【挿話】エドアルド、反旗を翻す(1)
生まれてこの方、これほどまでに頭にきたことはなかった。
父上に求められるまま完璧な王位継承者として生きてきた僕は、日々淡々と公務をこなし、完璧な「王太子」として生きてきた。
父上から言われたことに疑問も覚えず、それが正しいのだとこの二十年間信じていた。
──だが、それは間違っていた。
初めて疑問を抱いたのは、マリアの始末を命じられたときだ。「国にとってどうするのが一番か」「王族としてどうすれば正しいのか」を念頭に置いていた僕に、父上から命じられた内容は受け入れがたいものだった。国にとって“聖女”というカードが魅力的であるのは理解できる。聖女を手放さないために僕と娶わせるというのも理解できた。マリアは面白い子だったし、しがらみにがんじがらめにされていた僕にとっては得難い宝石のようだったから、彼女と共に生きるのは楽しそうだとさえ思った。
けれど、使えなければ殺すというのだけは理解できなかった。古のバチスの聖女は元の世界に戻ったというし、帰れるかもしれないなら帰せばいいと思った。
側近として父上が付けてくれていたフェルナンドと相談して、マリアを元の世界へ返す方法を探し始めた僕は、仲間の手を借りつつ、旅の目的を達した。マリアを彼女の世界へ返せる手筈もほぼ整え──本音を言えば、すでに彼女を返すのは個人的に惜しくなっていたのだが──、あとはそれを試してみるのみ、といったところだった。
ルチアが、死んだ。
最初は聖女に新たに付けられた侍女だと思った彼女も、マリアと同じく変わった娘だった。
まさか自国にもう一人“聖女”がいるとは思わなかった僕も、彼女が見せる奇跡に考えを変えた。マリアが聖女だというのなら、魔法は違えど、天晶樹を浄化させることのできるルチアもまた聖女だ。
マリアと共にすべての天晶樹を浄化したルチアは、帰国すればその恋人と幸せな結婚をするはずだった。
そんな彼女が、父上の無慈悲な命令で命を落とした。
その理由を彼女を手にかけた男から聞かされ、僕は初めて激怒したのだった。ふざけている。使えないから棄てる。自国の騎士として様々な駒として使える上に、平民とはいえ魔法使いの血筋が少し混じっているセレスティーノと、先祖返りでない能力を持っていたものの、すでにそれを失ってしまったルチアでは、娶わせても自国のためにならないとは、どういうことだ。もはや人扱いではないではないか。
彼女が最後の天晶樹の浄化と引き換えにその力を失わなければ、あるいはこんな結末は避けられたのかもしれない。救世の英雄であるセレスティーノと救世の聖女ならば、父上のお眼鏡にかなったのだと思う。
だが、力を失っていたとしても、彼女が世界を救った事実は変えられない。それなのに、その事実すら父上はなかったことにしたのだ。彼女の命を奪い、未来を奪い、“聖女”は一人だけだと嘘を吐く。
それは、王としてあるまじきことだと思えた。
「父上は間違っている」
「エドアルド殿下」
父上に会いに部屋を飛び出した僕に、背後に付き従うフェルナンドが非難がましい声を上げる。元から頭に血が上っていた僕は、その声にぷつりと切れた。
そうだ、元はこいつは父上の臣下だ。父上の信頼を得て、僕に付けられた騎士団長。それが、父上の肩を持たないはずがない。
「なにが言いたい!」
怒りに任せて振り返り──僕は自分の推測が間違っていたことを知る。
フェルナンドは静かに怒っていた。大抵のことは穏やかに受け流す男だったが、今その新緑の瞳は紛れもない怒りで爛々と光っている。
「フロリード・アストルガが悪いとお思いですか」
「そうだ。あいつが彼女を──」
「僭越ながら、ひとこと言わせていただきたい。エドアルド殿下、あなたは王位継承者です。そして、彼も私も臣下です。王命に逆らうのは……難しいのです」
フェルナンドは瞼を伏せた。が、すぐにその瞳は僕を捕らえる。
