灰黒い水
レストラン『Mnemosyne』
記憶を神格化した女神の名前を冠したレストランで、私は真実を耳にした。
恐らく私はこの先の人生において、拘神市に流れる水道水を口にすることは無いだろうし、二度と拘神市を訪れる事も無いだろう。
何故なら私は知ってしまった。数ヶ月前にダムの底に沈んだ箕玉村を襲った怪異と、その哀れな犠牲者の最後の悲惨さを、直に耳にし目にしてしまったのだ。
私が拘神市の北部の山間部にある箕玉村を訪れたのは、真夏も気持ち悪い程の青空広がる晴天の日だった。
雲が一つも無い炎天下にも関わらず、箕玉村にはどこか陰鬱とした雰囲気があり、その為に私の足取りも重いものへと変化していた。
箕玉村の建物は全てが灰色だった。恐らくは第二次世界大戦の戦後から改築もほどほどにしかされていないであろう、昔ながらの日本家屋の軒並みは、黒ずんだ灰色一色に揃えられており、何か病的な異様さを感じずにはいられなかった。
灰色の気色に絡み付くような、夏草の緑色もどこか毒々しく、言い表しようの無い嫌悪感が募った。
過疎化が進んだ為か、人の気配は無かった。
それでもたまに見掛けた老人は、肌の色が軒並みと同じく黒ずんだ灰色をしていて、挨拶をしても返事をしてくれない。それどころか、余所者を煙たがるような目を寄越す。
私は極力、箕玉村の軒並みを視野から追い出すように努めながら、箕玉村の背後に生い茂る林の中へ足を踏み入れた。
林の中は涼しかった。いや、むしろ肌寒いとも言えた。
私は林と表現したが、そこは森と言っても過言では無かった。
木々がところ狭しと生い茂り、鬱蒼とした枝葉が夏の日差しのほとんどを遮ってやけに薄暗く感じた。時おり山から吹き降りてくる風は妙に冷たく、捲り上げていた袖を思わず下ろしていた。
私は薄暗い林の奥から吹きすさぶ冷風に頬を撫でられながら、先へと足を進めた。
暫く歩いていると、不意に林が開けた場所に迷い出た。地図には無いような場所だった。
そこには木の一本どころか、雑草すら生えていなかった。
ここ最近に火事でも起こったのか、灰色の燃えかすが地面を覆っている。そして丁度真ん中辺りには、大きな窪みがあった。どうやら溜め池か何かがあったようだが、水位は浅く、黒ずんで妙な蒸気を立ち上らせていた。
その蒸気は太陽の日差しを不気味に屈折させていた。
気味の悪い場所だった。
明らかに火事があったような焼け野なのに、火事場独特の焦げ臭さが全く無かった。それどころか、妙にすえた腐臭のような生臭い臭いが周囲に立ち込めている。その腐臭は、どうやら窪みの中から漂っているようだった。
私は地図とコンパスを再度確認して、早足に灰色の荒れ地を後にした。
その後、村に帰る途中に、珍妙な動物と鉢合わせた。
野うさぎだった。
体の色は黒ずんだ灰色をしていて、その赤い瞳には狂気の色で光輝いていた。
そこまでは別段、可笑しなところは無い。野性動物を見れば、どれほど世間で愛されている動物であれ、時には何か恍惚とした恐ろしさを感じる事はよくある。
しかし、その野うさぎは私と対峙したのも束の間、私には特に興味が無かったのか走り去ってしまったのだが、その跳躍力の異常な強さに思わず慄然としてしまった。
一足で通常私の知り得る限りのうさぎの数倍は遠くへ跳んで、一瞬の内にその灰色の小さな体躯を林の中に隠してしまった。
私は驚愕と恐怖に暫く動けずに、じっと野うさぎが消えた林の暗がりを見詰めていた。どうにか勇気を奮い起こし、転がるようにして駆け出したのは、どれほど経ってからだったろうか。
私は駆けた。そして躓いて転んだ。
地面に顔から倒れ、白いカッターシャツが泥にまみれた。痛みに呻きながら体を起こした時、私の目の前に虫の死骸がある事に気が付いた。
私は虫の死骸を見た瞬間、何とも間の抜けた悲鳴を上げて飛び退いた。
私とて元は田舎育ちの人間だ。
虫の死骸どころか、野性動物の無惨な亡骸も何度と無く見てきた。今さら驚くような事では無い。
けど、その虫の死骸は私の知っているものとは異なっていた。
虫は全身が灰黒色と化し何故か灰化していて、完全に生き絶えているのか仰向けになって腹から生えた節触足を遥か彼方の天上へ向けている。
その虫というのが、油蝉をどこまでも醜悪に戯画化したような、どんな昆虫学者でも頭を悩ますような姿形をしているのだった。油蝉と表現したが、私の知り得る蝉の中ではそれに一番近かっただけであって、実際は別の種類かも知れない。
私はその蝉の死骸から目を逸らして、とにかく走った。
その途中で、ふとある事に気が付いた。今まで何故そんな事に気が付かなかったのか、恐らくは箕玉村の灰色の軒並みに、林の怪しいまでも薄暗く冷えた空気が、私の思考を狂わせていたのだろう。
蝉の声が、全く無かったのだ。
蝉だけではない。あらゆる昆虫の鳴き声、動物の鳴き声が聞こえず、風に靡く枝葉の擦れる音が不気味に鼓膜を震わせるのみだった。そして聞こえているのか、それともただの幻聴なのか、何か甲高くか細い刺すような音が、ずっと頭の中で響いていた。
私はその日、逃げるように拘神市のホテルに帰った。
白いシャツを泥塗れにした私に、ホテルの従業員は驚いたようだったが、私はあえて何も答えずさっさと部屋に引っ込んで、シャワーを浴びたらベッドに潜り込んだ。
その夜は奇妙な悪夢を見た。
悪夢なんてものは常に奇妙であるが、しかしこの夢だけはいつもとは少し毛色が違っているように思えた。
目が覚めた時には、私はベッドから滑稽な形で落ちていた。
夏場だからか、全身を汗でずぶ濡れにしていた。
翌日、目を覚ました私は、ホテルで朝食をとってから拘神市の拘神大学付属図書館に足を運んでいた。
この町で一番の図書館であり、拘神市の歴史を調べるにはこれ以上無い環境であった。
私が調べるのは、もちろん箕玉村についてだ。
私は先ず、受付にいる中年の女性に箕玉村の歴史が分かるような書物は無いかと尋ねた。
すると女性は少し訝しむような顔をして、何について知りたいのかを問い掛けてきた。
箕玉村の林の焼け野についてだと答えると、女性は見るからに嫌悪感を表面に出しながらも、新聞記事がある事を教えてくれた。
私は早速、新聞を受け取ると手近な席に腰を落ち着かせて拝読した。
宛も無く開いたページが、運良く探していた記事が掲載されたページだった。
新聞は今から四十年も昔のものであった。
『箕玉村に油田? 地主は驚愕』
そんな見出しだった。
ローカル新聞の見出しの貧相さは否めないが、それは今は関係の無い話だ。
内容は至ってシンプルだった。
