。
私の視界は透明な鼈甲色の世界から、現実の、今いる病室の中へと引き戻される。
いつの間にか私の両手はべっこう飴の包を解かんと、そのビニールの両端をつまんでいた。
「調子はいかがですか? 点滴外しますね。トイレとかは大丈夫でした? 辛いようでしたらまたオムツに戻っちゃいますが」
と冗談交じりといった笑顔を浮かべていた看護師さんが、ふと言葉を切って私の手元に目を止める。
「それ、川口さんがお買いになったんですか?」
看護師さんは明るい口調で問いかける。
「いえ、先ほどどなたかは分からないんですが頂きまして。懐かしいですね、べっこう飴。スーパーとかにあるのは見てもなかなか自分では買わないので。これ頂いたのほんとについさっきだったんですけど、山下さん部屋入ってきた時会いませんでしたか?」
「いいえ誰とも会ってないですよ」と彼女はあっけらかんと答えた。
「それ、ここの売店では扱ってないんです。だから食べたくなったらわざわざ外出しないといけないんですが。そうですか、もらったんですね」
慣れた作業で手早く点滴を片していた看護師さんは自然な流れで、飴の包を解こうとしていた私の手に自身の手を乗せてその先を制止する。
「それ食べないでくださいねー。退院までは川口さん甘い物禁止だって、先生に言われてたの忘れてます?」
数日顔を合わせ続けている彼女は和ますように明るい声でそう注意する。
「飴はほら、そこの籠に入れておいてください。退院の時にまとめてお渡ししますから」
そういうと彼女はベッドの横のキャビネットを示す。そこには、私が入院をする前から置かれている様が色褪せ具合で伺える、和柄の千代紙で作られた両手サイズの籠が置かれていた。
私の手から、そっと飴が離れる。看護師さんは「ほら」と言って見せた。
籠に入れられたそれは、千代紙の柄に囲まれ掌に置いた時とは違う反射をしていた。まるでそこがあるべき場所とでも言うように。透明な黄色の中に、万華鏡のように赤や青、緑や紫といった色を映り込ませ、その周囲に小さく反射光をつくる。それは現実味の無い美しさだった。今まで見たことのあるどんな物さえ敵わないような、美しい光景だった。祖母が頬張っていた記憶の中のべっこう飴に、所帯染みた人の生活臭ささえ感じさせた。
いつのまにか、あの焦燥感も消えていた。
甘い物禁止の話など全く覚えのなかった私は、篭の中のべっこう飴からなんとか目を離し、「気を付けます」と看護師さんを仰ぎ見た。そして一瞬どきりとする。「そうですよ~。すみませんが我慢してくださいね~」と返ってきた言葉はとても和やかなものなのに、その眼は全く笑っていない。べっこう飴を冷ややかに見据え、私がその冷たい眼差しに驚いていることなど気づいていないようだった。
飴が篭の中に6つ揃った頃、わたしは病室を変えられた。
飴が増えるたびに川岸の懐かしく愛おしい思い出が胸が広がり、それを籠に入れると、今度は籠の中の美しい飴の姿に見惚れるという日々が1~2日置きに6回繰り返されたのだ。
移動してからは何事もなく、病院で妙な話を聞くこともない。
偶然だが、以前の部屋を横切る際に、あのベッドが見えたのでつい足を止めてしまったことがある。そこには既に別の患者さんがいて、窓際を満喫している様子が見えた。
籠には、まだ何も入ってはいなかった。
新たな病室でベッドに腰かけ、千代紙と鼈甲飴のないこの部屋の窓際を眺めながらふと考える。幼い頃から現在に至るまでの記憶を辿り、どれを思い出してみてもあんな場所は知らないという答えに行きつく。
川の音。夏の日差し。白い手の彼女。美しいカエルの声。そこへ行かなければという焦燥感。
あれは一体誰の記憶だろう。