「王とは、その一言で他人の人生を狂わせ、人の命を奪ってしまえる。我々臣下にとって、王の一言というのはとても重いのですよ。王命に忠実なアストルガ家の嫡男であるフロリードにとって、それはさらに重い。エドアルド殿下、怒りに流されず、ご自覚をお持ちくださいませ」
見えない手で打擲されたような気がした。
僕はルチアの側に立っていると思っていた。たしかに気持ちはそこにいた。
だが、僕の立たされている立場は、真逆だったことに気づかされる。王太子である僕は、彼女を傷つけた側の人間でもあるのだと、フェルナンドは言っているのだ。
「すみません。出過ぎたことを申しました」
「いや……諫めてくれて感謝する。僕は、たしかに頭に血が上っていたようだ。今の言葉は肝に銘ずる。王は、私心に流され間違いを犯してはいけないのだな」
僕は唇を噛みしめた。
「とにかく、父上に会う。父上に伺って、事の真偽を確かめたら……行動する」
僕は父上を糾弾できる立場にあるが、アストルガを糾弾できる立場ではない。
だとしたら、僕にできることは一つだ。
父上が玉座にいらっしゃるから、こんな悲劇が起きたならば。
その場所を取って代わればいい。
もとより親子の情は薄かった。為政者である父上は忙しく、あまり関わった記憶はない。母上が亡くなってから、それはさらに薄くなった。僕らは父と子ではなく、王とその後継者だった。僕は父上のようになりたいと目指していたわけではなく、王太子だから努力していたにすぎなかった。
王命に従ったルチアは、この世界のために力を失くした。王としてそれに報いるのではなく、さらに命まで奪うなどということは、してはならないことだ。
彼女のような悲劇を生まないためにも、彼女の亡骸の行方を知るためにも、僕は父上を引き摺り降ろそうと決心した。
※ ※ ※ ※ ※
謁見の間の前まで行くと、先ほど遠ざけた近衛が再び戻ってきていた。
「中に父上が戻られているのか」
「殿下! い、いえ……陛下はお戻りになられておりません」
どうやら彼らは無人の部屋の警護をしているようだった。彼らの職務はそういうものなのだろうが、空の部屋を忠実に守るその姿は、今までの僕を思い起こさせた。責務だからと、自分で考えることをせずに言われるがまま動いていた僕。空の部屋を守る騎士と、意思を持たず王太子を演じる僕は、よく似ていると思った。
王のために国が在るのではなく、国のために王がいる。
それなのに、僕は国のためではなく、ただ王のために在った。父上の望むまま、父上のスペアとして生きてきた。
父上と僕は違う人間だ。同じく王となろうとも、同じ生き方はできない。
父上が聖女を犠牲にしてまで王として在るのならば、それを許容できない僕は、反旗を翻す。
父上はどうやら寝室にいるようだった。
たしかにこの数年、父上の健康は芳しくない。僕が浄化の旅に加わったのも、父上の跡を継いで即位するのが間近に迫っていたためでもあった。
「父上」
人払いをして、フェルナンドと中へ入る。
「……エドアルドか」
厚く引かれた天蓋の奥から、先ほど謁見の間で聞いたものよりしわがれた声が僕を呼ぶ。
天蓋を撥ねるようにして中に入ると、そこには一人の老人が横たわっていた。
老いたな、と思う。父上はこれほど小さかっただろうか。
「何故僕がここにきたか、おわかりでしょう?」
「さて……な。なにかあったか」
かさかさに乾いた唇が、ふと笑った。
「何故、彼女を“黒の馬車”に乗せたんですか」
「──フェルナンドか、その話をしたのは」
「誰がもたらしたかなど関係ありません。僕は、何故こんなことをしたのかと訊きに来ている。王として──恥ずかしくはないのですか」
僕の糾弾に、父上はようやく視線をこちらへ向けた。
「王として、か」
そう言うと、父上は再び天井を向く。その瞳からは、なにを考えているのかは読み取れなかった。
「あの娘に死を与えたのは、王としてではない」
「え?」
思いもよらない返答に、僕は瞬きをした。
「あの娘を排除したのは、エドアルド、おまえのためだ」