箕玉村の林にある池に原油のような黒い粘性のある物質が浮かんでいるのが、池の近くに住居を構える荒木氏により発見。
拘神大学の教授らによる検査を実施予定。
詳細については特に記されていなかった。この後の記事に続報は無く、火事についても何も言及されていない。
ただ一年先の記事には、荒木一家不振死の記事があった。しかし、やはり詳細は記されておらず、ガス漏れによる事故として処理された趣旨が書かれているのみだった。
期待はずれも甚だしかった。
ここまで情報が無いとは思いもしなかった。こうなれば、箕玉村の老人に直接話を聞く他に無い。が、何せ四十年も前の話だ。
生き証人がいるかどうか、居たとしても記憶に留まっているか謎だった。何よりも先ず、昨日の様子から話を聞けるかどうかすら怪しい。
八方塞がりかも知れない。
それ以前に、何故こうもあの焼け野について調べようとしているのか、分からなかった。
何か得体の知れない恐怖は、あの不可解な悪夢のせいで抱いてはいるものの、興味と言えば全くと言って良いほど無かった。ただ何故か調べなければならないという、漠然とした強迫観念に突き動かされていた。
けど、もう調べる方法は無いかもしれない。
取り敢えず箕玉村に行ってみて、老人に声を掛けてみよう。それでダメなら、諦めるしか無い。
「あら? ひょっとして箕玉村に興味があって?」
次の行動に移るため、立ち上がろうとした瞬間だった。
不意に背後から女性に声を掛けられた。
「やめた方が良いわよ。かなりクレイジーだから、その後の人生が狂わすはめになる」
女性は白衣を着ていた。
髪は黒く腰まで伸び、目は赤く妖艶な輝きを帯びている。セル縁の眼鏡が知性的で、小脇に抱えた書物や書類から学者のようなイメージを受けた。
私は女性に箕玉村を知っているのかと尋ねた。
すると女性は、「もちろん」とやや自慢げに頷いた。
「知ってるし、調べた。なかなか面白い村よ、あそこは。――けど、さっきも言ったけど知らない方が良いわ。きっと後悔するから」
私は女性にすがった。
正直、今の私には彼女に頼る他に箕玉村について調べる方法が無かった。
あらこれと言葉を費やすつもりだったが、彼女は意外にもあっさりと折れた。
「知りたいなら教えてあげない事も無いわよ? 別に見返りなんか求めないわ。ただ研究の成果を発表する機会が無かったから、誰でも良いから自慢したいだけなのよ。――そうね、今夜、ムネモシュネってレストランで会いましょう。長い話よ。酒がいるわ」
そして女性は意味深に笑むと、図書館を後にした。
今夜、と曖昧な言い方をされたから、私は何時に赴くべきか分からなかった。
だから適当に時間を選び、七時には拘神市の北部に位置する小羽町の国道沿いに店舗を構える『Mnemosyne』という洋風レストランに赴いた。
拘神大学から十キロメートル離れ、私が泊まるホテルからは十二キロメートル離れていた。けど、拘神市の最北にある箕玉村からは六キロメートル程しか離れていない為、私は拘神大学付属図書館を去った後、箕玉村を訪れ聴き込み調査を行った。
大方は予想通り外を出歩く老人達の口は固く、挨拶をしても返事をせず、訝しむ目線を向けるだけだった。
それに臆せず林の中の焼け野について問い掛けると、皆一様にギョッと目を見開き何かを恐れるように動揺し、時には激しく怒鳴りつける老人も居た。
けれど何の収穫も無かったわけでは無い。
老人達は、この箕玉村がダムに沈むことを望んでいる事が分かった。何とか話を聞けた老人曰く、この村は呪われており、一日も早く無くなった方が良いとの事だった。
それ以上は何も聞く事は出来ず、私はもう一度、林の中へ入った。あの焼け野を目指したのだ。
相変わらず林の中は薄暗く、吹き下ろしの風が冷たい。蝉の声は全く無く、耳障りな鉄を切るような甲高い刺すような音が響いていた。
私は昨日の通り林を歩いた。が、どうしてか焼け野には辿り着く事が出来ず、あえなく退散する道を選んだ。
その頃には日もかなり傾き始めており、村に戻ってからは直ぐにタクシーを呼んでレストランへ向かった。
レストラン『Mnemosyne』に着いたは良いが、女性はまだ来ていなかった。
私はレストランの前にあった濃緑色の塗装が少し剥がれたベンチに腰掛け、女性が現れるのを待った。待つ間、一度ホテルに戻ってシャワーくらい浴びれば良かったと今更ながらに後悔した。
どのくらい待っただろうか。
恐らく、十分も無かったように思う。
レストランに現れた女性は、予想外の方向から、予想外の姿で私の前に姿を見せた。
「あら? そんな所に居たの? 中へ入れば良かったのに」
不意にレストランのドアが開いたかと思うと、白い厨房服に身を包んだ黒髪にセル縁眼鏡の女性が私を呼ぶのだった。
私は驚き動揺していると、「入って。前菜が出来ているわよ」と手招きされるがままに『Mnemosyne』の古びた店内へ足を踏み入れた。
店内は木製の茶色を基調とし、壁は上三分の二が白色となった落ち着いた雰囲気であり、少し敷居の高そうで、その為か客の入りも少なく、客層も金持ちをターゲットにしているように感じた。
私が案内された席は、入口からは遠く、一番隅のひっそりとした席だった。木製のテーブルには白いテーブルクロスが掛けられ、椅子もまた木製でありながら腰に全く負担の掛からない座り心地の良さだった。
「少し着替えて来るわ」
女性は厨房の奥へ引っ込んで行くと、ウェイトレスがワイングラスに水を淹れて持ってきてくれた。
一口含んで、その水がレモン水だと気付いた。昼間の炎天下の中で行った調査と、薄暗い林の中で行った探検で疲れた体には、その酸味が何とも心地好かった。
「お待たせ。早速、食事としましょうか」
暫く経って戻ってきた女性は、ワインレッドのイブニングドレスでドレスアップしていた。
元々の日本人離れしたグラマラスな体形を隠すこと無くドレスのラインで強調した姿は、色っぽく蠱惑的に写った。左肩に画かれた七枚羽根の刺青が、ミステリアスな魅力を上乗せしている。
女性が席に着くと共に、前菜のチーズとベーコンのサラダと、見るからに高そうな赤ワインが運ばれて来た。
たじろぐ私を他所に、女性は慣れた手つきでワインボトルから赤く暗い液体をグラスに注いで行く。
「さて、何について乾杯しようかしら? ――そうね、これからあなたの人生が狂わない事を祈る乾杯にしましょうか」
私は女性に促されるまま、ワイングラスを持ち上げた。その言葉の意味を知るのは、そう遠い未来では無かった。
女性は拘神大学で民族学の助教授していて、主に拘神市に纏わる伝承や歴史について研究しているらしい。名前は志乃森輪廻というそうだ。他にも物理学や化学等の学位も持っていると自慢気に語った。
