07 ヘルヘイムの庭園
「ヴァナルガンドぉぉぉぉぉ!」
呆然と立ち尽くす不気味な男に斬りかかった。
……が、彼の指から長くて鋭く尖った爪が現れ、斬撃を受け止めた。
爪は甲鉄のように硬い。
二つが交わり、耳をつんざくような軋む音が発生した。
「人間に化けた魔物め、お前の正体はなんだ?」
「あらあら、酷い言われようですねぇ。それを言うならヘルちゃんも人間じゃないのですが。ワタシは狼の根源。狼の長です。可愛いワタシの同胞達は今頃ハイル様のお仲間を食らっちゃってると思いますよ」
ダメだ。相手の言葉を鵜呑みにするな。これははったりに決まってる。
食われたなんて考えるな。心のわだかまりが、俺の動きを鈍らせてしまう。
「あらあら、今にも泣きそうな顔。無理はなさらないでくださいね? ハンカチ、貸しましょうか?」
空いた片腕でハンカチを取り出すヴァナルガンドは、終始笑顔を絶やさない。
いや、これが奴の普段の表情なのかもしれない。
自分の感情の動きを悟られないためにやっているのだろう。
「無理するなよ。ポーカーフェイスなら俺もよくやってたんだ。お前の本当の顔は、ぼっちが不良に絡まれた時みたいな顔をしてるぞ。ああ、実際に俺も経験したからよくわかる。超怖かったぜ。ひたすら意味もなく謝ったぜ。今なら同情をくれてやるぞ? ヴァナルガンド」
俺は負けじと、ハンカチを叩き落すために剣を持つ両手の片方を離す。
「やば……っ」
調子に乗り過ぎたかもしれない。
力負けし、せり負けてしまった。
「では、冥界へお送り致しますね~!」
俺の背後はがら空き。
殺してくださいと言っているようなものだ。
「アイギス!」
剣が俺の背後へ回り、ヴァナルガンドの爪を受け止めた。
「すっげぇ!」
今の俺絶対かっこいい。超主人公って感じだぜ!
「まさかその武器……ああ、その剣……ほうほう、それは宣戦布告と受け取らざるを得ませんねぇ」
「ハハハ、どうやら勝敗が見えてきたなあ?」
あ、やっべ。これって雑魚キャラのセリフじゃね? フラグ立てちまったぜ。俺の馬鹿。
「ティルヴィング!」
俺は咄嗟に踵を返し、奴の心臓を突き刺した。
「うごっ……!」
刺さった剣を抜いてやると、ヴァナルガンドは仰向けに倒れた。
奴の身体から漏れる血液によって、血だまりができていく。
「え、嘘だろ? 勝った? よっしゃぁぁぁぁぁ!」
ガッツポーズを取った。
超楽勝だったぜ。武器のおかげだけども。
「さ~て、ヘル達を助けに行くか~」
俺はヴァナルガンドに背を向けた。
「……は」
恐怖のあまり声が漏れた。
誰かに……誰かに肩をつつかれた。
その誰かはわかっている。
「戦いの最中に、敵に背を向けるとは感心できませんねぇ?」
全身が凍ったかのように感じた。
ゾクゾクと全身の鳥肌が立ち、硬直する身体。
「大丈夫大丈夫。不意打ちとかいうつまらないことはしないので安心してくださいね? ただワタシは、自慢の回復力を見せつけたかっただけなので」
俺は振り返り際にティルヴィングで薙ぎ払う。
その斬撃が入るか否かのところで奴の背後から尻尾のようなものが顔を出し、
「冥界への招待券を進呈しましょう~」
目にもとまらぬ速さで、俺の腹部に突き刺さった。
「っぐがぁ……うがっ……」
「その剣の動きに勝るスピードとパワーさえあれば、加護は全て無価値になる。早くに決着をつけてごめんなさいね~? それにしても、ヘルちゃんはこんな武器で対抗できるとでも思ったのでしょうか……心外ですねぇ……」
おかしい。何かおかしい。
腹部に感じる暖かさは、血によるものだろう。
それはそれとして、下半身に感覚がない。
俺は腕で身体を持ち上げ、首を後ろに曲げる。
ないのは、下半身の感覚ではなかった。
「うあああああああああ、うわああああああああああ、ああああああああ!」
目の前にした死の恐怖から取り乱す。
なくなっているのは、俺の下半身そのものだった。
「そんな、なんでっうぐっ……うあああああああああ、なんでっ……」
「なんでって、ワタシの愛らしい尻尾で切断したからですよ~。ああ、ご主人様に対して顔を立たせてあげられなくて本当にごめんなさい。主人に怒られる前に早く死んでしまった方が良いですよ~」
ヴァナルガンドは、尻尾を自分の顔の前に持っていき、付着した血をペロリと舐めた。
「ああ、美味しい。新鮮ですね~。いい餌になりますよ、ハイル様。戦いが終わったら、同胞たちと共に食べるとしましょう」
心臓の脈が、徐々に、徐々に、弱くなっていく。
抜けていく精気。
薄れていく意識。
冷めていく体温。
――ああ、俺って本当に報われない。
思い返せば、俺は誰からも必要とされることはなかった。
居場所を与えてくれたのも家族だけ。
それ以外からは――社会からは邪に思われていたに違いない。
何もかもが俺の敵だった。誰も味方になってくれはしなかった。
ことあるごとに、言い訳をする俺だった。
でも、それは、自分で自分を守るしかなかったから。
だから、言い訳というのは、いくら自分で見苦しいとわかっていても、やめられない。
誰かが、俺を、守ってくれない、なら、自分で自分を守るしか、ないんだ。
言い訳をしない奴は、その後誰かが、擁護してくれるのを、知っているから。
――許さない。
絶対に許さない。全て許さない。
俺はそんなに重い罪を背負っていたのだろうか。存在自体が罪とか?
違うだろう。罪があるとしたら、それは……。
――世界が罪だ。世界自体が大罪だ。
「くっそおおおおおおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉ!」
叫んだ。
その行為が自分の死を早めるとわかっていても、全力で叫んだ。
どこかから、足音が聞こえてくる。
ヴァナルガンドは目の前にいる。
この足音は――
「ハイル。約束を破るとは、私の奴隷としての意識が足りないようだな」
「あ~あ、ワタシの同胞は殺られちゃいましたか~。お久しぶりですねぇ。妹との再会、心から祝福しましょう」
「私は、お前の妹なんかじゃない。殺してやる」
その時見えたヘルの瞳には、烈火のごとく燃え上がる憎悪が孕んでいた。