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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
五章
99/208

Belle et Bete 【8】

 四月は冬の寒さの峠を越えて一日毎に暖かくなっていく。窓の外に見える午後の空も快晴で、爽やかな風に草木がそよいでいる。


「お母さんが目覚めたら何をしたいですか?」

「ディアナと一緒に美味しいものを食べて、ディアナと買い物して、ディアナにぴったりな服と花を選んで、ディアナと」

「済みません、訊いた私が悪かったです。そこまでにして下さいお願いします」


 ディアナディアナディアナと執拗に名前が繰り返され、クロエは頭痛と悪寒がした。

 黙ってさえいれば完璧な美青年の実態が、ただの色呆けした男だと知ってしまうと生暖かい気分になる。人間換算にすると彼は三十代のようだが、クロエからすると関係ない。何歳であろうと大人げない。

 ヴィンセントのいるベッドから離れた席につくクロエは、心の中で溜め息をついた。

 ここ数日のヴィンセントは麻酔弾の副作用も落ち着き、施設内を歩き回っている。

 ヴィンセントが行く場所は一つしかない。そう、ディアナの眠る部屋だ。彼は毎日のように通っているらしかった。

 その一途さはとても悪人には見えない。愛しく想う相手の元に寄り添う様子は恋する乙女のようだ。

 だが、その人物の実態を知り、散々振り回されて痛い目を見てきたクロエは面白くなく思い、つい皮肉を言ってしまう。


「私、とても良いことを思い付きました」

「お前の頭で考えられることなんて高が知れてるけど、何さ?」

「ローゼンハインさんのこと、お父さんって呼んでも良いですか」


 そんなにディアナが好きなら結婚すれば良いのだ。

 責任を取れという意味でじっと睨むと、ヴィンセントは悪辣とした笑みを浮かべた。


「殺して良い? お前のこと本気で捻り潰して良い? 大体、父親ならエルフェさんがいるじゃない」

「そうですね。これからは立場上はエルフェさんが父親になります。でも、ローゼンハインさんがお母さんと結婚したら貴方も私の父親です」

「何で俺がディアナと結婚することになっているわけ?」

「それは責任を取ってもらわなければ困るからですよ」

「へえ……?」

「それに……もしかしたら本当にお父さんかもしれませんし」


 万が一ということもある。出自に関して「己の父はアンセム・メイフィールドのみ」と割り切ったクロエであるが、気になる気持ちも捨て切れないでいた。

 そんなクロエに、ヴィンセントはきっぱりと言い切る。


「いや、絶対にないよ」

「どうして言い切れるんですか?」

「俺の娘だったらもっと美人になっているはずだ」


 クロエは一瞬、耳を疑った。

 論理的な回答が返ってくると期待していただけに衝撃を受けた。


「この絶世の美貌を誇る俺の子供だよ? お前みたいな残念な面になるはずがない」


(凄いよね)