この『Mnemosyne』というレストランの経営者でもあるらしく、先程食した奇妙に美味なサラダに、今から運ばれて来るミートソースのパスタは志乃森助教授が手掛けたという。厳密には下拵えをして、後は従業員に順次調理させているらしい。
「――さて、箕玉村と言えば、自と知れず林の焼け野についてになるわね。どうせあなたもそれが知りたいのでしょう? 昼間も言ったけど、長くなるわよ?」
パスタがテーブルに置かれると、敏腕料理人たる若き助教授は試すように問い掛ける。
私は厳かに頷いた。
どうやらこの辺りでは、箕玉村と言えばあの焼け野を連想するようだ。そしてそれは、予想通り良い印象では無いらしい。
「じゃあ、何から話そうかしらねぇ。――そうね、最初からとなると、先ずはあの焼け野ね。皆は焼け野って呼んでるけど、実際は火事なんかの燃焼反応であんな状態になったわけじゃ無いのよ。あれ、自然にあんなになったの。――信じられない? まぁそうでしょうけど、事実よ。実際、あの場は焦げ臭くも何とも無かったでしょ? 何も燃えて無いんだから、当たり前なんだけど。
あの場所は、元々緑も豊かな土地でね。果物の木もあれば畑なんかもあって、池なんて新鮮な魚類や甲殻類が豊富に生息できる程、綺麗な水場だったの。池の畔には、荒木源三っていう箕玉村の村長が家族五人と家畜を飼ったりして暮らしてたわ」
志乃森助教授はワインを一口含むと、パスタを音もなく食す。
「四十年前の六月、荒木源三の一番上の息子、荒木光史はいつものように池の水を汲み上げようとして、ふと池の中央付近に灰黒い物体が漂っている事に気が付いたの。
あぁ、荒木家では水道設備が無くてね、水はもっぱら池から汲み上げたものを煮沸消毒して使ってたのよ。トイレは、まぁ、食事の席でするには憚られるわね。飲み水として使える程、きれいな水だったって理解して貰えればそれで良いわ。
で、光史だけど、水汲みをほっぽりだして、急いで源三を叩き起こし池の物体を指し示したの。
不振に思った源三はバケツを持って手漕ぎボートを出して、黒い物体の採取に挑んだわ。物体はバケツ一杯を優に越える量が池に浮かんでいて、掬い採るのに不備は無かったそうよ。
物体は粘性があって、源三はもしかすると油かと思ったの。もし、これが石油だったりしたら、大儲けよね? 早速、源三は一番上の息子の光史を拘神大学まで走らせて、専門家を呼んで来させた。
大学からは四人の科学者と化学者が調査器具を持って、光史の案内のもと源三を訪ねたわ。四人ともそれなりに権威があって、彼等の内の一人を取材するためにたまたま居合わせた新聞記者も一緒に着いて来た。
あなたが読んでいた記事を書いた記者よ。余程スクープが欲しかったのね? あれを石油と完全に思い込んでいたわ。臭いから何から違うことを、他でもない源三本人が早々に気が付いていたのにね。
学者達は源三を訪ねるや、灰黒色の物体を見て首を傾げたわ。それが何か、誰も全く検討の付けようが無かったからよ。
一見すれば粘性があって油のようだけど、水とは親和性があったのよ。油が疎水性だってことは分かるわよね? あの物体は水に溶けるというよりは、水を取り込んでいるような感じだったけど、そんな物体は誰も見たことが無かったのよ。ほんと、掻き回したら溶解するのよ?
仕方無いから学者達は物体を、持ってきた詮付き三角フラスコの中へ容れて、大学へ持ち帰る事にしたの。その場でも簡単に検査できたけど、持って帰って詳しく調べた方が確実だと思ったのね。というより、詳しく調べたいという探究心、知的好奇心がそうさせたのね。
学者の一人は源三に、物体の正体が分かるまで池の水を飲むのを止すように促したわ。けど、源三は他に飲み水が無いことを理由に、それを拒否した。それにもう物体の無い箇所の水を飲んでしまっていて、体に何の異常も無い事を理由に学者を渋々ながら納得させたの。試験薬を垂らしてみたら、物体と物体とは混ざりあっていない水は中性を示したから大丈夫だろうと、何とも薄い根拠で他の学者も飲むことを許したわ。
物体の臭いなんか、腐った魚みたいな酷い汚臭だったって言うのにね?」
話を進めながら、志乃森助教授はパスタを次々に口の中へ放り込んで行く。
私は話に夢中になっていて食が進んでおらず、若き助教授はそれを笑いながら注意した。
「学者達は大学に戻ると、様々な実験を行ったわ。
酸性の溶液と混ぜたり、アルカリ性の溶液を垂らしたり、定性、定量分析をやってみたり、ね。様々な事が分かったけど、それは全部、学者達の頭を悩ませる結果になっただけだったわ。
物体は塩酸や硝酸、硫酸なんかの酸性溶液を垂らすと、僅かに吸熱反応を示したわ。冷たくなったの。逆に酸性溶液の中に物体を垂らすと、必ず溶液を中性にしたわ。王水は知ってるかしら? ――そう、濃塩酸と濃硝酸を三対一の割合で混ぜた強い酸性溶液よ。金なんかを溶かすやつね。それすらも中性にしてしまったわ。
アルカリ性溶液にも同じ様な反応を示したけど、吸熱反応は無かったわ。そうそう、アンモニアみたいな刺激臭を出す液体なんかは、一瞬で物体独特の腐臭に上書きしちゃった。
特に中性溶液とは良く溶解したわ。いや、取り込んだと言った方が適切ね。恐らく、物体は溶液を先ず中性にしてから取り込むのだと、学者は考えたわ。
取り込んだって言うのわね、無色透明の液体に物体を垂らすと、物体は最初は薄まるけど、暫くすると無色透明な液体を全て灰黒色にしちゃうの。汚染するとも言えたけど、その場にいた学者達の印象は“取り込む”だったのよ。
取り込んで、自分達の仲間にしちゃう。増殖するとも言えるわ。そんな生物的な考えが、権威ある学者達の共通意見だったの。
それで、顕微鏡で物体を見たけど、結果はただの液体って事が分かっただけ。細菌なんかは一匹も存在しなかったわ。
液体窒素と混合して凍り付けにしようともしたみたいだけど、結果は失敗。全く、唯一まだ溶解していなかった水が凍っただけで、相変わらず粘性の液体を保っていただけだった。
逆に物体を容れた容器を火にかけて見たけど、いつまで経っても沸騰はしなかった。温度の上昇が異様に遅くて、九十度を越えたところで上昇は微々たるものになり、百度前後で止まったわ。その内、容器の方が音を上げちゃった。
棒の先に物体を付けて直接火にかけても、結果は同じで液体のまま変化しなかった。
蛍光光度計にかけて定性分析、定量分析をしてみたけど、目に見える光なのに可視光では有り得ない色の光を放って、学者の助手の一人が網膜をやられたわ。数日で治ったって言ってたけど。
