別れの曲
凛、あなたの音楽の才能は神様が与えてくれたもの。
だから神様を裏切っちゃいけないよ。
誰よりも何よりも、いつも神様を一番に思わなくちゃいけない。
神様じゃない誰かがあなたの中で一番になってしまったら、アダムとイヴが楽園を取り上げた様にあなたも音楽の才能を取り上げられてしまうよ。
家の近くにあった古い教会の年老いたシスターが幼い私に説いてくれたことは、今でも覚えている。
そしてそれはまるで呪いのように現実のものとなった。
ぽぉーん、とピアノの音が部屋中に反響しながら耳の奥に響く。
広い部屋の中心にぽつんと置かれたグランドピアノ。スタンウェイの最高級品。
その音は今まで聞いたどのピアノの音よりも美しい。
音楽家としてこれを人々の前で弾ける事はどれほどの誉れであろうか。
自分の背後でコツ、と部屋に靴音が響く。
「……弾かないのか」
「今の私じゃ弾きこなせませんよ」
「そんなことないだろ」
ゆっくりと振り返ると光に包まれた部屋の中を細身の黒いスーツを纏った彼が進む。髪も瞳も全ての色を染める黒色で、昼の光に包まれたこの部屋で彼の周りだけが夜の様な空気を纏っている。
彼は椅子に座った私の隣に立ち、その大きい手で私の頬を優しく撫でる。
彼の大きな手に自分の手を重ねて目を閉じた。
触れられるだけで心音が乱れているのが分かる。
そう、私は彼に恋をしてしまったのだ。
生きる世界の違うこの男に。
二年前にイタリアに演奏旅行に来た時、街中で靴が壊れてしまって立ち往生していた所を助けてくれたのが彼こと有馬悠一であった。
彼は両親共に日本人だが、父親の仕事の関係で幼い頃イタリアに渡ったそうだ。
だが、両親を事故で亡くしてしまい天涯孤独の身となってイタリアの闇社会に身を落としたそうだ。
元々有能な人だった様で、今ではボスの右腕として働いているらしい。
異国の地で母国が同じの人と出会い、しかも冷徹で人を寄せ付けない鋭利な雰囲気を纏っているのに意外と聞き上手で、彼に恋してしまうのは簡単だった。
彼が私と同じ気持ちだと知った時は嬉しくて泣いてしまって彼を困らせてしまった。
だが、現実はどこまでも非情だった。
何の護身の術も持たないマフィアの恋人なんて狙って下さいと公言しているようなものだ。
分かっているつもりで何も分かっていない私に、彼はある日選択を迫ったのだ。
『他のマフィアが君の存在に気付き始めた』
私と彼の住む世界が違うのだと面と向かって言われた。
そして私に彼かピアノか、という究極の選択を突きつけられた。
『これ以上俺と関われば必ず世間にマフィアと繋がりがあることが知られてしまう。そうなったら矢面に立つのは俺ではなくて君だ。他のマフィアから身を守る事はできる。でも、ピアニストとしての君までを守ることはできない』
結果として私はピアニストとしての道を捨てた。
音楽を取り上げられるということと恋をすることがイコールで結ばれるのだと言う事を彼に出会って初めて知った。
神様は手の届かない偶像。親兄弟に対する愛情と似た様なものだ。
だけどこれは明らかに違う。
神様でも他の誰でもない。この世でこの人にしか与えられないものが確かに存在するのだ。
だから余計に恋い焦がれる。
たとえ全てを失ったとしても。
禁断の木の実を口にして、恋という禁忌を侵して、初めて事の重大さについて知る人間は取りあえず愚かだ。
それでも、生きて来た道を失ってでも、手に入れたかった。
「……かつて私の全ては神様のものでした。」
ゆっくりと鍵盤に触れると、音が重なって美しい和音が部屋に響き渡る。
「でも、今私の全てはあなたのものです。このピアノの一音でさえも」
人前で弾く事は神様のために弾く事と同義だ。
だが、今は神様の為になんて弾けない。
私は神様の手を離したのだから。この人のものになるって決めたのだから。
「あなたのためにだけなら、いつでも、何度でも弾きましょう」
彼は穏やかに、でもどこか寂しそうに笑って目を伏せた。
「……それなら、」
彼は私の耳元で有名な曲目を囁いた。
神様に、「別れの曲」を。
たとえ神様の手を離しても、修羅の世界に身を落としても、人はそれに手を伸ばす。
禁じられたものは痛みを伴えども甘美だということを本能で知っているから。
ここまで読んで下さってありがとうございました。
山無しオチ無しで大変申し訳ない限りです……。
「別れの曲」はショパンの作品をイメージしています。