ルチア、覚悟を決める
湧き上がったシャボン玉は、広がることなくなぜかひとつの大きな玉を作りました。
いつもはふわふわとたくさん浮くのに、なぜか今は大きな大きなひとつの玉。そしてその中にルフが1頭。
なんでしょう、これはなにが起こっているの?
わたしは瞬きもできずに、ただルフを見つめました。
襲いかかるかと思われた鋭い爪は、けれども何故か宙で停まり、そのままゆっくりと降ろされていきます。
「クワアアア」
構えていた前脚を下ろしたルフは一声、なんとも呑気な鳴き声を響かせました。先ほどまでの殺気に満ちた鳴き声ではなく、リラックスしたような、場違いな声です。
なに……が起こったんでしょう⁇
わたしは思わず目をぱちくりとさせました。攻撃なんて忘れたように、ルフはくつろいだ様子を見せています。
「《ウィンドウォール》!」
「《アイスレイン》!」
「《ウィンドアロー》!」
そんなルフの背後から、畳み掛けるように魔法が飛んできました。風の刃と氷の槍が、ザクザクザクッとルフの身体を切り裂きます。
見れば、アカデミアの制服を着た魔法使いの方が3人、杖を構えてルフを睨みつけていました。
「みっ、皆さん! もう大丈夫です! 僕らはアカデミアの研修生、ルフくらいやっつけてやります!」
「一般の人はっ、に、逃げてくださいっ! 俺たちアカデミアと、騎士団の人間が、が、頑張りますからっ」
「他の研修生も、先生方も、今戦いに参加しています! だからっ、大丈夫なはずです……!」
制服の上で揺れる水晶のペンダントに手を当てながら、アカデミア生さんたちは声を張り上げました。その姿を見たホールからは、安堵のため息が漏れます。
一方、シャボン玉に包まれて一旦落ち着いたかに見えたルフは、魔法攻撃を受けて再び怒ったようでした。
「リィイイイイ!」
先ほどとは違う鳴き声をあげると、手負いのルフはドスドスと地面を蹴りました。
「見ろ! もう1頭くるぞ!」
どうやらルフは仲間を呼んだようでした。そうでした、最初見かけた影は2つあったじゃないですか! 1頭でも恐ろしいのに、それが2頭なんて!
わたしたちは顔色をなくしました。アカデミア生さんたちも紙のような顔色になります。
しばらくすると、バサバサっという羽音とともに、怒りの炎を眼に宿したルフがもう1頭現れました。
「キシャアアアッ!」
「も、もうダメだあっ!」
「いやああああ! 死にたくないぃっ!」
ホールは再度 恐慌状態に陥りました。
「キシャアアアッ」
「ひ……!」
「アカデミア生、下がりなさいっ!」
新たなルフがアカデミア生さんたちを睨むのと、雨の中からその声がするのは同時でした。
中の1人が飛ばした風の刃は軽くルフの後脚を裂きましたが、ルフの動きを留めることまではできなかったようです。
最初にいた方のルフは、身体をひねり、頭を突っ込んでいたホールから抜け出ると、そのまま激しく鳴いて巨大な翼を広げて威嚇します。
後から現れたルフは、アカデミア生さんたちに鋭い鉤爪を振り上げました!
「うわあああっ!」
風の魔法を使っていたアカデミア生さんが、まともに鉤爪を受けて吹き飛びました!
赤い花をつけた植え込みに突っ込みましたが、地面に倒れたまま動きません。やだ、そんな……大丈夫なんでしょうか。助けに行きたくても、硬直した身体は動きません。
「キシャアアアッ!」
羽を広げたまま、ひときわ高くルフが鳴きました。その鳴き声と同時に、ルフの恐ろしいクチバシがスパリと落ちます。
「アカデミア生は後方支援を! 前衛に出てはやられます!」
現れたのは2人の騎士様でした。
ずっと外で戦っていたのでしょう。髪は顔に張り付き、半ば蒼く色の変わった隊服はずいぶんと雨水を吸って重そうでした。
それでもその剣の腕は鈍ることなく、猛るルフからアカデミア生さんを、わたしたちを守ってくれます。
「シャアアアアッ!」
激しい威嚇の声をあげると、ルフは敵と認識したのでしょう、アカデミア生さんたちではなく、自分へ剣の切っ先を向ける騎士様たちに向かいました。ドスドスと地団駄を踏む姿は、相当怒っているように見えます。
けれども、どれだけ威嚇しても、片方のルフは先ほどのように爪やクチバシで攻撃することはありません。攻撃してくるのは、後から現れたルフばかりです。
不思議です。クチバシは斬られてしまったので攻撃することができないのかもですが、さっきまでは爪を振り上げたりして攻撃していたのに……。
「ウリュウウウウッ!」
そんな1頭の代わりに、クチバシを失っていない、新たに現れた方のルフが唸ります。すると、激しい衝撃波があたりを襲いました。
衝撃波は、わたしたちを守るようにルフの目の前いた騎士様とアカデミア生さんたちを弾き飛ばします。
鮮血が飛びました。
「怖い! 助けて!」
「逃げろ!」
目の前で繰り広げられる再度の戦いに、ホールにいた人たちは再び逃げ出そうと動き始めました。
そんなときでした。
「なあ、あんた! さっきおかしな魔法使ってたよな!? あれ、もう一度使えないか⁇ あれのせいでルフの動きがとまってただろう⁇」
わたしの肩をガシッと掴み、見知らぬ男性が引きつった顔を近づけてきました。
「え……あ」
「見てたんだよ! なあ、頼む! 死にたくねぇんだよ! あのシャボン玉、ルフを落ち着かせてただろ!? またやってくれよ……!」
男性の血走った目を見て、わたしはシャボン玉に包まれたルフを思い出しました。
たしかに、ルフは一度落ち着いたように見えました。今も激昂はしていますが、“シャボン”をかけた方のルフは羽を広げるだけで、攻撃は控えているようです。
あれが、もう一度できるなら……微力ですが、今戦ってらっしゃる騎士様やアカデミアの方たちのお手伝いができるんじゃないでしょうか。
わたしでは戦力にはなりません。ですが、一旦攻撃から皆さんを守れるとしたら。
わたしは覚悟を決めました。こんなわたしでも、できることがあるのならば、やらない理由はありません!
「《シャボン》!」
わたしに背を向ける2頭目のルフへ、ありったけの気持ちを込めて魔法を放ちます。
お願い、効いて!
気持ちを込めたシャボン玉は、先ほどのようにルフを包み込みました。全身の羽根を毛羽立たせていたルフは、すうっと吸い込まれるかのようにおとなしくなっていきます。
その様子に、血を流しながらも立ち上がり、また剣を構えていた騎士様も、地面に倒れ、顔だけあげていたアカデミア生さんたちも、一瞬呆気にとられたようでした。さっきまで敵愾心を募らせていた相手が、唐突におとなしくなったのです。驚くなという方が無理なのでしょう。
「な……に、今の、魔法?」
氷の魔法を使っていたアカデミア生さんが、身体を起こそうとしていた手を止め、信じられないものを見るような視線をわたしに向けました。
その視線に倣うかのように、騎士様たちもわたしを見ます。
「シャボン玉の聖女……!」
わたしの姿を見た騎士様たちは、目を見開くと、そう驚きの声をあげたのでした。
なんですか? そのおかしな名前!