他にも吸光分析でも同じ様な結果になって、スペクトルは見たことも無い波形を示した。けど、時間が経つに連れてスペクトルが弱まって行ったのは、単に物体が薄めた液体を取り込んで行った結果ね。それは定量分析で結果を得られたけど、やはり悩みの種になっただけだったわ」
志乃森助教授は空になったワイングラスに、赤く暗い液体を注ぐ。
気付けばワインボトルの中身はかなり減っており、私も何杯目かのワインを飲み干していた。酒はそんなに得意では無いにも関わらず、不思議とまだ酔いは回っていなかった。
若き助教授の語る灰黒色の物体の異様さに、慄然としたものを感じて、それが酔いを遅らせているようだった。
「大した進展も無く、一日目は過ぎたわ。問題が起きたのは、それから数日が経った頃よ。研究室を訪れた学者は、物体が保存用の容器ごと消えている事に気付いたの。
最初は誰かが自分の実験室に持っていったと思われたけど、誰も知らないと言っているし、夜間は鍵を掛けているから誰も持ち出せないのよ。
考えられるのは、自然消滅。――フフッ、信じられないって顔してるわね? けど、本当に自然消滅したのよ。容器を置いていた場所には、燃えかすのような灰色の物質が散在していたわ。それだけじゃ無く、下水に流すわけにもいかないという事で、物体に取り込まれ処理に困っていた実験廃液を溜めたタンクも、同様に消滅したわ。実験器具については、洗浄を徹底していたから無事だったみたいよ」
志乃森助教授の言葉の一つ一つが、私の理解の範疇を越えていた。
地球上の話のようでありながら、何処か異次元的な雰囲気があり、私を慄然とさせていた。
「さて、研究室で起こった怪異はほんの序の口。
それを遥かに上回る怪奇現象が、荒木源三宅とその周辺で起こったわ。
六月の梅雨時、当然、箕玉村だけで無く拘神市も雨天続きよ。そんな時期には、池に住む蛙がよく鳴き声を上げていたわ。それが灰黒色の物体が出現してから一週間後に、ふつりと声がしなくなった。蛙だけでなく、ありとあらゆる水棲生物の声が聞こえなくなったの。
不振に思った源三は、三人の息子に何でもいいから池に住まう生物を捕らえて連れてくるよう促した。それがその時期には珍しく雨が降らなかった、九日目の事だったわ。
捜索は難航したようよ。いつもなら嫌でも目につく昆虫や爬虫類、魚類がその日に限って一匹も見付からなかったの。けど、まだ十歳にも満たない一番下の息子、荒木光照が夕暮れまで粘って、ようやく蛙の一匹を見付けたわ。何のこと無い、ただの雨蛙よ。かなりすばしっこくて、捕まえるのに苦労したようだけど。
けどね、その蛙が源三を含めた荒木家の人間と、後にサンプルを求めてやって来た学者達を大いに恐れおののかせ、そして悩ませた。
蛙はね、何とか蛙と呼べるだけの姿形をしていたの。体の色は黒ずんだ灰色をしていて、ギョロついた目は真っ赤に光って人間を睨み据えていたわ。それでね、その容姿っていうのが、雨蛙をどこまでも醜悪に戯画化したような、見ているだけで嫌悪を抱かせる悪夢めいたグロテスクな姿をしていたわ。およそこの世界の生物から生まれたとは思えない、そんな異次元的な姿よ。
学者の一人はその蛙を大学に持って帰り、生物学の権威に鑑定させたわ。けど、その学者も頭を悩ませて、恐らくは雨蛙では無いか、なんて曖昧な答え方をしたわ。
学者は恐怖と、それ以上の好奇心で蛙を調べたわ。それで分かった事は、蛙が全く鳴かないという事と、餌を全く受け付けないという事。それから、研究室の水には体を浸そうとしなかった事ね。
このままでは折角のサンプルが死んでしまうと悩んだ学者は、ふとある考えに至った。もしかすると、あの灰黒色の物体が漂う水になら体を浸すのでは無いか、と。
学者はその旨を伝え、物体を分けて貰ったわ。そして水槽の水に、物体を少量滴下した。すると面白い事に、あれだけ水に近寄りたがらなかった蛙が、即座に物体の混ざった水の中に飛び込んだの。
これは新たな発見と同時に、新たな疑問の発見でもあったわ。
暫く蛙を観察していた学者は、ふと蛙が鳴き声を上げようとしている事に気付いたの。普通の蛙のように、頬を膨らませてね。
けど、声は聞こえない。鳴いているのに、そういう動作をしているにも関わらず、声は上げないのよ。
学者が頭を捻っていると、研究室の学生達が妙な音が聞こえると口を揃えて学者に訴えたわ。蚊の飛ぶような、金属を擦り合わせるような、奇妙で嫌悪を抱く音だと。
モスキート音って知ってるわね? ちょっと前にニュースなんかで取り上げられてた。――そう、若い子にしか聞こえない高周波の音よ。
蛙はね、そのモスキート音と同じ周波で鳴き声を上げてたのよ。音なんか、正にそれだった。だから高齢の学者には聞こえず、若い学生達の耳には届いたの。
あぁ、蛙だけど、数日と経たずに死んじゃったわ。餌を受け付けないのだから、生きられないのも当然なんだけど、それにしては早すぎる死だったわね。――え? 死体? 水槽ごと中身もまるごと灰になって消えたわ」
私は昼間目にした蝉の死骸と、それから幻聴のような音について思いを馳せた。もしかすると、あれは蝉の鳴き声だったのでは無いか、と。
そして私は、いつの間にか平らげていたパスタの味など、全く覚えていない事に気が付いた。
ステーキが運ばれてきた。
焼き加減はミディアムで、こんがり焼けた肉の上には何故かデミグラスソースが掛けられていて、パスタを完食したばかりというのに、食欲をそそられた。
何の肉かと問うと、敏腕料理人で権威ある若い助教授は「あなたが想像もしない動物の肉よ」と唇の端を不適に吊り上げた。
私が訝しむようにステーキを見詰めていると、「大丈夫よ。食べられないものじゃ無いから」と付け足しながら、フォークとナイフを巧みに振るい肉を切り分けると、美味しそうに口に頬張る。私もそれにならって、ステーキにナイフを通した。
「研究室が物体の扱いに当惑し奔走している最中も、荒木家では更なる怪異が巻き起こっていたわ。
先ず、池の水を飲んでいた野生動物が凶暴化し、熊や猪なんかがしょっちゅう荒木家の家屋に体当たりをしたり爪で引っ掻いたりして、その度に源三と一番上の息子の光史が猟銃で始末すると言う日々が続いたわ。そして草食動物だった野うさぎなんかが、撃ち殺された動物の肉を食い漁っている光景を源三と光史が目撃していたの。
殺した動物を放置するという事は、源三は基本的にはしなかったわ。彼は狩猟者でありながら、その死を悼み弔うことを息子達に教え諭していたから。