 自画自賛もここまでくると凄い。そこまで自信がある癖に恋愛に奥手というか、粘着質なのは何なのだろう。

 クロエはヴィンセントという人物が何を考えているのかさっぱり分からない。

 レヴェリーが言うように性格が悪くなったことをうっすらと自覚しながら、クロエは告げた。


「あのですね、ローゼンハインさん。マイナス掛けるプラスはマイナスなんですよ」

「俺がプラスでディアナがマイナスって訳か」

「いえ、逆です。お母さんが幾ら美人でも、ろくでもない人が合わさった時点で終わりです。だから、貴方が親だとしても私は残念な出来になる運命です」

「ねえ、やっぱり殺して良い?」

「……あ、済みません。もう時間なので失礼します」


 クロエは椅子を引いて身も引くと、そのまま立ち上がった。

 ヴィンセントと上手く付き合うには引き際が重要だ。もう悪党のすることに対して心に小波一つ立ててなるものかと誓うクロエは、いそいそと帰り支度をした。


「ちょっと待ちなよ。話はまだ終わってない」

「私は待ち合わせがあるので遅れる訳にはいきません」

「待ち合わせって、誰さ?」


 じっと細められていたピーコックアイが更に鋭くなる。

 答えても不快になるだろうし、隠しても憤るだろう。クロエは素直に答えた。


「ルイスくんです」

「何であの子と待ち合わせするわけ?」

「今から花の展覧会に行くんです」


 いつぞや花屋でもらった招待券の日時が今週だった。

 クロエが駄目元でルイスを誘ったところ、応じてもらえた。断られることを想定し、いざとなれば一人で行くという気持ちでいたので殊更嬉しい。


「へえ……? デートの序でにご主人様の見舞いをするんだ? 舐めるのも大概にしなよ」

「お見舞いの花もちゃんと買ってきますから」


 クロエはもうヴィンセントのことを主人として欠片も慕う気持ちはなく、寛大な心で聞き流した。

 好かれたいと仰いでいたから苦しいのであって、対等の相手と考えればその苦さは薄れる。

 お気に入りのビーズの刺繍が施された鞄を腕に掛けたクロエは扉に手を添え、振り返る。


「じゃあ、またきますね。――ヴィンセントさん」


 己の前に立ちはだかる全てを捩じ伏せる意思の強さを窺わせる瞳が、きょとんと丸く見開かれた。

 先日よりも更に大きく、ヴィンセントの表情をここまで崩すことができたのは初めてだ。痛快な気分になったクロエはやっとそこで笑顔を――してやったりの笑みを浮かべた。






 【ロートレック】のベルシュタイン市あるシゴーニュの森ボア・ド・スィゴーニュは、国で二番目に大きい公園ジャルダン・ピュブリックだ。

 クロエがルイスと待ち合わせの約束したのは、南口にある天使の像の前だ。

 約束の時間より早めにやってきたクロエは像を探しながら公園を見回した。

 若者たちが本を読んだり、スポーツをしていたりする。子供たちはかくれんぼや鬼ごっこをして、家族連れが散歩している。運河の畔では老若男女問わず、恋人と語らう者たちの姿も珍しくない。これは下層部では見られない光景だ。

 クロエの育った【ベルティエ】の中心部は機械化が進んで空気が悪く、雑音も酷い。

 対して、貴族や富裕層が暮らす【ロートレック】の時はゆったりとしている。

 日々の生活にゆとりがあるからこそ、自然を愛でることができるのだろうか。気難し屋と言われるシューリス人の一つの側面を知ったクロエだった。

 天使の像を探していると、それよりも先に特徴的な薄茶色の髪を見付けることができた。

 陽避けの屋根があるそこは、テーブルにチェス盤が嵌め込まれている、チェス愛好家のたちの憩いの場だ。

 クロエは声を掛けようとして思い止まる。彼の向かいには、連れと思しき人物がいた。


(先生と、【ヴァレンタイン】の社長さん……?)


 二人からやや離れた木陰に控える黒髪に黒のスーツ姿の従者はファウスト(ジルベール)。そして、ルイスが向かい合っている金髪碧眼の男性は、ヴァレンタイン侯爵オーギュスト・エクトルだ。

 深みのあるワインレッドのフロックコートにパープルのタイを合わせた姿は人目を引き、実際周囲の視線を集めているが、華美な装いが嫌味に映らないだけの貫禄を備え持っている。

 貴族とはどうしてこうも美しいのだろう。クロエの決して手の届かない別世界の存在だ。


(待ち合わせの場所で待っていた方が良いよね)


 親子の時間の邪魔をしたくはないし、これでは盗み見をしているようで罪悪感がある。

 クロエはチェスコーナーを出ようとする。その時、目が合った。


「わ……っ」


 グラスグリーンの瞳と視線がぶつかったクロエは咄嗟に近くの木の陰に隠れた。

 厄介な相手に見付かってしまった。頼むから見逃してくれと必死に祈る。だが祈り虚しく、黒髪緑眼という偽りの姿に扮した従者はクロエの元へやってきた。


「こんにちは、クロエ嬢」

「こ、こんにちは」

「ここにいるのは偶然ですか?」

「いえ……、あの人と約束を」


 クロエはだらだらと冷や汗を流しながらファウストを見上げる。そこで更に汗を掻いた。

 ダークスーツに黒のタイという正装をしているファウストは酷く胡散臭い。白衣姿もその独特の清涼感が胡散臭さを醸し出しているのだが、背広姿はそれとは別種の怪しさだ。

 彼の額にはうっすらと切り傷があり、従者として振る舞っている時は化粧で隠している。それだけで雰囲気はがらりと変わるが更に眼鏡を着け、目にはカラーコンタクトレンズを入れ、声も変えている。丁寧に髪や睫毛まで黒く染めているので、クロエは色々な意味で感心してしまう。寧ろ恐ろしくてならない。