射殺した野生動物の獣毛の一本から血液の一滴まで無駄にすること無く日常生活に役立てることで、源三はその動物を弔う事が出来ると思っていたの。
その肉がね、また美味なのよ。それまで食べた動物の肉なんか、砂も同然と思える程にね。
どうやら池の水を飲んで育った動物は、体構造が変貌し凶暴になる代わりに、とても美味しく食す事が出来るみたいよ? フフッ、不気味よね? ――あら? 心配しないで、この肉は箕玉村とは関係無い肉だから。
水も同じく美味しくなったそうよ。
そして作物の収穫時期になると、源三はとても驚くと共に落胆したわ。野菜も果実も家畜も、灰黒色に染まっていて、とても食べられるようには思えなかったの。臭いも魚の腐ったような吐き気を催す腐臭で、もう最悪よ。
それでも、源三はその辺の果実をもぎ取って、一口食べてみた。そうする他に無かったらしいわ。すると、源三は驚愕すると共にとても喜んだわ。それというのも、畑で育てていた野菜も、木になった果実も、野草さえも今まで食べたことの無い程の旨みをしていたの。それは池の周辺に限定されたけど、荒木家が食べるだけならそれで事足りたようね。
荒木家の人間は、皆、その味の虜となったわ。病的なまでに、ね。
独占しようとしたのよ。自分達だけが食べられるように、色々と策を練った。それもほとんど無駄になったけどね。箕玉村の村民は、そんな怪しげで酷い汚臭のする作物なんか食べる気になれなかったの。まぁ、当然と言えば当然ね。
拘神大学の学者達も食べようとはしなかったけど、研究室に持ち帰って色々と実験を施したわ。
すると可笑しな事に、色こそ気味悪く変わっちゃっていたけど、構造物質は何も変わってはいなかったの。
試しに実験動物のラットに食べさせようとしたけど、あまりに酷い臭いに一口もしなかったそうよ。
そんなわけで、化学的には異常のみられない作物の咀嚼を、学者達は禁止しなかった。それが思わぬ結果を招いたのだけど、禁止したところで既に遅かったでしょうね。
荒木家の人間は灰黒色の食物を食べ続けた結果、自給自足の生活を強要される事となったわ。その食物以外に、口にすることが出来なくなったの。
どうやら灰黒色に染まった食物には、強い依存性があったみたいね。麻薬のような、いいえ、それよりももっと極端で強力な依存作用よ。
十月になると秋の実りが最たるものとなり、灰黒色の食物を口にする機会が増えたわ。
最初に異常を来したのは源三の妻、佳子だった。佳子の肌の色が、ある日を境に灰黒色になったの。そして発狂したわ。
源三は発狂して暴れまわる佳子に手を焼き、二階の部屋に閉じ込めちゃったの。――え? 医者には診せ無かったわ。多分、医者に診せた所でどうにかなる問題で無いことは、源三が一番良く知っていたのね。
というのも、源三は十一月に入る前に、学者達がこの池に近寄る事を禁じたの。その時、源三は特に親しかった学者にこんなことを口走っていたわ。
『逃げられなくなるんじゃ。あん灰色の黒いもんを食べた奴ぁ、みんなあれに捕まっちまうんじゃよ。わしゃあ、もう遅い。食い過ぎちまった。佳子も光史も光彦も光照も、みんなもう手遅れじゃ。もうここん食べ物しか、食うこたぁ出来ん。離れられんのじゃ。あんさんもここに来るのは止めるこった。空気は大丈夫なようじゃが、それでも安全とは言えんからの』
どうかしら? 物真似なんて柄じゃ無いんだけど、お酒の席での戯れ程度に受け取っといて。
あ、重ねて言うけど、この肉は箕玉村とは全く関係ないわよ。この町で手に入れた、とっても新鮮なお肉よ」
肉を咀嚼する志乃森助教授は、不適にくすくすと自嘲する。
私というと、その話の内容に食が上手く進んでいなかった。
「暫くは誰も荒木家に赴く者も、荒木家から出てくる者もいなかったわ。
村人はあの池はおろか、林にさえ気味悪がって行きたがらなくなってたし、学者達は何度か赴いても、その度に源三に手厳しく追い返されてたから、諦めちゃった。荒木家は、源三の証言が正しいなら荒木家の人間はあの池の畔から逃げる事が出来なかったと考えるべきね。
さっきも言ったけど、荒木源三は箕玉村の村長だったの。村の事業とかの大体を源三が取り仕切っていたから、源三が家に引きこもったのは痛手だったようね。指導者が居なくなったからね。
それでも、何とかやっていけていたようだけど。
それから暫くは、大した問題は起こらなかったわ。
森から酷い悪臭と妙な声が聞こえる以外に、可笑しな事と言えば、運動能力が異常なまでに高い野生動物が見掛けられたくらいね。後、犬なんかがよく林に向かって吠えたてていたそうよ。
そのまま冬になったんだけど、冬になると拘神市には毎年のように雪が積もるのだけど、当時は積雪量五十センチを越える事なんて珍しく無かったの。気温なんか氷点下になって、溜め池が凍り付く事もあったわ。
最近は温暖化で、二月頃になるまで雪すら降らないけどね。
ある日、源三と特に親しかった学者の一人が、様子見に荒木家を訪れた時には、当然林にも雪が積もり、辺り一面雪景色だったわ。けど、荒木家の周辺は違った。まだ冬も真っ只中というのに、荒木家の周辺には雪が全く無かったの。池にも氷一つ無かったわ。それどころか、水面から湯気が上がっていたわ。良く見ると、池に漂う灰黒色の物体が増えていたわ。
荒木家は、次男の光彦が発狂し母親と共に二階の部屋に閉じ込められていたわ。学者が源三の家に居る間、ずっと二階から物音が聞こえていたの。何かを叩き付けたり、引っ掻いたりする音が、ずっとね。
他の三人は、見るからに健康体だったわ。それは異常な程にね。筋肉も増し血色も良く、およそ病気とは無縁な肉体になっていた。けどね、その反面、精神面では危うい程に衰弱していたわ。
長男の光史も三男の光照も、じっと池に虚ろな目を向けていたわ。源三はただ作業でもするように、食事を作って家族に振る舞っているだけだった。それは人間が食べるような料理じゃ無かったけど。
学者は源三に病院へ行くよう促したわ。妻と三人の息子も、医者に診せるように、ね。でも、源三はそれを頑なに拒絶したの。病院の医者にどうにか出来る問題では無いって言ってね。
学者は追い立てられるように、荒木家を立ち去ったわ。
思えばその学者が、源三を源三として見られた最後の機会だったのかも知れないわね。
そうそう、冬に入って直ぐ、狩をするために、ある富豪の坊っちゃんが箕玉村の林に入ったの。友人三人とね。
そこで鹿を一匹仕留めたんだけど、その鹿というのが坊っちゃん達を大いに恐れさせたの。それがどんな姿だったかは、あまりの恐ろしさに埋められちゃったから知る由も無いわ。けど、体の色が黒ずんだ灰色をして、目が凶暴な赤色をしてたと言っていたわ。
そのまま年を越して、時間だけが過ぎ去ったわ。
丁度その頃、拘神市では“人食い殺人鬼”が猛威を奮っていたから、巷じゃ箕玉村の怪異なんてすっかり忘れ去られていたわ。
けど、その間も着々と変化が起きていて、池はもうすっかり灰黒く変色してしまい、その周辺の草木も同じ様な色に成り果て、そして木材の茶色をしていた源三宅も灰黒色に染まってしまっていたわ」
私は話を聞きながら、すっかり食欲の失せた腹にステーキを押し込んだ。
志乃森助教授は不適に微笑みながら、更に話を続けた。
「“人食い殺人鬼”の犯行が収まったのは、六月になってからだったわ。驚くことに、そんなに時間が経つまで箕玉村の怪異は放置されていたの。
梅雨の陰鬱な雨が降るある日、学者は久々に箕玉村を訪れた。勿論、源三に会うためにね。
源三の家に向かう前に、学者は村民に源三がどうしているか聞いて回ったわ。けど、誰もここ数ヶ月は源三を見ておらず、荒木家の人間があの悪臭漂う林の中に引きこもり、相変わらず自給自足の生活を送っている事を知らされたわ。
学者は出来るだけ急いで、源三の元へ向かったわ。
源三の家が見えた時、学者はぞっとしたわ。だってそうでしょ? 傍らの池の水は水と呼べない色になっていて、木も草も家も同じ色に染まった様子を見て、驚かない人間はいないわ。
家の周りに放し飼いしていた家畜は、全て殺されたみたいだったわ。一匹も居らず、残骸らしき骨だけが散乱していたのよ。田畑も荒れ果てて、どうやらもう農作物を育てているようには思えなかったわ。
その惨状とも呼べる灰黒い光景に慄然として、暫く立ち竦んでいた学者は、家の中から聞こえた銃声に我を取り戻したわ。
学者は慌てて家の中に飛び込んだ。
そこで学者が見たものわね、猟銃自殺を計った長男、光史だったの。肌の色が灰黒色に染まって、半年前とはもう別人のように痩せこけた青年は、自分の頭を猟銃で撃ち抜いていたわ。
顔は無惨にもぐちゃぐちゃに吹き飛んでいて、体つきで判断したのだけど、光史以外の何者でも無かった。
この若者に何があったのか、散弾で粉々になった顔からは、吐き気以外に何も得ることは出来なかったわ。
学者はとにかく源三を捜したわ。光史の事はともかく、銃声までしたのに源三が駆け付けない事が気になったの。
源三はリビングの安楽椅子に腰掛けて、呆然としていたわ。多分、銃声にすら気付いていなかったと思う。
源三は見る影も無い程、肌を灰黒色にしてやつれさせていたの。もう、明らかに病気だったわ。それも末期に思えたわ。
それでも異常は来していても意識はあって、学者の姿を認めると何事かをうわ言のように同じことを何度も呟いたわ。
『来るな……来るんでねぇ……あいつが、奪っちまうんじゃ……あいつはわしらに力を付けさせて、それを根こそぎ奪っちまうんじゃ……佳子も光彦も、あいつに喰われちまった……次はわしの番じゃ……光史、逃げろ……お前だけでも逃げてくれ……いいや、逃げられやせん……光照は逃げようとして、あいつに襲われた……池の底に引き摺り込まれたんじゃ……誰も逃げられやせん……皆、あいつに喰われちまうんじゃ……』
その繰り返しよ。
その時、学者はふと気付いたわ。光照が居ない事に。
そして二階での、あの物音がしなくなっていたわ。
学者は恐る恐る、二階に向かったわ。ドアには鍵が掛かっていなくて、半開きになった隙間から覗く暗闇には生命の気配など全く無く、あの嫌悪感を抱かせる腐臭が冷風に乗って漂い出ていただけだった。
学者は勇気を奮い起こし、ドアを開けて部屋の中に光を中に注ぎ込んだ。その瞬間、学者は悲鳴を上げたわ。その悲鳴に呼応するかのように、階下で何かが蠢くような音がしたような気がしたけど、それに思考を割く余裕なんて無かったわ。
屋根裏には、死体が二つあったわ。
どちらも肌の色を灰黒色にして、貧弱な体に布切れを巻き付けているような状態だったわ。けどね、そのどちらも、もう人間の姿なんてしていなかったの。ぎりぎり人間と呼べる輪郭はしていたけど、人間とは呼べなかった。人間のグロテスクで醜悪な戯画ね。これが人間から生まれたものだなんて、その時の学者は微塵も思わなかったわ。そう、その死体が源三の妻の佳子と、次男の光彦だなんて考えもしなかったわ。
恐ろしいのはそれだけで無く、一体がもう一体を食べていたような痕跡があったの。
恐らく、源三の気が触れてからは食物を与える役が居なくなったのだと思うわ。
長男の光史は源三の世話をするのに手一杯になっていて、気も触れかけていたという事もあって、二階の二人には気が回らなかったのでしょうね。光照は、その頃には蒸発していたと思うし。
そして恐らく学者が死体を発見したのと同じ日に、光史の僅かに残った理性が、この二人の存在を思い出させたのだと思うの。そしてドアを開けて、この人成らざる存在を見た瞬間、残っていた理性が全て潰えたのでしょう。
それでも光史は自分も同じ存在になる事を悟り、それを恐れるがあまり猟銃を手にして、頭を吹き飛ばして忘却という逃避に走ったのでしょうね。光史は、源三に似て聡明な子だったから。
学者は取り敢えず、町に戻ることを決意したわ。
死体が出ている以上、警察を呼ばないわけにはいかなかったし、自分一人で対処出来る範囲をとっくに越えちゃっていたしね。
部屋から立ち去った学者は、ドアを閉めて階段を降りたところで、慄然たる事象に気が付いたわ。
源三が居なくなって、光史の死体も無くなっていたのよ。代わりに灰のような物質が、安楽椅子から玄関まで続いていたわ。
何事かと狼狽している最中、外から水の中に何か重い物を放り込んだように大きな音が、学者の耳に届いたの。
学者は先程の源三の言葉を思い出して、そして恐ろしい持論を抱いたわ。源三と光史の死体は、きっと池の中にあるのだと。何かが二人を連れ去り、池の中に引き摺り込んだのだと思い至り、言い様の無い恐怖に駆られたの。
そして逃げるように家から飛び出ると、慌てて拘神市の警察署に向かったわ」
志乃森助教授はそこで言葉を切ると、ボトルに残ったワインをお互いのグラスに注いだ。
私はもう、肝を冷やし気分が悪くて仕方がなかった。確かに酒の力が無ければ、聞いていられない話しだった。
「さて、いよいよデザート。物語もラストスパートね。覚悟は出来ているかしら?」
私は若き助教授を真似て、グラスを掲げた。
ここまで聞いたなら、最後まで話を聞く決意は既に固めていた。
デザートはケーキだった。
苺をふんだんにあしらった、タルトのような四角いケーキだった。ケーキと共にコーヒーも出てきて、これがまた絶妙な苦味のある上品なコーヒーだった。