 ファウストは色々な意味で戦慄(わなな)くクロエの様子をくすりと笑い、それから視線を下げた。


「髪型を変えられたのですね」

「はい、気分転換に。それよりもお仕事は良いんですか?」

「こんな場所に金髪碧眼の美女が一人でいれば声を掛けずにはいられませんよ」


 ファウストはにこりと笑って答えた。その笑顔は完璧な社交辞令だ。


「安心して下さい。ここからでも務めは果たせますので」


 寧ろ、離れていた方が周囲の様子に気を配れると語った。

 風の中に花弁が舞う。

 吹き付ける風は涼やかだ。頭上を見やると薄桃色の花が揺れている。淡い色の花を一層儚く染める眩しい光に、クロエは青い瞳を細めた。


「貴女はこの花の名を知っていますか?」

「桜ですよね」

「ええ。では、桜が何故赤いのか知っていますか?」


 桜は枝や幹の中に花の色を出す成分が詰まっている。だから、染物をする時は花ではなく幹を使う。

 クロエは先日読んだ本に書かれていたことを答えようとする。

 しかし、それよりも先にファウストは告げた。


「根元に死体が埋まっているのですよ」

「え……」

「その腐肉が肥料となって木を育て、その血が花を赤く染めているのだという説があります」


 今の話は内容が酷い。花を見ながらするような話ではない。


「何が言いたいんですか?」

「美しいものの下には醜いものがあって然るべきです。それを見る覚悟がないなら近付かない方が良い」


 月は太陽に照らされているから美しいのであって、傍で見ればただの岩でしかない。それと同様に、美しい人間には穢れがあって然るべきだと黒衣の従者はかく語る。

 ファウストはくつくつと喉を鳴らし、含むところのある様子で深く笑った。

 小馬鹿にされているように感じたクロエは眉を顰め、口を開いた。


「花の美しい理由を知る為なら、土の下を覗くことを恐ろしいとは思いません」

「ふむ……」

「そのものを作り上げた一部なら、どんな過去でも価値のないものではありませんもん」


 吹き付ける風と共に、木陰で翼を休めていた鳥たちが飛び立った。

 ファウストはひらひらと落ちてくる花弁をまるで小鳥でも招くような優しい手付きで捕まえる。それから小さくてか弱いそれをまるで慈しむように婉然(うっとり)と笑い、躊躇(ためら)いなく握り潰した。


「では、手足を潰して(はらわた)でも引き摺り出してみますか?」


 信じられない言葉にクロエは怯む。その瞬間、ぐいと髪を掴まれる。

 痛くはないが突然のことに動きが止まる。そして、凍り付くその耳許で低く告げられた。


「そんな風だといつか死にますよ」

「…………っ!」


 クロエは目を見張り、咄嗟に突き飛ばした。そうしたところで、そんな自分の行動に驚いて青冷める。ファウストは可笑しそうに喉を鳴らした。

 からかわれたのだろうか。いや、彼は本気だった。

 ファウストは悪意がないだけで、下手をすればヴィンセントよりも性質が悪い。悪人ではないが、善人でもないことが良く分かった。


「……先生は悪趣味です」

「ははっ、良く言われますよ」


 ファウストはまるで他人事のような口調で応え、クロエは眉根を寄せた。

 ふと、足音に気付いたクロエは目をやる。

 現れたのは濃紺のシャツにタイ、コンチネンタル風のスーツを纏った紳士だ。

 まだ大人の男性の色香が身に付かない清純な雰囲気を持ちつつ、うっすらと陰を感じさせるその者を少年と称するべきか、青年と称するべきか悩むところだ。曖昧な雰囲気を纏う彼は、自らの従者に冷めた目を向けた。


「白昼堂々何をしているんだ?」

「人聞きが悪いですねえ。私はまだ何もしていませんよ?」

「そうか。なら、何か仕出かす前に持ち場へ戻れ」

「はい、分かりました。ご主人様」


 歯切れの良い声でそう答えると、ファウストは主従の礼儀として一礼して踵を返した。

 クロエが呆気に取られていると、ぐっと手を引かれた。


「行こうか」

「え、でも――」


 彼は返事を待たずに歩き出す。クロエは手を引かれるまま追うしかない。

 手袋越しの手の感触は曖昧で、不安になる。


「お父様とはもう良いんですか?」

「あのままだとキミがまたろくでもないことを吹き込まれそうで怖い」

「邪魔してしまってごめんなさい!」

「話は終わっていたから良いんだ。寧ろ、きてくれて助かった」

「え……?」

「あの人を負かさないように勝負するのは難しいから」


 相手を立てるようにチェスの駒を動かすのは難しい。養父であるヴァレンタイン侯爵に苦手意識のある彼は、クロエを口実に逃げてきたらしかった。

 髪を整え、礼服を纏った彼は大人っぽい。クロエの知るルイスではなく、ルイシスの顔をしている。クロエは貴族としての彼を前に緊張してしまったが、内面は普段と変わりないようだった。

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