「さて、拘神市の所轄署に駆け込んだ学者は、受付の警官に手早く簡潔に死体を発見した経緯のみを説明をしたわ。他の非現実的な事象や推論は、実際に現場に警官達を案内してからにしようと考えての事よ。絶対に信用して貰えないから。
学者は刑事を二人と警官三人を連れて、荒木家宅に戻ったわ。車二台に相乗りさせてもらってね。
現場の状況を見た若い刑事が、明らかに困惑の色を見せていたわ。三人の警官にしても、同じことだった。
ただ一人、老練の刑事だけは違ったわ。灰黒く染まった池や草木、家を見てもたじろぐ様子を見せず、学者の後に続いて家の中へ入って行ったわ。流石は戦争経験者。非科学的な状況にも対処出来ると豪語するだけはあって、肝の座った刑事だったわ。
やっぱり中に死体は無かったわ。一階の光史の死体は勿論、更には二階の二つの死体すらも消えていたの。源三も居なかったわ。
老練の刑事は当然その事を指摘したわ。
学者にしても分けが分からなかったけど、血痕が残っている事と床に散在する灰塵について持論を述べて、刑事を不承不承の内に納得させたわ。
死体は何者かの手によって、池に放り込まれたのでは無いか。そんな持論だったけど。
その内に若い刑事が、何故、池や草木がこんな色をしているのかと問い掛けてきたけど、学者は満足の行くような答えを持っておらず、一年前の研究における不可解な結果を説明したわ。
けど、やっぱり刑事も三人の警官も困惑の色を強くするだけだったわ。
それから刑事達は、何事かを相談し始めたわ。この奇妙な事件を、どう処理するかについての話し合いだったみたい。池の中をさらうとか、そんなことを話していたけど、誰もあんな色をした池に入りたくは無かったみたいね。
学者は蚊帳の外で、ただぼんやりと窓から灰黒色の池の方を眺めていたわ。
すると、不意に池の水面が揺れ動いたの。
それは波紋とかじゃなくて、そうね、波打つような激しい動きだったわ。
学者は驚き、慌てて刑事達の注意を池の方へ向けさせた。刑事達は皆一様に驚き、恐れ、警官の一人が悲鳴まで上げたわ。
暫く、学者と刑事達の目は池の水面に釘付けとなっていたわ。水面の灰黒い水は、粘性があってまるで生きているように激しく動いていたの。
不意に激しい地鳴りが響いたわ。それと同時に、家が激しく揺れ動き、灰化し始めたの。
老練の刑事が崩れるぞ、退避しろと叫んだわ。それに誘導されるように、皆一目散に玄関を目指して外に出たわ。
全員が外に出た一瞬後に、家はまるで砂か灰のように崩れ去ったわ。実際、灰化したのだけどね。
それとほぼ同時に、池周辺の草木も散乱していた動物の骨なんかも、灰化して崩れたわ。
こうして“焼け野”と呼ばれる場所が出来上がったの。
異常はそれだけでは終わらなかった。
池の水が、急速に収縮を始めたの。見る見る内に縮こまって行く灰黒い物体は、やがて唸り狂う醜悪な獣の姿と化したわ。人間の醜悪な戯画と言ってもまだ足りない、悪夢のような姿をした獣よ。
学者は忘れもしないでしょうね。そのグロテスクな獣の姿の輪郭が、紛れもなく行方不明となった荒木光照に似ていたと言うことを。
慄然とする学者の傍らでは、刑事達が手に手に拳銃を構えて、統率も何も無く発砲したわ。悲鳴を上げながら、六発の弾倉を数秒の内に撃ち尽くしたの。これはある意味では誉められた行動よね? 普通は戦うより逃げるわよ。
けど、獣の体は液体だった。弾丸は全く効果を発揮せず、虚しく貫通するだけだったわ。
それを、その虚弱な人間の無意味な愚行を、獣が嘲笑うのを学者は見たわ。ニヤリって、口も無いのに確かに笑った表情が、学者の目に焼き付いたの。
獣は、恐れおののく人間を見下すだけ見下し、嘲笑うだけ嘲笑うと、それ以上は何もしなかったわ。ただそこに居るだけで、ただ学者と刑事達と対峙するだけ。
それもほんの束の間の事だったわ。誰からともなく、子供のように悲鳴を上げ泣き喚きながら全員が林を目指して逃げたわ。あの屈強な老練の刑事でさえ、女のように泣いて神に助けを求めていたわ」
志乃森助教授はコーヒーを口にして、喉を潤した。
「数日後、池に戻った学者は池が丸ごと消えていることに、酷く安堵したわ。
何故、学者がその場所に戻ったかは、学者にも分からなかった。出来れば戻りたくは無かったし、忘れ去りたいとも思っていたのよ? ただ何かに促されるような、強迫観念に突き動かされるかのような、そんな漠然とした理由からだったわ。
荒木家の人間が、その死体がどうなったのか、そして荒木光照の姿をした醜悪な獣が何処へ消えたのかは、学者には分からない。
けど、これだけは言えるわ。あれの脅威はまだ、完全には去ってはいないという事よ。
あなたも箕玉村の軒並みや老人を見て、林の中に入って、焼け野を訪れたなら、その奇怪な実情を確かめた筈よ。
そう、あの林の中に棲息する動物や昆虫の姿は異形で、鳴き声は高周波の音で、そして驚異的な筋肉をしているのよ。不思議よね? もう四十年も経つし、池に水なんか一滴も残っていないのに……」
志乃森助教授は、静かにフォークを空になったケーキ皿の上に置いた。
「私が知っている事、調べた事は以上よ」
レストランを後にした私は、夜も更けてきているにも関わらず、急いで拘神市を立ち去った。丁度、夜行バスが出る時刻であった為、荷物を纏めるとそのバスに飛び乗った。
あれだけワインを飲んで、それでも意識が冴え渡っていたのは、私がある恐ろしい事実に直面したショックからに違いなかった。
私は二度と拘神市に足を運ぶ事は無いだろう。そして拘神市に流れる水道水も口にしないし、拘神市から出荷される食物も食べない。
私は若き助教授、志乃森輪廻の調査報告とは違う点を知っていた。
志乃森助教授は、池に水は一滴も無いと言った。けど、私が焼け野の池の跡地を訪れた際に、池の底に黒く淀んだ水があった事を覚えていた。そしてその水は魚の腐ったような酷い悪臭を放ち、その蒸気は夏の厳しい太陽の日差しを奇妙に屈折させていた。
もし、志乃森助教授の話を全て鵜呑みにするならば、あの焼け野にはまだ荒木家を襲った灰黒色の物体が残っているのだ。
そして灰黒色の物体は、今尚、焼け野がある林と箕玉村を侵食しているに違いない。
あの灰色の軒並み、黒ずんだ灰色に染まった老人の肌、奇妙に跳躍力の高い野うさぎ、醜悪な戯画のような半ば灰化した蝉の死骸、そして金属を切るような高周波の鳴き声。
全てが志乃森助教授の話と一致しており、その内容に疑いの余地は全く無かった。
私が拘神市を去って数ヵ月が経った頃、新聞の片隅に拘神市北部に位置する箕玉村が、ダムの底に沈んだという記事が乗っていた。
私はこの記事を読んで、一抹の安堵を感じずにはいられなかった。これでようやく、あの焼け野も黒ずんだ水も潰えたと思った。
しかし、その数日後、今度は新聞の見出しにある集団自殺の記事が載っていた事により、まだ事件は解決していない事を悟った。
記事は、箕玉村から拘神市の老人ホームに移り住んだ老人達が、ダムの中に身を投じたという内容だった。
そのダムというのが、箕玉村を水底に孕むダムだという事は、言うまでも無いだろう。
重ねて言おう。
私は二度と拘神市に行く事は無い。拘神市に流れる水道水を飲む事も無ければ、拘神市から出荷される食物を口にする事も無い。
何故なら、それらが全て黒ずんだ灰色の物体に取り込まれている可能性が高いからだ。
そう、あの灰黒い物体は、ダムに沈んでも尚、活動を続けているのだ。
恐らく老人達は、あの物体に呼ばれるようにダムに身を投じたのだろう。あの物体は、自身が取り込んだ者を決して逃がさない。
いつか、拘神市には謎の皮膚病が蔓延するだろう。肌が黒ずんだ灰色になって、突然姿を消すような事件が巻き起こるだろう。現場には砂のような灰塵のような物質が残っているだけで、死体は何処かへ消えてしまうのだ。
私は毎日、新聞やニュースで情報を得る。
その中に拘神市についての記事が無いことを祈りながら、残りの人生を生きていかなければならない。毎日が恐怖でならない。気が狂いそうだ。
それが真実を知ってしまった者の代償であり、責任でもあるのだろう。
しかし、ただの人間に過ぎない私が、あの灰黒色の物体に対して抗う事など出来やしない。いや、私で無くともこの地球上に存在する何者にも、あれに対抗する術は無い。
その証拠に、私はある悪夢を連日見る。
その悪夢がどのようなものなのか、最後にそれを記そう。
では、これをお読みの皆様は、どうか食物や水に灰黒色の物体が混ざっていないか確認してから口にして下さい。それが唯一、あれの侵攻を遅める方法なのですから。
夢の中で私は、あの林の中で見付けた焼け野に立っていた。
相変わらず木の一本、雑草の一本も生えていない焼け野は肌寒く、そして何とも不快な腐臭のような生臭い臭いが充満していた。
違っている事は、昼間は聞こえなかった蝉を含む昆虫の鳴き声が聞こえたことと、溜め池か何かの跡地らしい大きな窪みに、水が並々と入っている事だった。
しかし、その水は果たして水と呼べるものなのか。
水、と敢えて呼称しよう。
水は黒ずんだ灰色に染まり、不規則に蠢いている。そしてやたらと粘性があるように見えた。
その灰黒色の水は、沸々と泡立っていた。別に沸騰している様子は無く、水が動く度に空気が生まれているようだった。まるで化学物質で汚染されているかのようだ。
私は水を見ていた。
無定形に形を変える水面を、ぼんやり見詰めていた。
じっと凝視していると、水が徐々に溢れ返ってきている様な気がした。いや、実際に溢れて来ている。
徐々に、そして確実に規模を拡大している水は、いつの間にか私の足下の直ぐ側まで来ていた。
私は驚き、そして逃げた。
全速力で走り林の中に逃げ込むと、木々の間から水の動向を伺った。
水は速度を増し、林にまで差し掛かろうとしていた。そして林の一番端の木に触れた刹那、木の幹から枝から葉までが黒ずんだ灰色に変色し、砂か灰にでもなったかのように、さらさらと音もなく崩れた。
私には何が起こったのか分からなかった。けど、何故か木の生命力が吸われたのだと予想が付いた。
その証拠に、水の勢いは更に増した。
私は全身に戦慄を覚え、また全速力で走った。
恐らく、あの水に触れれば私も同じように灰化して崩れ落ちる事になるだろう。水に生命力を吸われ、脱け殻となった私は、形も残さずこの世から去ることになるだろう。
私は走り、とにかく逃げた。
水の勢いは更に増す。自然から生命力を吸収する度に、速くそして大きく。
私は走る。逃げる。
しかし、どこまで走っても出口は見えず、それどころかどんどん林も深くなって行っている気がした。
ふと背後を振り返った。
水は私の背丈程に膨れ上がり、不定形に姿形を変えながら直ぐそこまで迫っていた。
それは最早、水とは呼べなくなっていた。
何かとても邪悪なモノだった。
灰黒色の不定形で醜悪で邪悪な生物が群れとなって、林の木々や草花、昆虫に野性動物を次々に貪り喰らいながら、遂には私までを喰らおうと追い縋って来ている。
あぁ、神よ!
あれは混沌だ!
邪な神がこの世にもたらしせしめた悪逆だ!
私を含めたこの世界の全てを呑み込み、そして成長し増幅する邪悪な存在だ!
神よ、仏よ!
どうか私達に慈悲を!
私は狂ったように叫んだ。
そして最後にもう一度、この世の善なる神に命乞いをした瞬間、突然私の足下が灰化して崩れたのだ。
私の視界は一瞬の内に真っ暗になり、体がプールにでも落ちたかのように濡れて凍えた。とうとう水に呑まれたのだと、冷えた理性が静かに告げるのであった。
本作をお読み頂き、大変お疲れになられたでしょう。
後書きまで諦めずに読んで頂き、大変感謝しております。
本作は、怪奇作家『ハワード・フィリップ・ラブクラフト』が一九二七年三月に執筆し、『アメージング・ストーリイズ』一九二七年九月号に発表された『The Color out Space』のパロディー小説です。
私が読んだのは翻訳家『大瀧啓裕』訳『ラブクラフト全集』四巻に掲載された『宇宙からの色』ですので、どちらかというとそちらのパロディー小説になります。
パロディーと言っても、話の大筋を参考にしただけである為、大体は私の脳内で構築されたオリジナルの内容になります。
類似点や相違点については、ここで述べるべきでは無いでしょう。是非、『ラブクラフト全集』四巻に掲載される『宇宙からの色』を読んで頂きたい。
ところで、お気付きでしょうか?
物語の鍵となる志乃森輪廻助教授の、説明の際の口調について。まるで当事者のような口調で、主人公に語りかけてましたね。
それは決して執筆中にあやふやになったわけではないという事を、この場でお断りしておきます。理由については、言わなくても構わないでしょう。
それからもう一つ、拘神市や箕玉村は本作オリジナルであり、実際に同名の都市があったとしても、本作とは全く関係ありませんので、その辺りのご理解はお願いします。
では、もう一度、本作をお読み頂きありがとうございました。ご意見やアドバイス等あれば、受け付けておりますのでお気軽に。クレームがある場合、どうかオブラートに包んでお願いします。何も無ければ、無くて良いです。